2019年12月23日月曜日

エッセイ イメージを散歩する

(3)『世界の顔 タイム誌表紙原画展 Portraits in TIME』

 美術館のライブラリーは楽しい。美術の本が充実していることに加え、図録をたくさん手に取ることができる。企画展があったとき、「そのとき」「その場所」に居合わせないと買えないことの多い図録は、出会わなければそれきりなのである。したがって美術館のライブラリーは、出会い損ねた資料との「運命の出会い」をやり直すことのできる場所だ、と言っていいのかもしれない。

 『世界の顔 タイム誌表紙原画展 Portraits in TIME』(東京アメリカンセンター、1978年)とは、横浜美術館の美術図書室で出会った。ホチキス留めの簡素な造りで、見開き2面分の解説と幾葉かの作品図版、それに展示作品リストを収録している。奥付なし。ページ付なし。1950年1月から1972年12月までの間に『TIME』誌の表紙として掲載された肖像画の原画を計72点、展示した展覧会の図録である。
 冊子に収録された図版はごくわずかだったが、1950年1月2日掲載の《ウィンストン・チャーチル》(アーネスト・ハムリン・ベーカー作、テンペラ、47×29cm)を始めに、毎号掲載された「時の人」の顔が並ぶ展示は、見応えがあったに違いない。アメリカの一雑誌の表紙を飾った肖像画を「世界の顔」と言い切ってしまう、展覧会の日本語タイトルに若干の反発を覚えたものの、マリア・カラス、ダライ・ラマ、エリザベス女王、チェ・ゲバラ、ジョン・F・ケネディ、ニキタ・フルシチョフ、マーチン・ルーサー・キング…と並ぶ展示作品リストを眺めていると、当時のアメリカの状況や、そのアメリカから見た世界は実際どんなだっただろうかと、考えずにはいられない。テンペラのほか、グワッシュ、油彩、木版、モンタージュそのほか、表現技法も様々だ。肖像画の歴史はそれこそ古代から積み重ねられてきたものだが、そうした歴史的な積み重ねの上に、描く対象の人選や、描く作家、そして表現技法と、複数の糸で編み上げられた『TIME』誌の表紙の肖像画群である。表紙だけズラリと並べて、文字ではなくその向こうにある、活字化される以前の時代の空気を吸い込んでみたくなる。

 展示作品リストには日本人が日本人の肖像を制作した作品も見られる。それは、斎藤清(1907-1997)の木版2点。1967年2月10日掲載の《佐藤栄作》(34×61cm)と1977年3月28日掲載の《福田赳夫》(39×53cm)である。
 斎藤清は、サンフランシスコ講和条約締結後、参加した1951年の第1回サンパウロ・ビエンナーレに木版画の作品を出品、駒井哲郎と共に日本人賞を受賞し海外での評価も高かった。だが、木版画であるということに日本的なるものの匂いを嗅ぎ取ろうとすることからは、ちょっと距離を置いておきたい。
 木版を手がける作家たちが浮世絵に多くを学んでいることは間違いないのだが、近代以降の日本の木版画は、欧米から学んだ木口木版の技法に負うところも大きい。また、基本的に分業はせず、自画自刻自摺をして版画を作家個人の自己表現とする「創作版画」の登場についても、欧米に由来する「芸術」概念との出会いがなければ有り得ない現象だと考えなければならないはずだ。
 そして、木版からもう一段階視野を広げて版画全般について見渡してみると、複製技術としての写真術が確立される際に、先行する複製技術である版画の工程の一部が応用されたという歴史的経緯も気になる。写真術が普及し、より安価により簡易になりながら世界中に広まっていく一方で、版画は多様化を続けるわけだが、すると今度は、写真が版画制作に利用されるという現象も起きる。そんなわけで、版画は、現代的な表現の中にちょこちょこと忍び込むものなのだ。木理を活かした、一見、伝統に従っていると見える木版画だって、イノベーションの波を潜った後に改めて選び直された技法によって作られている。

 こんなふうに、展覧会図録の中にふっと現れた「木版」の文字に、つらつらと考えごとをさせられたのだった。居並ぶ「世界の顔」の中に、木版作品がある。歴史や物語といったものは、文字や言語以前の現実をじっくり耕すことによって豊かに記述されていくのだと思う。絵画的のようなイメージの領域に属するものも、表現活動を支える技術も、その全てを言語化・文字化することはできないのだが、その不可能さを大事にしていきたい。

遠藤知恵子(児童文化研究センター助手)

2019年12月20日金曜日

人生で学んだあいうえお(前編)


