センター入り口で、センター蔵書のミニ展示を行っております。
子どもの世紀 表現された子どもと家族像
神宮輝夫/髙田賢一/北本正章 編著
ミネルヴァ書房 2013年
展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。
本書では、本学専任教員・非常勤講師の先生方、児童文学専攻OGの方といった、本学にゆかりのある方々が多数執筆していらっしゃいます。
センター入り口で、センター蔵書のミニ展示を行っております。
子どもの世紀 表現された子どもと家族像
神宮輝夫/髙田賢一/北本正章 編著
ミネルヴァ書房 2013年
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1951年②
レオーニは1949年から『Fortune』誌の社外アートディレクターを務めていたが、この年、同誌の誌面全体のレイアウトを一新した。図録に収録された森泉文美による解説「『Fortune』での仕事」(pp.55-56)によれば、リニューアルは9月号を境に行われたとのこと。
1冊ごとの流れも、こんなふうに見直したという。
雑誌全体の構造に関しては、広告と本文をわけ、目次、約70ページにわたる広告、最新情報と前号の評、特集記事、そして最後にまとめ的なコラム、という流れが作られました。(p.56)
記事を読んでいる最中に、本文を広告に分断されたらきっと鬱陶しく感じるはず。広告と本文が分かれているというのは、雑誌の記事をじっくり読みたい読者としては嬉しいことである。また、広告デザインに興味を持つ人からしてみれば、本文から切り離された「約70ページにわたる広告」のゾーンで、多種多様な広告を見比べることができたのではないだろうか。
表紙の「構造」も面白い。
表紙タイトル上部にはギリシャ神殿のファサードのような「フリーズ」と呼ばれる帯が設けられ、表紙下部とは違う作家によるコメント的な絵が加えられるようになりました。(p.56)
図版には、この「フリーズ」のある表紙2点(1957年7月号・同年5月号)が掲載されている。タイトルの「FORTUNE」の文字を境界線として、「フリーズ」は表紙全体の上部15パーセントくらいの面積を占めている。ミクロの世界とマクロの世界、あるいは、人々の暮らしと産業といったところだろうか。同じ画面に異なる二つのストーリーを感じさせるものが描かれているのが面白い。
こんなふうにして『Fortune』をリニューアルした1951年、レオーニは第1回世界デザイン会議の議長に選ばれたそうだ。場所は、コロラド州アスペン。
え?1951年に第1回世界デザイン会議…? 1960年の東京開催が第1回じゃなかったの?と、頭のなかを「?」でいっぱいにしながら、グーグル検索でキーワードをとっかえひっかえして、ようやくヒントにたどり着いた。「紙の竹尾」のwebサイトの「竹尾の紙とデザインの歴史」という年表のページである。このページに記載された1951年の海外の動向のなかに、「アスペン国際デザイン会議設立」の言葉を見つけた。
この「アスペン国際デザイン会議」を検索語としてさらに検索してみたところ、アートスケープのwebサイトで「世界デザイン会議」を解説するページにたどり着いた。
このページ自体は1960年の世界デザイン会議を解説するものなのだが、その中に「アスペン会議」という言葉が出てくる。
戦後、デザイン界における日本人の活躍を背景として、56年のアスペン会議(アメリカ、コロラド州アスペンで行なわれたデザイナーの集会)において、日本での国際会議の開催が決議された、その結果として、第1回世界デザイン会議が、60年5月11日から16日まで、東京の大手町産経会館で開催された。
打集宣善「世界デザイン会議」
ええと…つまり、1960年の「世界デザイン会議」東京開催を決議した団体ということで、この「アスペン会議」を「(本家)世界デザイン会議」として年譜に記載したということだろうか? 本家などと言うと、なんだか老舗の和菓子屋さんのようである。
…そんなわけで、レオーニと世界デザイン会議の関係をはっきり教えてくれる資料は、ネットではみつからなかった。今日のところはお饅頭でも食べて、ひとやすみしよう。
【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357
「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし
打集宣善.“世界デザイン会議.”アートスケープ. https://artscape.jp/artword/6190/,(参照2024年4月18日)
