2021年4月30日金曜日

センター閉室のお知らせ

児童文化研究センターは、5月3日(月)から7日(金)まで閉室とさせていただきます。
ご不便をおかけいたしますが、なにとぞご了承くださいませ。

新緑の美しい季節となりました。
どうぞお体にお気をつけてお過ごしください。

 

2021年4月28日水曜日

第4回書評コンクール 作品公開のお知らせ

 第4回書評コンクールへの応募作品を公開いたします。

 ご応募くださった皆様に心よりお礼を申し上げます。ありがとうございました。

 本日より5月19日(水)まで、センター構成員の皆様からの投票を受け付けたいと存じます。良い!と思った本の書評を一つ選び 、書評番号を本文に記入したメールを児童文化研究センターまでお送りください。最優秀作品の発表は、20日(木)です。皆様のご参加を、お待ちしております。


【書評】やなせたかし作・絵『チリンのすず』フレーベル館、1978年

主人公は羊の「チリン」。その名の由来は、首についた金色の鈴。

「ひつじなんて けがもしゃもしゃして たべにくいのに。みどりいろのくさのほうがおいしいのに。」

子羊のチリンには、オオカミが羊を食べるということも分からない。

しかし、ある日オオカミのウォーによってチリンの母は殺される。オオカミのウォーに弟子入りして…。

と、あらすじはこんな感じである。

羊と狼においては、多数の物語が存在する。

そしてその多くの物語では主人公の羊は孤独な狼の心を動かす存在として描かれている。

しかし現実では、狼は羊を生かしてそばに置くことはないし、羊自ら狼に近づくこともない。

そこには、フィクションにはあって現実にはないものがあると思う。

それは、「人間の感情」だろう。動物に感情があるのかないのかという討論になればこの書評を超えて多くの研究を重ねる必要があるが、確実に言えるのは、彼らには「人間の感情」はないということだ。しかし、そんな彼らに作者の「人間の感情」を加えるとどうだろう。

羊は、母のため狼にだって立ち向かうし、狼は餌である羊にだって心を開く。

他の動物にも、同じように同情や友情、愛情を感じるのが「人間の感情」の最大の特徴であるように思える。

「チリンのすず」でもそうだ。

チリンは、母を殺されたウォーへの憎しみと、おそらく母よりも長く弟子として連れ添ってきたウォーとの友情、両方を抱えている。

また、チリンのトレードマークである金色の鈴の音で、チリンの状況を示している。

”チリンのすずでおもいだす やさしいまつげを ほほえみを チリンのすずでおもいだす このよのさみしさかなしみを”

この文が物語の始まる前に書かれている。

子羊のチリンにとって、自分をかばって死んだ母が絶対的な正義であった。

よってその要因となったウォーは必然的に悪となるのだが、チリンの正義は、自分の中の、羊と狼の存在の曖昧さに自然移っていったのだと思う。

チリンは母を思い出す時、羊であったし、ウォーを思い出す時狼であったのではないか。

そしてそれは、読者サイドも同じで、羊であるチリンの気持ちで本を読み進めいつの間にか自分が羊なのか狼なのか、どちらの感情でいたら良いのかわからなくなる。

また、チリンの感情が多く描写されているのに対し、ウォーの感情はあまり描かれていない。

いっそウォーが最後まで完全な悪であったならば、この本を通して羊の感情で見ることができるのに、とも思った。

ウォーの感情を、読み手の「人間の感情」で考えさせるために、この作品は多くの人の心に残る作品となったに違いない。


***


第4回書評コンクール 投票方法は…
良い!と思った本の書評を一つ選び 、書評番号を本文に記入したメールをお送りください。
メール送り先: jido-bun@shirayuri.ac.jp

投票締め切り: 2021年519日(水)


この書評は、2021年春に開催された書評コンクールの応募作品です(書評番号2) 

 

【書評】エルジェ「タンタンの冒険」シリーズ、川口恵子訳、福音館書店、1983₋2007年

 この人と結婚したらかなり苦労しそうだけれども、親友だったら楽しそう。「タンタンの冒険」シリーズにおける主要登場人物の一人、ハドック船長のことだ。そんな風に思うのは、わたしがこのシリーズにハマったのが、大人になってからだったためかもしれない。幼い頃、漫画だからと手を出してみたものの、難しくて理解できなかった記憶がある。しかし、大人になってから読んでみると、すっかり夢中になった。