あ:赤ちゃんの笑顔は破壊力がすごい
い:いくつになっても褒められればうれしい
う:運動不足解消はまずストレッチから
え:英語はしゃべった者勝ち
お:大人になっても理解できないことは多い

か:頑張っている人に「がんばれ」は禁句
き:きのこは冷凍保存し数種類を同時に使え
く:口から出た言葉は取り消せない
け:ケーキは炊飯器でも作れる
こ:言葉で付けた傷は消えない

さ:砂糖は茶色い方が塩と間違えなくてよい
し:〆切は死守せよ
す:優れたリーダーは人に任せるのが上手い
せ:性格は強い意志がなければ変わらない
そ:その子その子に発達のペースがある

た:たまの弁当作りは大変だが毎日なら慣れる
ち:忠告を受け入れるのも才能のうち
つ:強すぎる感情は視野を狭くする
て:徹夜は年を取ると無理
と:トイレに戸や壁がなく用が足せないのは夢

な:納豆は海藻類と一緒によく混ぜて食せ
に:人間に生まれたからには言葉を大切に
ぬ:ぬるすぎる温泉は夢。布団がはだけている
ね:寝言と会話してはいけない
の:残された時間を意識して生きよ


(→来年に続く)

※本作品は、お笑い芸人ザ・ギースの尾関さんのお嬢さんが作った「10年間生きてきて学んだことカルタ」に着想を得たものです。そのカルタを紹介するホームページのURL(最終閲覧日20191218日)はこちら。
https://twitter.com/i/events/1175223274885632000



作・しあわせもりあわせ

2019年12月6日金曜日

荷物

電動自転車の前後ろ
子ども用の座席に巨大な荷物

白いビニールに透けている
クリスマス柄の包装紙

こがずに押して歩いている
この人もまた サンタクロース



作詩:しあわせもりあわせ

2019年12月5日木曜日

熊沢健児のお気に入り本

軸原ヨウスケ+中村裕太『アウト・オブ・民藝』誠光社、2019


 大学図書館の雑誌コーナーでふと手にした『美術手帖』第71号(20194月)に、「100年後の民藝」という素敵な特集があった。このときに大きく取り上げられていた『アウト・オブ・民藝』という本がどうしても欲しくなり、購入した。

ソフトカバーの簡素な装丁である。表紙は手描きの文様の中に、タイトルの文字が埋め込まれている。太い帯には、

民藝運動の「周縁」にスポットをあて、
21世紀のモノづくりを考える。
未来は常に過去の中にある!

 というキャッチコピーが印字されているのだが、この帯、実は二つ折りになっていて、本から外して広げると、A3サイズの大きさである。そこには、ウィリアム・モリス(1834-1896)を最上部に頂いた、民藝とその周辺――農民芸術、郷土玩具、児童自由画、版藝術、創生玩具、等々――で活躍した人々の相関図が印刷されている。
相関図の中心には、宗教哲学者でもある柳宗悦(1889-1961)がいる。柳は富本憲吉(1886-1963)、河井寛次郎(1890-1966)、濱田庄司(1894-1978)らとともに、「日本民藝美術館設立趣意書」(1926)を発表し、民藝運動を牽引していった。彼らによれば、「民藝」は「民衆的工藝」の略である。

彼らは、無名の工人が土地の素材と先人から培ってきた技術によって作り出された素朴な工芸品を「民衆的工藝」と称し、それを略して「民藝」と呼びようになったと。(中村発言)(p.17

作り手が無名であること、その土地に根付いた技術で作られたこと、素朴な味わいがあることが、「民藝」の条件であるらしい。美術館を設立するということは、ただ無名の工人による素朴な品物であるというだけでなく、美的にも人を満足させてくれることも、重要だったようだ。

さて、帯の相関図に記された人の数を数えてみると約90人(複数の領域で活躍した人の名は相関図の中に2箇所書かれていたりするので、その分も数えてだいたい90人)。重複があるとはいえ、充分な大人数である。

この本は、誠光社で開催された展覧会(2019417-30日)と全5回のトークイベントが元となっているそうだ。軸原ヨウスケの「まえがき」(p.5)に、

研究ではなく、ただただ好きで調べ続けた結果、連想ゲームのように広がったその世界は、人と人の繋がり、時代背景や人間関係、様々なことを教えてくれた。

 と記されているように、先ほどの相関図は「好き」を追いかけて行った末に出来上がったマップなのである。研究者のアプローチ方法とは、最初から違っている。だが本書は、その「好き」のエネルギーのおかげで、美術や工芸といった一般的な区分で整頓しようとするとどうしても生じてしまう20世紀前半の知と芸術のすき間に食い込んでいる。