“紙をめぐる話 竹尾の紙とデザインの歴史.” 竹尾. https://www.takeo.co.jp/reading/others/01_02.html,(参照2024年4月18日)※
※紫牟田伸子編『紙とデザイン——竹尾ファインペーパーの五〇年』(竹尾、2000年)巻末附録を再録したもの。
この年、ムナーリは1月と11月に個展を開催している。1月に開催された個展は、その名もずばり「ムナーリ」展(ミラノ、チェントロ・ストゥーディ・グラフィチ)。11月に開催された個展は「ブルーノ・ムナーリのファウンド・オブジェ・コレクション展」(ミラノ、エリコッテロ画廊)。
ファウンド・オブジェって何だろう?と、『岩波西洋美術用語辞典』(2005)で調べてみると、フランス語の「オブジェ・トルヴェ」で載っていた。
「見出されたもの」という意味。自然物にせよ人工物にせよ、芸術家によって意図して制作されたのではないにもかかわらず、芸術家が何らかの美的効果や具体的な対象との形態的類似を認めたもの。ダダ、シュルレアリスムなどの芸術家に好んで用いられた。英語で「ファウンド・オブジェクト」ともいう。(p.64)
「自然物」と「人工物」の両方だということだから、当てはまりそうな「もの」の範囲が広すぎて、ちょっと想像しづらい。ただ、「ファウンド・アート」という言葉が、ダダやシュルレアリスムといった芸術運動とご縁のある用語であることは分かった(そう言えば、今年はアンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を発表してから100年目に当たる年ではないか!)。
時代をちょっと先取りすることになるが、50年代後半のムナーリは、折りたたんで持ち運べる〈旅行のための彫刻〉のシリーズに取り組んでいる。「もの」と「もの」を取り巻く空間との関係性に対する関心を継続して持ち続けているのだろうな、と想像した。
また、ムナーリは同じ年に4つのグループ展に参加している。そのうちのひとつ、11月から12月にかけて開催された「ベルナスコーニ・コレクション」展のために、手作りの《読めない本》を12種類、各20部制作したそうだ。全部で240部の本を手作り…芸術家って、ほんとうに大変だなぁ。
【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357
「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし
益田朋幸・喜多崎親編著『岩波西洋美術用語辞典』岩波書店、2005年
遠藤知恵子(センター助手)
センター入り口で、センター蔵書のミニ展示を行っております。
かっこいいピンクをさがしに
なかむら るみ 文・絵
たくさんのふしぎ 2024年3月号 福音館書店
展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。
児童文学専攻OGで本学非常勤講師の柗村裕子先生が登場します。この絵本は、柗村先生がご寄贈くださいました。
この年、レオーニはコネチカット州のグレニッチ(都市の名称、原文ママ。ニューヨークから見て北東に位置するGreenwichのことだろうか)に引っ越しをする。この年に「想像肖像」というシリーズを始めたとある。「想像肖像」シリーズの作品は、1963年の個展で展示されることになる。図録のキャプションには、「このシリーズは記憶の中にある顔とその正面性を追求したもの」(p.115)という説明がある。眼差しの強さは描かれた顔によってまちまちだが、静かに見つめていると、絵の人物から見つめ返されるような厳粛な感覚がある。
また、1950年の項目には「ニューヨークに移ってからは、ボブ・オズボーン夫妻やアレクサンダー・カルダー夫妻と交流を深め」たとある。1年のうちに2度も引っ越しをしたのだろうか。作品制作や人的交流もさることながら、その引っ越しの多さに驚いてしまう。
一方、ムナーリは1948年に設立に加わった具体芸術運動に関連する作品制作を続けており、1950年には「読めない本」シリーズと「陰と陽」シリーズの個展をそれぞれ開催。また、第28回ミラノ国際見本市のモッタ社のパビリオンのために設計を……ん? モッタ? え? モッタ? あのMotta?
思わず何度も読み返してしまったのだが、それというのも同じ製菓会社で、レオーニが働いていたことがあったからだ。1934年に就職した製菓会社モッタ社の広告宣伝部門で、レオーニは「モッタレッロ」というキャラクターをデザインしていた。まさか1950年のところでモッタに再会するとは!