主人公の少年記者タンタンは、正義感ゆえに様々な事件に巻き込まれ、悪者に狙われながら命がけの冒険をくり広げる。ストーリー展開の面白さもさることながら、このシリーズの魅力は、なんといっても会話の妙にあるだろう。

シリーズ初期、タンタンは愛犬スノーウィとのコンビで行動し、多くの会話がこのコンビの間で交わされる。スノーウィも吹き出しで人語を話しているのだが、どうやらタンタンはスノーウィのことばを人語として理解しているわけではないらしい。それでも会話はかけ合いのように行われる。途中の巻から登場する刑事のデュポンとデュボンも、ことば遊びのような会話が楽しい。けれども、ひとたびハドック船長が登場し、会話に加わると、彼は圧倒的な存在感を放つ。船長の登場しない巻は物足りなく感じるほどだ。

9作『金のはさみのカニ』でシリーズに初登場したとき、船長はなかなか情けない人物だった。悪い部下に騙されて酒浸りになり、悪事に利用され、タンタンに助けられるのだ。この時点で、彼はすでに救いようのないアルコール中毒になっている。何度も禁酒を誓いながら、誰も見ていない隙にちょいと一杯やろうとし、結果ひと瓶飲み干して酔っぱらい、とんでもないことをしでかす。口も悪い。すぐに怒って、悪態をつく。

 こうして書いてみると、児童文学作品の主人公の親友とはとても思えない。それでも、ハドック船長はぜひお近づきになりたい、魅力的な人物なのだ。喜怒哀楽が激しく、純粋で勇敢な人情家。そして、会話におけるすばらしい切り返し。ユーモアと機知に富んだ彼と会話を楽しめるなら、フランス語を学んでみようかなという気にさえなる。彼のよく口にする台詞「なんとナントの難破船」や「コンコンニャローのバーロー岬」が原文では何と言うのか知りたくて、フランス語の原書を購入してしまった。できるものなら、船長お気に入りの高級ウィスキー「ロッホ・ローモンド」も飲んでみたい(作者エルジェは架空の銘柄のつもりだったので、実在する「ロッホローモンド」とは別物だそう)。

 自力では禁酒に成功しなかった船長だが、シリーズの最終盤、アルコールを受け付けない体質になる。彼の健康のためにはいいことなのだが、ちょっぴり残念に思う読者は、わたしだけではないはずだ。


***

 

第4回書評コンクール 投票方法は…
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投票締め切り: 2021年519日(水)


 この書評は、2021年春に開催された書評コンクールの応募作品です(書評番号1) 

【書評】ロアルド・ダール作、クェンティン・ブレイク絵『魔女がいっぱい』清水達也・鶴見敏訳、評論社、2006年

 あなたは「魔女」と聞くと、どのようなイメージを思い浮かべますか?

 

 大きな壷をかき混ぜて、薬を作っている怪しいおばあさん?

 黒い帽子に、黒いマント?

 ほうきの柄に乗って、ひとっ飛び?

 それとも、素敵な魔法で人助け?

 

 いえいえ! 2度にわたって実写映画化された『魔女がいっぱい』には、このような特徴を持った魔女は、1人も登場しません。

 では、どんな魔女かというと……。 一見すると、一般の女性と何も変わりません。ごく当たり前の服を着て、ごく普通の家に住み、人並みに仕事をしています。

 しかし! その正体は恐ろしいもので、魔法を使って子どもを消そうと企んでいるのです。というのも、魔女は大の子ども嫌いだからです。

 加えて、「髪の毛が生えていない」「かぎ爪を持っている」など、奇妙な身体的特徴をいくつか持っています。魔女はカツラや手袋でこれらの特徴を隠しているので、一般の女性と魔女を判別するのは、非常に困難です。

 

 そんなわけで、主人公の男の子「ぼく」は、唯一の家族であるおばあちゃんから、魔女の恐ろしさについて、日頃から聞かされていたのでした。

ある日、「ぼく」は滞在していたホテルで、「英国児童愛護協会」と名乗る女性たちの集会に遭遇しました。しかし、その正体は偽りの姿で、イギリス中の魔女が集まる集会でした。カツラを外した魔女たちの禿頭の集団に、「ぼく」は仰天します。

「ぼく」は怯えながらも、魔女たちの集会を覗き見します。なんということでしょう! 魔女たちは、「人間をネズミに変身させる薬」を使って、国中の子どもを滅ぼす計画を立てていたのです。ところが運悪く、集会が終わろうとしたタイミングで「ぼく」は魔女たちに見つかってしまい、その薬によってネズミにされてしまうのです! 