 「民藝」については、『美術手帖』20194月号の特集「100年後の民藝」を読むと、大体のイメージを掴むことができる。『アウト・オブ・民藝』は「民藝」に対し、「アウト・オブ」なものを集め、「民藝」に関わった人たちと「アウト・オブ・民藝」な人たちとを関連付け、つなぎ合わせることに眼目がある。「民藝」にしろ「郷土玩具」にしろ、それが呼び起こす美的感覚は微妙なもので、どこがどう魅力的なのか、それを知らない人に伝えるのが結構難しいのだ。実際の品物に触れ(見るだけでは足りない)、当時書かれた書物を参照し、人的なネットワークを通じて眺めたときに、「あ、そうなんだ」と、なんとなく納得できるようになる。
学ぶところの多い本なのだが、本書の一番の魅力は、「面白がり」だと思う。例えば、この本のもととなったトークイベントで考現学の今和次郎(1888-1973)の人柄をしのばせる映像を流し、今にツッコミを入れるという一幕がある。

いったい何の話だって感じですね。使われていたイラストを含めて愛嬌がありすぎて話しが頭に全然入ってこない。(軸原発言)(p.149

 考察対象をからかうのは感心しないが、「アウト・オブ・民藝」な人々が好きすぎて、今へのツッコミが必要以上にきびしくなってしまう気持ちは分からないでもない。こうした屈折した(?)愛情と「面白がり」のエネルギーが90人のマッピング作業を行う原動力になっているのだろう。

熊沢健児(ぬいぐるみ、名誉研究員)

2019年11月28日木曜日

出不精ながら、展示会へ (番外編)


ちりめん本にみる東西文化の融合
――明治の木版多色刷り絵本の世界

 展示会に出かけたというより、出かけた先で展示会をしていました。調べ物があって、久しぶりに白百合の大学図書館へ行ったのです。2階の吹き抜けスペースで、こぢんまりとすごい展示会をしていました。大学図書館が所蔵している、ちりめん本コレクションです。

 「ちりめん本」というものを初めて見たのですが、しわしわに縮れていながら、絵も活字もきれいな線を保っている、不思議な和紙の絵本でした。浮世絵のような挿絵の和綴じ本なのに、活字が欧文なのも、何とも妙な感じです。元々は明治期の長谷川武次郎という商人が考案した、日本人のための外国語学習教材。日本の有名な昔話を様々な言語に翻訳したものからはじまったそうで、商才に長けた人はひらめきの天才なのかもしれません。

 配布資料によると、本展にはふたつの見どころがあるようです。ひとつ目は、挿絵の版木。現存している版木はほとんどないそうで、その理由が時代を感じさせるものでした。ふたつ目は、展示準備の過程で判明したという、ちりめん本の昔話四話の原典です。ちりめん本になった日本の昔話は、何に基づいて外国語に翻訳されたのか。素人としては、まだ判明していなかったことに驚きましたが、ちりめん本研究は開拓の余地の広い分野なのでしょう。

 展示内容以前に驚いたことも、ふたつありました。ひとつ目は本展のポスター。ちりめん本の挿絵を用いたクイズになっていて、「実物を見たい人」向けに展示場所や展示期間のお知らせが、「すぐ知りたい人」向けにQRコードがありました。試しにQRコードを読み込んでみると、白百合女子大学図書館のホームページにある「当館所蔵のちりめん本デジタルアーカイブの紹介」ページに。コレクションの一部の作品だけですが、表紙から裏表紙まで、全ページの画像を見ることができます。遊び心があり、かつ、インターネットを活用した展示というものについて考えさせられるポスターでした。

 ふたつ目は、メインとなるガラスケースでの作品の展示方法。一般的に、展示品は間隔に余裕をもたせて配置します。ところが、展示スペースに限りがあるためでしょう。平置きだけでなく、立てたり重ねたり。その配置は立体的で、工夫が凝らされていました。例えば、同じ絵の表紙でちりめん加工されているものとされていないものが並んでいる展示。大きさを比較して、加工による縮み具合を確認できます。同じ話を扱った異言語の作品同士は、ずらして重ねてあり、絵がほぼ同じで、活字の言語だけ異なっているのが見て取れました。感動したのが、『八ツ山羊』という西洋昔話を日本語に翻訳したしかけ絵本の展示方法。狼のふくれたお腹をめくると食べられた子山羊たちが出てくるしかけなのですが、めくる前と後が両方わかるよう、めくり部分が絶妙な角度に開かれ、固定されていました。