モッタ社は戦前、パネットーネ(イタリアで食べられるクリスマス用のケーキ)やコロンバ(やはりイタリアの、イースターのお菓子)で成功していた。年譜によると、ムナーリが設計したのは、モッタ社のパビリオンのため、高さ12メートルの《役に立たない機械》だったそうだ。
生活にワクワク感や潤いを与えてくれるお菓子を作る会社と《役に立たない機械》の組み合わせ、なんだかいいな…などと思いながら、レオーニが若い頃に手がけた広告の図版を再び眺めるのだった。
【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357
「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし
茶色の猫さんが、植え込みを歩いていきます |
何かを見つけた様子で、立ち止まりました |
じーっと見ています… 何を見ているのでしょう? |
あっ、立った! それにしても、猫って長いですね |
今回は、ムナーリの年譜を読んでいこう。
1949年、ムナーリは3月に個展を開催し、4つのグループ展に参加している。また、「第27回ミラノ国際見本市でモンテカティーニ社の展示プランを手がける」(p.345)とある。どんな仕事だろう。作品展示と違って、ちょっと想像しづらい。ムナーリ自身の作品でないと、図版入りで紹介されることは滅多にないので、かえって気になってしまう。
ともあれ、この年もムナーリは活躍中である。前年に引き続き、具体芸術に関連する作品展示(グループ展の「具体芸術ポートフォリオ第4集 リトグラフ24点」に参加。会期は9月24日-10月7日。会場はミラノのサルト書店)に参加し、世界的な芸術運動の只中に身を置き、途切れることなく作品発表を続けている。
1949年は玩具に関する事柄がふたつある。ひとつは雑誌掲載、もうひとつはグループ展への参加である。
まずはグループ展。12月に、ムナーリはミラノのアンヌンチャータ画廊で「アーティストのおもちゃ(クリスマス・プレゼント)」展に参加している。前年にも、同じ画廊で開催された「アーティストのおもちゃ」展に参加していた。1948年のグループ展の名称には「クリスマス・プレゼント」という言葉は見られないけれど、開催されたのは12月。やはり、クリスマスを意識した作品展だったと考えて間違いないのではないだろうか。
次に雑誌記事について。ムナーリの挿絵と写真付きの記事「ナイロンのひげをもったフォームラバーの猫」が『ピレッリ―情報と技術の雑誌』誌2巻第4号に掲載されたとある。年譜によると、この記事で紹介された猫の玩具は、ワイヤー入りのフォームラバーで作られた玩具、《小ざるのジジ》の原型となったそうだ。後年、ムナーリはこの《小ざるのジジ》でコンパッソ・ドーロ(金のコンパス)賞を受賞することになる。フォームラバー(foam rubber)はマットレスやクッションなどの素材にもなる、海綿のような多孔性のゴムである。「ナイロンのひげをもったフォームラバーの猫」の図版は残念ながら図録に収録されていないのだが、軽くてソフトな、肌ざわりの良い猫ちゃんだったのであろうと推察される。
図録では、ムナーリの言葉を引きながら具体芸術の作品の特徴を説明している(p.83 文章:奥田亜希子)。作品を構成する色と色、そして形と形の組み合わせが楽しい絵画作品や、ページをめくるごとに変化する「読めない本」シリーズなど、この時期のムナーリの作品は、色、形、動き、またそれらの関係性といった構成要素それ自体を味わい、全体の調和を楽しむことに力点が置かれているらしい。それらは、現実世界のあれこれのなかに、参照事項を持たない作品群である…が、まぁそうは言っても、作品から意味や物語を読み取るのは私たち鑑賞者の勝手であるし、それは具体芸術運動に参加していた当時のムナーリの作品であっても変わらない。
ただ、絵の背景と思っていた白や灰色の部分が、画面をじっと見ているうちに主役のように引き立って美しく見えたり、入り組んだ形に組み合わされた色面ががっぷり四つに組んでいるように見えたりして面白いのは、きっと、ムナーリの苦心の賜物なのだろう。
【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357
「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし
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ブライアン・フラウド 絵 アリ・バーク 文
ルーンの魔法のことば 妖精の国のルーン文字
神戸万知 訳 原書房 2007年
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今回は、レオーニの年譜を読んでいく。