ネズミになった「ぼく」は、おばあちゃんのところに行き、集会で見聞きことを全て話しました。そして、その会話をヒントに、「ぼく」はネズミの身体能力を活用して、国中の魔女を滅ぼす計画を思いつくのです。

さあ、はたして、「ぼく」は無事に計画を遂行できるのか? ネズミにされた「ぼく」はこの先、どうなるのか? その続きはぜひ、あなたの目で確かめてみてください。


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第4回書評コンクール 投票方法は…
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投票締め切り: 2021年519日(水)


この書評は、2021年春に開催された書評コンクールの応募作品です(書評番号3) 

 

【書評】はやみねかおる『都会(まち)のトム&ソーヤ①』講談社YA!ENTERTAINMENT、2003年

イカダくだりも海賊ごっこもない冒険物語をご存知だろうか。

著者のはやみねかおるは、〈冒険する心〉があればいつだって、どこだって冒険はできるのだと語る。

 

塾通いに追われる中学生・内藤内人と、眉目秀麗で成績優秀な同級生・竜王創也。

三日月の浮かぶ春の夜、内人は夜の街を闊歩する創也の姿を見かけた。

翌朝、内人は気まずい空気を打ち破って創也に話しかける。

〈きみ、夜の散歩が好きなの?〉

創也の答えは、銀色の鍵と、〈気がむいたら、おいで〉ということば。

狭すぎる裏路地を進み、数々の(トラップ)を突破して辿り着いたのは、創也の夢を守るための空間〈(とりで)〉だった。

下水道やテレビ局に潜入し、ときには窮地を切り抜けながら、伝説のゲームクリエイター〈栗井栄太〉の正体に迫る。

 

内人は努力したいと思う夢を持てず、漫然と日々を過ごしてきた。

だが創也の一言で、夢に対する意識は一変する。

〈ぼくは、究極のゲームをつくりたいんだ〉

明確な夢を持ち、それを叶えるための努力を厭わない創也の姿に突き動かされるように、内人は宣言する。

〈しばらく、創也の夢に付き合うよ。そうしたら、ぼくの夢も見つかるかもしれないから〉

内人は他者の夢への同行を通して、おとなに訊かれたら答えるための夢ではなく、体の内から湧き出るような夢を探しにいく。

 

創也は〈冷静な研究者の視線〉と称して、常に世界から一歩距離を取り、事象の観察に徹してきた。

ぼくたちの砦(、、、、、、)のかぎだ。たいせつにしてくれ〉

そんな創也が内人という初めての仲間を迎え、〈砦〉の鍵を託し、〈究極のゲームづくり〉という共同作業に挑む。

また、〈砦〉を秘密基地のようだと言う内人に、創也はこう紹介している。

〈基地はたたかうための場所。だけど、砦はちがう。砦は、守るための場所だよ〉

〈竜王グループ〉の後継者という外部から与えられる役割。

それに甘んじることなく、夢を育むサンクチュアリである〈砦〉を拠点に、ゲームクリエイターの卵として、〈栗井栄太〉という越えなければならない存在と果敢に対峙する。

 

一風変わったところこそあれ、彼らは中学生、普段から難しいことばかり考えているわけではない。

〈平日半額!〉のハンバーガーにかぶりつくこともあるし、かわいい女の子からアプローチを受けることもある(どちらが内人でどちらが創也かは、敢えて記さないでおく)。

一方で、彼らの夢に対する行動には、心理学者E.H.エリクソンのいう同一性拡散期における〈自分は何者か〉というテーマに真摯に向き合い、答えを出そうとするさまがありありと窺えるのである。

 

本作の冒険の舞台は都会だ。

しかし、自分が自分の主人公になるまでの軌跡も、また立派な冒険といえるのではないか?