 こんな展示方法があるのだと目から鱗が落ちるのを感じながら、和洋入り交じったちりめん本の不思議な雰囲気を味わったのでした。
〔敬称略〕

展示会に行った日:20191121
文責:出不精ながら

◆展示会情報
「ちりめん本にみる東西文化の融合
――明治の木版多色刷り絵本の世界」
白百合女子大学図書館 2階吹き抜けスペース
2019/11/20(水)~2019/12/12(木)
12/2(月)に展示内容の一部入れ替えがあります。

蟷螂(かまきり)


駐輪場のアスファルトに
季節外れの蟷螂
昨日も同じ場所にいた
踏み潰されてはかわいそう

大きな鎌による攻撃を恐れ
家の鍵を取り出すと
両前肢の付け根を横からすくい
持ち上げて庭木の根元へ移す
蟷螂はまるで動かなかった

ここでは日が当たりすぎるかと
今度は指でつまんだ瞬間
翅の重なりを勢いよく開き
最後の力を振り絞って
蟷螂はわたしを威嚇した

その気高さに胸を突かれ
動けぬわたしの目の前で
広げた翅から力が抜けて
体の色から生気が抜けた



作詩:しあわせもりあわせ

2019年11月18日月曜日

創作(お話)

   砂浜の話

砂浜の砂粒と一口に言っても、世界中にはたくさんの砂浜がありますし、それぞれの砂浜には途方もない数の砂粒があります。個々の砂粒を分類するにも、そのための基準となる事柄がいくつかあります。
 たとえば砂粒になるまでの経歴――貝殻が壊れて細かくなったとか、防波堤のコンクリートが波に削られたとか、海底火山のマグマが冷えて固まった後にもろもろと崩れたとか、そこらへんの石ころが波に揺られるまま転がっているうちにいつのまにか小さくなっていたとか――、もっと単純に、砂粒の形状――丸いとか角張っているとか凸凹とか滑らかとか――、より科学的に、砂粒に含まれている成分――これは、いちいち例を挙げていると話が難しくなりすぎるので省略――など。
 まあとにかく、これからお話をする砂粒に関しては、このような砂粒の分類について、あまり気にしないでください。いちいち分類していると本当にややこしく、厄介ですから。

 砂粒は考えごとをしていました。砂粒は以前、その中に侵入したことのある、二枚貝を思っていました。その二枚貝は小さくて――砂粒からしたら百倍はあるのですけれど――、他の二枚貝と同じように斧の形をした脚を持っていました。その二枚貝が外敵から身を守ろうと砂の中にもぐりこんだ拍子に、砂粒は二枚貝の脚に触れ、その素晴らしい感触に、すっかりまいってしまったのでした。砂粒はまたあの脚に触れたいと願い、波がそのように動いてくれないものだろうかと、一日中、考えて過ごすようになりました。夜もあまり眠れなくて、祈ってばかりいました。砂粒の願いが叶ったのは、それから数日後のことでした。二枚貝がまた外敵から逃げようと慌てて砂に潜ったとき、砂粒は吸い込まれるように、貝の内部に入っていきました。急な出来事ではありましたが、砂粒はできるだけ奥のほうへ入りたいと強く念じ、とうとう本当にそのようになりました。恋焦がれていたあの感触に再び包まれることができ、砂粒はとても幸せでした。
 砂粒は二枚貝の中でいつの間にか眠ってしまいました。この数日間、ほとんど眠れずにいましたから。眠りに落ちていく直前に、砂粒はえもいわれぬ甘美な夢を見たような気がしました。そしてその夢がいつまでも続くと、ほとんど確信しながら意識の底へ沈んでいきました。久しぶりの深い眠りでした。
 しかし目を醒ますと砂粒は二枚貝の外にいました。二枚貝にとって砂粒は異物でした。ちょっと脚を動かすたびに、砂粒の表面にある小さな凸凹が当たって、二枚貝は痛くてたまりませんでした。砂粒が恍惚としているあいだにも、二枚貝は必死になって、砂粒を追い出そうと体を動かしていました。
 砂粒には二枚貝の事情はよく分かりません。したがって、なぜ自分が二枚貝の外にいるのか理解できません。仕方がないので、二枚貝のことを考え、脚の感触を思い出すことにしました。砂粒はわりあい記憶が良いほうなので、細部まで思い出すことができましたし、想像力も豊かでしたから、必要とあらば現実でないことを思い起こすことさえ可能でした。ただし一つだけ、あの夢の甘美な味わいだけ、どうしても再現することができませんでした。
 砂粒はそれでも二枚貝のことを思っていました。甘美な夢を忘れてしまったとしても、幸せな過去を生きることはできるのです。砂粒が思い出に浸っている間に、波は行きつ戻りつしながら、砂粒をより浅いほうへと運んでいきました。水際まで砂粒を送り届けると、波は帰っていきました。砂粒と他の砂粒たちの間は水で満たされていましたが、波が行ってしまうと、水のあったところに空気が入りました。しゅー、という音がしました。そろそろ潮が引く時間です。