前年、大手広告代理店を退社し、フリーランスのデザイナーとなったレオーニは、CBS放送、オリヴェッティ・アメリカ支店などのポスターや広告を手がける。オリヴェッティはタイプライターなどの製造販売をする企業である。1931年にムナーリがリッカルド・リカスとともにミラノで立ち上げた「ストゥディオR+M」でも、オリヴェッティ社の仕事をしていたことが思い出される。
また、この年から1962年にかけて、レオーニはビジネス雑誌『Fortune』の社外アートディレクターを務める。『Fortune』での仕事について、この時期の解説「グラフィックデザイン:アメリカ時代」(p.38文章:森泉文美)には、「『Fortune』を約10年にわたってビジネスマンのための文化的な媒体に育て上げ」たとある。
『Fortune』は、『TIME』や『LIFE』を発行するタイム社のヘンリー・ルースが1930年2月に創刊した。図録の解説「『Fortune』での仕事」(pp.55-56 文章:森泉)によると、「創刊当時に掲げていた目標は「美しい本づくりで『ビジネスに文学の形』を与えること」で、リサーチャー(主な担い手は大学を卒業した女性)と記者がユニットを組み、取材し、幅広い分野にわたる、内容の確かな記事を作っていた。写真やイラストレーションといった視覚的要素も重視され、それらが「ビジネスマンの事業をドラマティックに語るのに最適」と考えられていたのだそうだ。「ビジネスマンの事業をドラマティックに」と言われると、城山三郎の経済小説を思い浮かべてしまうけれど、あくまでもデザインの話である。
「『Fortune』での仕事」によると、レオーニは1949年7月号からこの雑誌のアートディレクションを担当し、それから2年あまりが過ぎた1951年9月号から、編集方針の変更に従い、雑誌の構造を変えていった。フォントをより読みやすいものに変更し、余白を有効活用、広告と本文を分け、記事の流れをつくり、整えた。さまざまなアーティストを起用し、毎号変化に富んだ表紙が賛否両論を呼び、当時の美術学校の制作課題となることも多かったという。さらにレオーニは『Fortune』で表紙のデザインコンクールを企画し、1953年5月号でアメリカのデザイン学校を特集、コンクールで優勝したハロルド・Y・シルヴァーマン(当時、イェール大学芸術学部の学生)の作品を同号の表紙に採用した。
解説文から離れて年譜に戻ると、この年、レオーニはMoMA(ニューヨーク近代美術館)で開催された第28回アートディレクターズ・クラブ広告出版芸術賞に出品し、2つの賞を受賞している。この時期のレオーニの活躍ぶりに、眩暈がする思いである。
だが、『Fortune』1953年12月号の年間購読贈呈用クリスマスカードの図版とキャプションを見ると、どんなに活躍していても、以前と変わらない部分もあるのかな?と思えてくる。蛇腹状に折りたたまれ、1面ごとに1文字ずつ、MERRYCHRISTMASが記されたカードの裏側には、1951年から53年までの表紙と、使用されなかった表紙案が12枚印刷されている。使用されなかった表紙案からは、レオーニがかつて勤めていたN.W.エイヤーで、社内限定で刊行されていたと推測されている没原稿集のことが思い起こされる。没原稿にはユーモアある言葉で、没になった理由が赤字で書き込まれていた。
大量の案のなかからたった一つが採用されるのがデザインの仕事というものなのだろうけれど、選ばれたものはその状況における「最適解」なのであって、没になったものが魅力に欠けているとは限らない。没原稿に対する人道的なふるまいは、フリーランスになってからも変わらなかったのではないか、そんなふうに想像してみると、少し嬉しくなってくるのである。
【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357
「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし
遠藤知恵子(センター助手)
2024年2月7日撮影 雪がまだ残っていた頃 |
2024年2月7日撮影 氷の張った池に、鴨がやって来た |
2024年2月15日撮影 梅が咲きました |
センター入り口で、センター蔵書のミニ展示を行っております。
レクチャーブックス 松岡享子の本1
お話について
松岡享子著 東京子ども図書館 2023年
新着の寄贈図書です。
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鷲津名都江
ようこそ「マザーグース」の世界へ
日本放送出版協会 2007年
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リリアン・H・スミス
『児童文学論』
石井桃子 瀬田貞二 渡辺茂男 訳
岩波現代文庫 2016年 (初版: 1964年4月 岩波書店刊)
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「初心忘るべからず」ということで、年明け最初の展示は児童文学研究の基本書のうちの1冊にしました。久しぶりに、手に取ってみませんか?