 

YA文学はこどもの読み物、都会で冒険はできない、狭いところに閉じ込められたら万事休す…

固定観念をティーンエイジャーの力で吹き飛ばし、日常に潜む非日常をフレッシュに描き上げる。


【原作】はやみねかおる『都会まちのトム&ソーヤ①』講談社YA!ENTERTAINMENT、2003年

【映像】監督:河合勇人・脚本:徳尾浩司都会まちのトム&ソーヤ』主演:城桧吏、2021年7月30日公開予定、イオンエンターテイメント


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この書評は、2021年春に開催された書評コンクールの応募作品です(書評番号4) 

 

【書評】ドリアン助川『あん』ポプラ文庫、2015年

 徳江さんの好きだった桜が、今年も咲いた。読後、ふとそんなことを考えた。原作を読むより先に、河瀬直美監督の映画を観てしまったから、徳江さんには樹木希林さんの面影が、千太郎には永瀬正敏さんの表情が、どうしても重なってくる。風の吹く音と、煮えてあんになっていく小豆の呟きが、いつまでも耳に残るような映画だった。

千太郎は、「つぶれはしないが、決して賑わうことのない」(10)どら焼き店、どら春の雇われ店長。徳江さんはその店にアルバイトを申し出た高齢の女性である。初めは徳江さんを雇うことを渋っていた千太郎だが、時給200円でいいという破格の条件と、徳江さんの煮るあんの美味しさに惹かれ、彼女を雇うことになる。

千太郎はあんだけ作ってもらえれば良い、そしてあわよくばあん作りの秘訣を盗んでやろうという心算だったが、徳江さんは千太郎のそんな思惑にはお構いなしに活き活きと働き、彼女のあんのおかげでどら春は繁盛する。だが、徳江さんがハンセン病の元患者であることが噂になると、客足は急速に遠のいていく。

何十年という年月をかけて塗り固められてきた巨大な偏見に対し、一個人のできることなんて、たかが知れている。だが、無力さに打ちひしがれているからこそ、現実に起きた出来事から目を逸らすことはできない。千太郎はハンセン病資料館で目にした写真で知った「舌読」に衝撃を受ける。

「舌読」は視力と手指の末端神経を侵された重症患者の方々が行なっていた、舌先の感覚で点字の凹凸を読み取る読書法である。食は本能的な欲求だし、舌に感じる喜びはある意味では原始的なものかもしれない。けれど、そんな原初的な感覚を備えた器官を、生命の維持とは直接かかわりのない、文化的な営みのために使う。本を舐める姿への驚きを突き詰めていくと、残された感覚を使って知的な営みを続けようとする、一人一人の存在の尊厳を見つけることができるのではないだろうか、そんな気がするのである。たった6行ほどの「舌読」の描写だが、この部分を読んでほかの人たちはどう感じるのだろう、ぜひ語り合ってみたいと思った。

涙はしょっぱい。だが、徳江さんの作るあんの、気品ある甘さは、悲しみに負けない。


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この書評は、2021年春に開催された書評コンクールの応募作品です(書評番号5) 

 

【書評】小泉八雲『怪談・骨董』平井呈一訳、恒文社、1975年

 怪談の好きな子どもは多い。私もそんな子どもの一人だったのだが、そのまま育ってしまった。

小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの『怪談』に収録された話のいくつかは、児童用に易しく書き直されたものを小学生の時に読み(本のタイトルも再話者の名前も覚えていないが)、中学生になってからは角川文庫から出ていた翻訳を読み、大人になってからは小林正樹監督の映画『怪談』(1965)を観て、そして本書を読んだ。あまりにも年齢を問わない作品なので、正確な意味では児童書ではないこの本を、推したくなってしまった。(ちなみに、東京国立近代美術館のコレクションの一つ、中村正義の≪源平海戦絵巻≫(二曲一隻全五図の屏風絵)はこの映画『怪談』の第三話、「耳なし芳一」のために制作されたとのことで、作品冒頭に登場した凄みのある画面に目を瞠らされる。)