遠藤知恵子(児童文化研究センター助手)


2019年11月13日水曜日

衝撃


あれからひと月も経つのに
同じ質問をくり返すのは

何度詳しい回答を得ても
すぐさま同じ質問をするのは

受け入れ難い出来事に
向き合う幼い心ゆえ

どうしてかがやきは
しずんじゃったの



作詩:しあわせもりあわせ

 20191012日夜、台風19号が日本に上陸し、翌13日にかけて各地に甚大な被害をもたらしました。この台風により亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、ご遺族と被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。
 

2019年11月8日金曜日

知らせる


周りの誰も気づいておらず
教えてあげる連れもなく
自分一人ではもったいない

子どものように叫べれば
一番手っ取り早いのだけど
気恥ずかしさが先に立ち

スマホを空に掲げると
シャッター音を響かせる
ほら 虹だよ 皆見て



作詩:しあわせもりあわせ

創作(お話)

   ごきげんよう

 
 砂浜を、歩いていました。
波打ち際の砂は、波にすっかり(なら)されていて歩きやすく、一歩踏むごとに、しっとりと靴底に吸いつきました。
穏やかな昼下がりです。小さな雲がひとつ、まっさおな空に浮かんでいました。
(あ。しまった)
 空に見とれて、波をよけるのを忘れました。
靴と靴下を、海の水がじんわりと冷やしました。
波は、私の立っているところよりもう少し進んでから、さーっとひいていきました。
(まあ、いいか。きょうは暖かいから)
 私は、波が帰って行ったところ、つまり、水平線の向こうを見やりました。

 波が、また来ました。
「ごきげんよう、石ころさん」
 水の中で泡ができる音や、できた泡がはじける音にまぎれて、子どものような、甲高い声が聞こえました。
「はい、ごきげんよう。砂粒ちゃん」
 低い声が、ゆったりと答えました。
 波が、さーっとひいていきました。
 波が行ってからほんの少しだけ間をおいて、砂粒と砂粒の間から、しゅうう、と、波打ち際に残っていた水が抜けました。あたりは静まり、遠くから波の音だけ響いてきました。
(石ころさんに、砂粒ちゃん、か)
 私は、腰をちょっとかがめて、足元をよく見てみました。
 湿った砂の上には、割れた貝殻、海草のきれはし、ヤドカリ、それに、石ころ。
 波が来ました。
 水のうねりに乗って、新しい砂粒たちが、タイヤのようにくるくると回りながら、ゆるやかな砂の坂をのぼりました。
「ごきげんよう、石ころさん」
 石ころは、砂粒がぶつかってくるのをゆったりと受け止めました。
「はい、ごきげんよう。砂粒ちゃん」
 波が、さーっとひいていきました。
 また、静かになりました。波の音だけが、遠くから響いてきます。
 ヤドカリが、のろのろと石ころのほうへ歩きます。
 私は、腰をまっすぐに伸ばし、水平線の向こうを見やりました。
 波が来ます。
「ごきげんよう、石ころさん」
 砂粒の挨拶。
「はい、ごきげんよう。砂粒ちゃん」
 石ころの挨拶。
 波が、さーっとひいていきます。
 ヤドカリは少しずつ、石ころに近づきます。
 私は、眠たくなって、大きな欠伸をしました。
 石ころは私が欠伸をしたことに気がついたようでした。
「こらこら、きみ、こんなところで眠る気かい?」
 石ころの声は優しく、少し、笑いを含んでいました。
「いえ・・・そろそろ、帰ろうかな」
 私はもう一度、海を見ました。
「そうかい。じゃあ、帰る前に、砂粒ちゃんたちに挨拶なさい」
「ええ」
 私たちは、次の波が来るのを待ちました。
 のろのろと歩いていたヤドカリが、ようやく石ころのあるところまで来ました。
 ヤドカリは歩みを止め、ぼそぼそと呟きました。
「おれは知っているぞ。あんたの腹のどまんなかに、大きなひびが入っていることを。あんたはもうすぐ――」
 私はとっさに、ヤドカリをつまみ上げ、海に投げました。
 ヤドカリは、宙にゆるやかな弧を描いて、音もなく水の中に沈んでいきました。
 私は、石ころになにか話しかけようとしました。
「石ころさん」
 石ころは、返事をしませんでした。返事をする代わりに、泣き出しました。
「うおおおおん、うおおおおん、うおおおおん、うおおおおん・・・」
 私は、両方の掌で包むように、石ころを拾い上げました。
 石ころはあたたかでした。
(お日さまの熱だ)
 私は思いました。
 近くで見ると、ヤドカリが言ったように、石ころのまんなかに大きなひびが走っているのが分かりました。
 石ころは吠えるように泣きました。
(波の音みたい)
 私は石ころを撫でました。
 石ころの声はどんどん大きくなっていきました。大きくなればなるほど、遠くから響いてくる波の音に紛れて、どれが石ころの叫び声で、どれが波の音なのか、分からなくなりました。
 石ころはぶるぶると震えだしました。
「石ころさん」
 私が呼びかけた、ちょうどそのときに、石ころは、ぱかん、と、ふたつに割れました。
震えが止まりました。
ふたつに割れると、そのまま、石ころは崩れ、砂になって、私の手から砂浜へ、さらさらと落ちていきました。
こぼれ落ちた砂は、すぐにまわりの砂の水けを吸い込みました。ほかの砂粒と見分けることは、もう、できません。

波が来ました。
やって来た砂粒たちは、石ころがいないので戸惑ったようでした。けれども、やはり、言いました。
「ごきげんよう」
私も、答えました。
「ごきげんよう、砂粒ちゃん」
 波が、さーっとひいていきました。


児童文化研究センター助手 遠藤知恵子

2019年11月1日金曜日

猫村たたみの三文庫(非)公式ガイド


猫村たたみの三文庫(非)公式ガイド 

4)検索の実験にゃ!


センター構成員の皆さま、ご機嫌いかがかにゃ?
センター三文庫の守り猫、猫村たたみですにゃ。

 荒れた天気の続いた10月が終わり、もう11月ですにゃ。穏やかな秋の日差しのなかで、たまには縁側で日向ぼっこしたいのにゃ~。

ところで、皆さまは「青い鳥」のお話は好きかにゃ? 私は大好きにゃ。「青い鳥症候群」なんていうネガティブな言葉もあるのにゃけど、青い鳥を追いかける冒険は、旅好きの私にはたまらなく素敵なのにゃ。
児童文化研究センターの冨田文庫には「青い鳥コレクション」があって、様々な種類の『青い鳥』や関連資料がそろっているのにゃ。古い本には立派なものがあって、開くとゴージャスな気分に浸れるのにゃよ。

そんなわけで、今日は「青い鳥」をキーワードに三文庫を検索するのにゃ!
三文庫の本を検索するには、白百合女子大学図書館HPの、「白百合女子大学 学術リソース」にゃね。こちらがそのURLにゃ!


「児童文化研究センター文庫」のところをクリックして検索画面を出すのだにゃ。…カチ(クリック)。
とりあえず簡易検索で「青い鳥」と入力してみるのにゃ!カタカタ(入力中)…にゃむ。それでは、「検索」ボタンをクリックにゃ!…カチ(クリック)

にゃにゃ? 190件もヒットしたにゃ。にゃ~むにゃむ…。メーテルリンク以外の人が書いた本も交じっているにゃね。こんなにいっぱいヒットするのは簡易検索だからだにゃ~。しかも、「メーテルリンク」という表記の他に、「メエテルリンク」や「マアテルリンク(マァテルリンク)」というのが出てきたにゃ。
にゃむ…なんだかおもしろいのにゃ。それぞれの名前で、何件ずつヒットするか、実験してみるのにゃ!
まずは、「メーテルリンク」にゃ。カタカタ(入力中)…クリックにゃ!…カチ(クリック)。

115件にゃ。なかなかにゃね。
「メーテルリンク」と、名前で簡易検索したから、今回は『青い鳥』以外の本も入っているのにゃ。
では、「メエテルリンク」ではどうかにゃ。カタカタ(入力中)…クリックにゃ!…カチ(クリック)。

23件! ぐっと少なくなったのにゃ。
にゃむにゃむ…一覧を眺めてみると面白いのにゃ。『メヱテルリンク』と旧かなづかいが出てきたり、「青」の字が旧字(「靑」)の本もあったりするのにゃ。「メエテルリンク」という表記は、古い本に多いのかにゃ?
最後に、「マアテルリンク」はどうかにゃ? カタカタ(入力中)…クリックにゃ!…カチ(クリック)。