 「耳なし芳一のはなし」は壇ノ浦の合戦を背景にした歴史物語という側面がある。この話が成立した頃には、源平の合戦が既に遠い昔の出来事になっていたのだと思うと、しみじみしてしまう。そして、物語にえがかれた、平家の死者たちが抱く恨みや悲しみの深さをいっそう強く感じ、背筋が冷たくなる。彼らは長い年月を経ても癒えないこころを慰めるために、琵琶の名人である芳一を夜な夜な呼び出しては、一族を滅亡に追い込んだ合戦を追体験し、涙して、いっそう恨みを深めていくのである。

しかし、恨みの感情にみずから縛られてしまった死者も傷ましいけれど、たまたま琵琶の名手だったという理由で、何の罪もないのに死霊に召し出されてしまった芳一も哀れだ。彼は自分が怨霊に憑りつかれていることにも気づかず、ひたむきに琵琶をかき鳴らし、声を張り上げる。そんな琵琶ひとすじの芳一に、怨霊は全く容赦がない。

 ところで、芳一を怨霊から守るためその体に和尚が経文を書く場面で、子どもの頃の私は、濡れた筆先が肌を撫でる感触を想像してはくすぐったがっていた。死の恐怖と隣り合わせでいるとき、筆先のくすぐったさに耐えるのはどんな気持ちだろうかと、考えずにはいられなかったのだ。考えると皮膚が粟立ち、背筋がぞくっとする。恐怖は皮膚感覚に訴え、刻々と迫ってくるのである。

 繰り返しになるが、ここに挙げた『怪談・骨董』はいわゆる児童書ではない。だが、中学生・高校生くらいになれば充分に読める内容だと思う。それに、「参考資料」として一夕散人の『臥遊奇談』(原話の一つ)を巻末に収録しておいてくれるあたり、親切で、しかも手加減がない。


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この書評は、2021年春に開催された書評コンクールの応募作品です(書評番号6) 

 

【書評】フェリクス・ホフマン絵、グリム童話『おおかみと七ひきのこやぎ』せたていじ訳、福音館書店、1967年

 皆さまは、『PUI PUI モルカー』はお好きかにゃ? 監督は映像作家の見里朝希さん。見里さんが初めて手掛けた全12話のテレビアニメシリーズなのにゃって。240秒の短いパペットアニメーションに、モルモットの愛らしさがぎゅっと詰まっていて、毎朝楽しみにしておりましたのにゃ~。

 ところでですにゃ、見里さんが大学院の修了作品として制作した『マイリトルゴート』(2018)はたくさんの賞をもらったことで知られる作品にゃけど、皆さま、こちらはご覧になりましたかにゃ? グリム童話の「おおかみと七ひきのこやぎ」の後日談として作られていて、狼に食べられた子山羊たちが胃の中で消化されかかり皮膚が焼け爛れるという、にゃんとも即物的な描写をしておりますにゃ。にゃけど、どんな姿になってもフェルトでもこもこしたこやぎたちは可愛いのにゃ~。そして、ちょっぴり怖い可愛いさだけにゃなくて、現代の児童虐待の問題とも接点があり、多様な解釈ができるところも魅力にゃね~。

そうなってくると、気になるのがアニメーション作品のもととなったグリム童話「おおかみと七ひきのこやぎ」にゃ。見里さんがどの本を参照しているのかは分からないのにゃけど、私にゃったら、まずは瀬田貞二さん訳の超ロングセラー絵本『おおかみと七ひきのこやぎ』を手に取ってみますにゃね。

もちろん、絵本『おおかみと七ひきのこやぎ』では、こやぎたちは消化されたりしないのにゃ。おかあさんやぎが眠っているおおかみのおなかを切り開くときも、「一はさみ いれるがはやいか、ぴょこんと こやぎの あたまが つきだしました」とあって、こやぎたちはみんなピンピンしているのにゃよ。絵を見ると、おおかみの寝姿はほぼ真横から描かれていて、傷口が見えないのにゃ(ちなみに『マイリトルゴート』は、おおかみのおなかの内側から外を見るような視点を取っていて、映像にはおおかみのピンクの胃粘膜がしっかり映し出されておりますにゃ)。おかあさんやぎと元気に生還したこやぎたちがおおかみのおなかに石を詰め込むシーンにゃんて、まぁ、ピクニックみたいに楽しそうですにゃ。

…にゃ~む。この嬉しそうな表情、皆さまはどう思いますかにゃ? 私は、慄いてしまいますのにゃよ~。にゃって、おなかに石を詰められたおおかみは井戸で溺れてしまうのにゃよ?