19件にゃ! こちらも、比較的古い時代(戦前)のものが多いのにゃね。

実はメーテルリンクの名前の読み方については、『白百合女子大学児童文化研究センター研究論文集 16』に収録された講演録に書いてあるのにゃ。「マーテルリンク」はメーテルリンクの出身国、ベルギーでの読み方なのにゃよ。こんな風に書いてあるから、ちょっと引用しておくのにゃ。
 マーテルリンクと言うのは、言ってみれば現地[ベルギーにゃ!:猫村]の発音です。メーテルリンクとなったのは、フランス人が、それがうまく読めないというか、あるいはむしろそれがドイツ語風のスペルだと思い込んでいたからメーテルリンクと読ませてしまったものだと思います。 
ウィリー・ヴァンドゥワラ氏講演「日本におけるメーテルリンク文学の受容――『青い鳥』を中心に」『白百合女子大学児童文化研究センター研究論文集16pp.139-160より、 p140
  
 ちなみに、「Maeterlinck」と欧文表記の名前で検索すると、洋書を含む28件。ついでに、フランス語風に、「メーテルランク」と検索してみたら9件がヒットしたのにゃ(皆さまもご存じの通り、「青い鳥」の原題はフランス語でL’Oiseau Bleuにゃ。 


同じ人の名前にこんなにたくさんの表記方法があるなんて、日本特有の現象で面白いのにゃ!
本を翻訳したり紹介したりした人たちが学んだ外国語や持って生まれた言語感覚により、どんなカタカナ表記にするかが変わってくるのにゃね~(※)。

「青い鳥コレクション」は、センターの冨田文庫にゃ。請求記号でT00579T00870のあたりにゃよ。戦前の古い本から比較的新しいアニメ絵本まで豊富に取り揃えているのにゃ。
古い本は扱いに注意が必要なのにゃけど、丁寧な造本や活版印刷の凸凹など、実際に手に取らないとわからない味わいがありますにゃ。センター構成員の皆さまは簡単な手続きで入庫できるのにゃから、ぜひ、活用してほしいのにゃ。
手続きについては、前に、こんな風にお伝えしていたにゃね。

三文庫の蔵書はどれも貴重な資料にゃよ。
文庫スペースに立ち入るには、児童文化研究センターに行って、下記のとおりの利用受付が必要にゃ。
 https://www.shirayuri.ac.jp/childctr/library/sanbunko/gakunai.html 児童文化研究センターの開室時間は9:0017:00にゃ。時間に余裕を持って来室することと、事前に資料のIDを調べておくことが三文庫利用のポイントだにゃ。

・・・念のための確認にゃ!

さて、と・・・だにゃ。
それでは、私は一足お先に児童文化研究センターに行ってきますにゃ。
皆さま、ごきげんようにゃ~。

※でもだにゃ、メーテルリンクのカタカナ表記4種類なんて、まだまだ可愛いものだにゃ。例えば、画家のヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、名字のVan Goghだけで24種類もあったのだそうにゃ(式場隆三郎『フアン・ホツホの障害と精神病』聚楽社、1932年)。数えるだけでも大変な研究にゃ! ・・・にゃ~む。名前の表記一つ取っても図書資料の目録化がどれほど大変な仕事であるかが分かるにゃね。

2019年10月31日木曜日

金田くん


 小学一年生の時だったかと思う。
当時私は、東京都国分寺市周辺に暮らしていた。

 ちなみにその二年後に、宮城県へと父親の仕事の関係で引っ越すことになるのだが、その頃の私は知る由もない。
幼馴染と言える友人たちと遊び、日々を過ごしていた。

そんなある日、友人たちとの会話の中でバレンタイン・デーの話題が出る。
バレンタイン・デーはヴァレンティヌスという人の処刑された日である。ヴァレンティヌスは、皇帝の許可なく、愛し合う恋人たちを結婚させた聖人だそうだ。

しかし、当時の私も、私の友人たちもそんな知識は一切持ち合わせていなかった。
ただ、女の子が気になる男の子にチョコレートを贈る日だという認識しかなかったのである。

その後、話の流れで、何故か「金田くん」という男の子に皆でチョコレートをあげようということになった。
「金田くんはチョコレートをもらえないかもしれない」という理由で。
ちなみに金田くんは仮名である。

今思えば、大きなお世話だし、大変失礼な話である。
そもそも金田くん以外にも男の子はいたし、その中で、何故、金田くんだけにスポットライトが当たったのかという疑問もある。
 
 兎にも角にも、私は友達と示し合わせ、チョコレートを用意し、金田くんに渡しに行くことになった。固く約束をした後、その日は帰路に着いた。
 
 そして、約束の日。
 チョコレートを片手に、集合場所に向かった私は、友人たちの姿を見て仰天した。

 私以外誰も、チョコレートを持っていない。

 ギョッとしている私に構わず、友人たちは「じゃあ、行こうか」と何気ない顔をして、歩き始める。
 私は頭が真っ白になっていた。何が起こったのか、全く分からない。

 まず「何故私以外チョコレートを持っていないのか」という疑問が浮かんだ。
 次に「何故皆涼し気な顔なのか」という疑問。
 
そして、「このままいけば、私は金田くんに誤解を受けないだろうか」という疑問も。

このように多くの疑問が頭に浮かびながらも、友人たちの後ろについて歩いた。

たどり着いたのは、小学校に近い、集合住宅地。
男の子たちが、家の前にある道でボール遊びに興じている。

そこには金田くんもいた。彼は、汗を流しながら遊んでいる。

状況は全く違う。
全く違うのだが、金田くんの姿を見た時、私は処刑台の前に立たされたマリー・アントワネットのような気持ちになっていた。

「おーい、金田くん」

 固まっている私に構いもせず、友人たちは金田くんをご親切にも呼び出してくれた。

「律子ちゃんが渡したいものがあるんだって」

「余計なことを!」と友人に対して、心の中で叫ぶ。
しかし、小心者の私は何も言えない。
真っ赤な顔で、「こ、これ…あげる…」と蚊の鳴くような声とともに、チョコレートを差し出した。

金田くんは怪訝そうに、私の顔とチョコレートを交互に見ていた。
そして、少し間を空けてからチョコレートを受け取り、再び男の子たちの群れに戻って行った。

「良かったね」

 そう言って、金田くんを呆然と見つめる私の肩を叩く友人。
心なしかニヤニヤしていた気がする。

「良かったね」と言えることは何一つ無かった。

 むしろ、真っ赤な顔でチョコレートを差し出す構図は、「本当に私が金田くんに惚れている」ように見えないこともない。
 いや、むしろ、そうとしか見えないのではないだろうか。

 しかし、私はその時は「処刑直後」であったため、魂が抜け出ている状態だった。反論したり、怒り狂ったりする気力さえもなかったのである。

 だから、肩を叩いた友人に対しても「う、うん…」と小さく返事を帰すだけに留まった。

 そして、この話はその日の夜、急展開を迎える。
なんと金田くんが、チョコレートのお返しにハンカチを携えて私の家にやって来たのである。

 チョコレートを渡した日、私は時間が経つに連れて、「恥ずかしさ」がエスカレーターのように徐々に高まっていった。
 夕方になって、家に帰った時は「恥ずかしさ」という「恥ずかしさ」が体の中の血管の中を這いまわっている状態にまで陥っていた気がする。

 クッションに頭を突っ込み、悶えている私を、母親は笑いながら宥めていた。

 そして、夜。
突然、ピンポーンとチャイムを鳴らす音がする。
応答に出た母親が、私を呼んだ。

「金田くんよ」

その日、もっとも聞きたくないワード、第一位「金田くん」。
私はガタガタと震えながら、玄関に向かい、靴を履いて外に出た。

玄関を出ると、外は激しい雨が降っていた。風も強かった気がする。

外には大きな車が止まっていて、その車の前に金田くんがいた。
金田くんは黄色い雨合羽を被り、手には紙のラッピングのされている「何か」があった。

「これ、今日のお礼」

金田くんはどこか照れ臭そうに、その「何か」を差し出した。

私の心の中は、様々な感情の嵐が吹き荒れた。
「やめてくれ」と。「そんなの、受け取る資格ないんだ」と。

しっちゃかめっちゃかの、グチャグチャだった。

「あ、ありがとう」

しかし、ここでも私は何も言えなかった。小さくお礼を述べることしかできない。

私からお礼の言葉を聞くと、金田くんは嬉しそうに笑い、帰って行った。

トボトボと家の中に戻ってから、私は金田くんからの贈り物の包み紙を開ける。
ピンク色の下地に、ウサギの刺繍がある、可愛いハンカチ。

「可愛いじゃない。良かったわね」

お母さんがニコニコしながら、そう声をかけてくる。

しかしまだ私の中には嵐がたけり狂っていた。

「完全に誤解されたのでは」ということから来るいたたまれなさ。
「金田くん、嬉しそうだったな」という金田くんへの罪悪感。
「よくも」という友人たちへの怒り。

「良かったわね」と言えることは何一つなかった。

しかし、感情がないまぜになり、心が虚ろになっていた私は特に何も言わなかった。
ただ小さく「うん…」と頷くことしかできなかった。
 
今でもそのハンカチは、手元にある。

特にどうということもない。
ないのだが、そのハンカチを見ていると、あの頃の感情の嵐が血管の中を駆け巡る感覚を思い出してしまうのだ。

 
終わり

鳥飼律子
※青い字で書かれた氏名はペンネームです。