 誰もが知っている『おおかみと七ひきのこやぎ』にゃけど、やはり一筋縄ではいかないと思うのにゃ。この戦慄、皆さまと分かち合いたいですにゃ~。


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第4回書評コンクール 投票方法は… 

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投票締め切り: 2021年519日(水)


この書評は、2021年春に開催された書評コンクールの応募作品(書評番号7)です 

 

2021年4月22日木曜日

熊沢健児の気になる企画展


 ドローイングとドキュメント

 

 渋谷区立松涛美術館で開催中の、フランシス・ベーコンのドローイング展。この企画展には、どうしても行きたかった。

外出時にはアルコールスプレーや予備のマスク、除菌シートといった感染予防グッズで鞄がパンパンになってしまいがちだが、館内の滞在時間をできるだけ短くできるよう、予防グッズ以外の荷物は極力減らして出かけた。美術館のロッカーは狭いスペースに設置されていることが多いので、使うときに他の来館者に接近してしまうことがあるからだ。

このご時世に外出なんて…と思っていたし、実際、かなり気を遣いながらの鑑賞だったが、それでも好奇心には抗えない。

 

フランシス・ベーコン(1909-1992)というと、油彩画の中で極端に歪められた人の顔を思い浮かべるのだが、今回の展示物の中心は、ドローイングである。

展示室に入って最初に出会う、一連のドローイング「X アルバム」(1950年代後半~1960年代前半)は、紙の表と裏に油彩やコンテ、鉛筆やチョークなどを使って濃厚に描かれている。ものによっては、写真を切り貼りして配置した上に描き込む、重層的なドローイングもある。

油彩画との関連をうかがわせるモチーフを描いたドローイングは、制作過程を知る手がかりとなる。間近で見られて、幸せだった。

今回、展示されていた「ワーキング・ドキュメンツ」もまた、ドローイング作品の一種と呼べると思うのだが(松涛美術館ホームページで見たプレス・リリースには「関連資料」と記されていた)、雑誌や新聞などの印刷物を切り取ったもの、特に印刷された写真が多かったのだが、それら一つ一つの印象的なイメージの上に、ペイントしたりひっかき傷をつけたりした、大量の紙片を見ることができた。また、激しい描き込みの見られる蔵書も、展示されていた。ベーコンの描き込みによって、複製物であるはずの書籍が、この世にひとつしかないものへと変身させられていた。

ベーコンが描き込んだ写真は、スポーツのイメージが多かった。ゆがんだタイヤをいくつも描き加えられた自転車や、体の動きを外からなぞるように無数の線を描き加えられたボクサーなど、写されたものの姿態が喚起する動きの印象を素直に(あるいは、諧謔的に)手でなぞっている、そんな印象を受けた。被写体の身体の動きを手でなぞったドローイングには、マンガの表現と通じ合うものを感じる。

 ドローイングとドキュメントをひととおり見終えると、1930年代に制作された小さな油彩画たちが待ち受けている。この時期のベーコンはシュルレアリスムに傾倒していたとか、キュビスムの影響を受けていたとか言われているけれども、どちらとも違うような気がした(それでは何なのだときかれてしまうと、よく分からない)。この時期の作品の多くはベーコン自身が廃棄してしまったとのことで、展示されていた油彩画は貴重な生き残りである。

 

 今回の企画展の主役は、画家が「これで終わり」と鑑賞者の前に差し出した作品ではなく、日々の制作活動の中で一つ一つ積み上げていったであろうドローイングとドキュメントだった。完結した一つの表現としてその環を閉じてしまうことのない、反復するイメージの魅力に後ろ髪をひかれながら、展示室を後にした。

 

熊沢健児(ぬいぐるみ・名誉研究員)

 

展覧会情報

フランシス・ベーコン バリー・ジュール・コレクションによる

―リース・ミューズ7番地、アトリエからのドローイング、ドキュメント―

会期:2021420日(火)-613日(日)

会場:渋谷区立松涛美術館


外出したので、待機用の段ボールに入った熊沢健児。
返却されたセンター蔵書とともにここで3日間過ごし、
体に付着しているかもしれないウイルスが死滅するのを待つ。

 

熊沢健児プロフィール

児童文化研究センターに住んでいる熊のぬいぐるみ。名誉研究員として、美術館の企画展や書籍、映画などの感想を書いてセンターブログに投稿する。実は氷河期世代の苦労人である。


2021年4月9日金曜日

猫村たたみの三文庫(非)公式ガイド

 (10)新年度のご挨拶

 

センター構成員の皆さま、ご機嫌いかがかにゃ?

三文庫の守り猫、猫村たたみですにゃ。2021年度も、どうぞよろしくお願いいたしますにゃ~。

新年度が始まり、大学に学生さんの元気な声が戻ってきましたのにゃ。

大学内の建物のあちらこちらに消毒用アルコールが設置されて、教室の風景もちょっと変わったけれど、キャンパスに学生さんがいるのは、嬉しいことにゃね~。

シェルフリーディングも、爽やかな春風のなか(センター開室中はほとんど常に換気しておりますにゃ!)、はかどりますにゃ~。

ところで、センター三文庫の一つ、冨田文庫には『子供之友』が1冊ありますのにゃ。第24巻第5号。縦は20.5cm、横は18.6cmという正方形に近い形にゃので、小さいけど開いたときにどーんと横長になるのにゃよ。表紙はお相撲をして遊んでいるらしい、二人の男の子の写真ですにゃ。

昭和十二年五月一日発行とあるから、1937年の子どもの日に合わせた内容なのにゃね。表紙を開くと「オシバヰ 山姥」…金太郎さんのお母さんのお話にゃね。

西條八十の詩や、深澤紅子、深澤省三、武井武雄、安泰といったおなじみの画家さんの絵に加え、いろいろな鳥や虫の巣や、日光浴する子どもたちの写真など、自然科学や健康に関する記事も見られるのにゃ。子どもたちの描いた絵を集めた「子供之友展覧会」(山本鼎選)のページでは、『青い鳥』を課題に募集した作品を掲載しているのにゃよ。

この『子供之友』は青い鳥コレクションのコーナーから少し離れたところに配架してあるのにゃけど、「オシバヰ 山姥」といい、戯曲である『青い鳥』を課題にした「子供之友展覧会」といい、冨田文庫ならではの蔵書ですにゃ(冨田文庫の元の持ち主、冨田博之先生は、児童演劇に大きな貢献をした方ですにゃ!)。

センター三文庫は、金平文庫・冨田文庫・光吉文庫という、ユニークな3つの文庫で構成されておりますにゃ。それぞれの蔵書の魅力を伝えつつ、私こと猫村たたみ、全力で三文庫をお守りいたしますにゃ!

2021年4月8日木曜日

青い鳥と青い花

 青い花が枯れたから、長年飼っていた青い鳥を逃がすことにした。
 飼い始めてから、ずいぶん長い時間が経っていた。

 鉄製の鳥籠の劣化は激しい。
 錆が酷くて、とっくの昔に鍵は壊れていた。
 開けるのにかなり手間取った。
 でも、無理やりペンチで籠を壊す。
 そして、扉をこじ開けた。

 でも、問題はここからだった。

 青い鳥は、籠から出ようとはしない。
 ずっと壊れた籠の中で、私をじっと見つめている。

 いや、私だけじゃない。
 わたしと、私の後ろにあるガラスの花瓶を見つめていた。

 ガラスの花瓶の中では、色褪せて、朽ち果てた、花がある。
 かつては青くて、美しかったあの花だ。
 今は醜くて、汚らしいものに成り下がっていたのだけれども。

「出て行けよ」と私は鳥に言った。

「いやだね」と鳥は答えた。
「花は枯れたんだ」と私が花瓶を指差して、鳥に凄んだ。「見えるだろ。あんたの居場所はここにない」
「また咲くかもしれない」と鳥は言った。そして美しい羽を片方あげて、花を指し示した。「まだ生きている」
 私はうんざりした。
 そして苛立ちもした。

 そもそも、あの人に出会った日がことの始まりだ。
 この鳥が花の種をくわえてやって来たのだ。

 その時、鳥は「君は花を咲かせなければならないよ」と言って、私の手のひらに種をのせた。
「咲かせた花は君の花だ。あの人にプレゼントするといい。きっと喜ぶさ」そう言って鳥は歌い出した。
「花なんて、育てたことがない」と私が答えると、「私をそばにおきなよ。上手く育つようにアドバイスするから」と鳥は言った。
 私はこの鳥を信じて、花を育てた。
 ずいぶん時間がかかってしまった。雨の日も風の日も、私は鳥のアドバイスに従った。
 そして、花は咲いた。
 青くて綺麗な花が。
 その時、鳥は言った。「あの人に渡しなよ」と。
「きっと、喜んでくれるはずだ」と。
 その結果、花は枯れてしまった。
 
 この鳥の言うことはでたらめだった。
 あの人は花を受け取らなかった。

 花は枯れてしまった。
 あんなに綺麗な花だったのに。
 汚くて、醜い、惨めな姿に成り果てた。
 それなのに、この鳥は花が生きている、と言っている。
 まだ私に、この花を育てさせるつもりなのだ。
 なんて残酷な鳥だろう。
 こんな奴を飼っていたのか、と。

「花は枯れたんだ」私は声を震わせた。「見えるだろ、花は枯れたんだ」
「いや、生きている」と鳥は言った。まるで聖歌でも歌うかのように、晴れやかに。「また咲くはずだよ」
「いい加減にしろ」たまらず私は叫ぶ。「花は枯れたんだ、死んでいるんだ」
「いい加減にするのは君だ」呆れたように鳥は言った。「諦めるのだけは一人前だな。あんなに長く育てていたのに。私を飼っていたのに。簡単に捨てるのか。大切に育ててきたあの花のことも、私のことも」
「あの人は受け取らなかった!」私は顔を抑えてうずくまる。「わかるだろ? あの人はあの花を、いらないって言った。だから、あの花は、枯れたんだ。あの人は私の花はいらないのさ。他の人の、花が欲しいんだ。私の花は必要ないんだ」
「どうしてあんな分からず屋のためだけに花を育てるんだ?」鳥の声は、相変わらず落ち着いた声だった。「お前の花の価値もわからない、馬鹿のために」
「他の誰でもなく、あの人にあげたかった。どうしようもないんだ」涙をぬぐいながら私は答える。「自分でもわからない。それでも、あの人にあげたかった。あの人に受け取って欲しかった」
「君がすべきことは、探すことだよ」と鳥は優しい口調で語りかけてくる。「君の花を喜んで受け取ってくれる人を」
「時間がかかるかかる。それに、見つかるかわからないじゃないか」
「見つかるさ。君がしたいと思えばね」

 つくづく残酷な鳥だ。
 どこまで私を振り回すつもりなのだろう。

 そして、それに付き合う私は底抜けの大馬鹿者だ。

 私は目元をこすりながら、立ち上がった。
 そしてまんまと鳥の思い通りに動いたのだ。
 まず、壊れた籠をすっかり直してしまった。道具箱を引っ張り出してきて、テープも使ったらあっという間だった。

 次に、今度は花瓶の花を捨てた。
 枯れてからは一度も触らなかった花を触った時、胸が温かくなった気がした。
 そして花瓶に新しい水を流し込む。
 ガラスの花瓶の腹に水が溜まっていくように、私の内側にも新鮮な何かが流れ込んでくる。

 これは何だろう。

 わからないまま、新鮮な水を飲みこんでいく花を見つめながら私は軽くえづいた。
 気持ちが悪いが、気分は悪くない。
 吐き気がするのに、爽快だった。

 矛盾している。
 矛盾していることはわかっている。

 それでも、汚い花が僅かに天を仰ぎ始めたように見えたのは、自分がすっかり忌々しいあの鳥に騙されているからかもしれない。
 腹が立つけれども、わくわくしている自分がいる。
 枯れたはずの花の吐息が聞こえてくるような気がした。

鳥飼律子
※青い字で書かれた名前はペンネームです。