2021年10月28日木曜日

ムナーリとレオーニ(5)

1926-1929年 ①未来派との出会い


ムナーリは1926年、フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ(1876-1944)に出会う。マリネッティと初めて会った年については、1927年という説もあるそうだが、ともかくも10代の終わりか20代の初めくらいの年頃でマリネッティと出会い、192711月から12月にミラノのペーザロ画廊で開かれた「未来派画家34人」展に参加している。ムナーリが未来派に加わった経緯について、年譜には次のように書いてある。

 

フランコ・ランパ・ロッシに、未来派に推挙された後、トゥッリオ・ダルビゾラと知りあう。のち、ダルビゾラの工房で、他の未来派の芸術家とおなじように、陶芸作品を制作するようになる。(p. 342

 

2018年の「ブルーノ・ムナーリ展」では、残念ながらこの時期のムナーリの陶芸作品は見られなかったのだが、未来派の仲間に加わり、創作活動を開始したようだ。

さて、どんな活動だったのだろうか…と、同展図録の、年譜以外のページを見てみる。論文がいくつか収録されているのだが、そのうちのひとつを書いた世田谷美術館学芸員の野田尚稔は「ブルーノ・ムナーリの理論的再構成」(pp.325-339)の中で、アレッサンドロ・コリッツィの博士論文(Bruno Munari and the invention of modern graphic design in Italy, 1928-1945. Doctral Thesis, Leiden University, 2011)を参照しながら、未来派に加わる直前のムナーリは、「製図を描く仕事に就きつつミラノでの生活を始め、次第に広告デザインを手掛けていった」(p.328)と記している。若い頃のムナーリは、製 “図”、そして、デザイン(=“図”案)というように、“図”を描く仕事をしていた。絵画作品(タブロー)に比べ、それらの図は、画面に描き込まれたものの形や色が記号により近いことや、経済活動へとダイレクトにつながっていることがおおよその傾向として言えると思うのだが、ムナーリの仕事は、そうした“図”に近いところから始まっていたことがわかる。

年譜に戻ると、未来派のグループ展に初めて参加した翌年にあたる1928331日には、「サッスとともに「ダイナミズムと筋肉改革」絵画宣言に署名」(p.342)し、同年1223日から翌年の115日にはマントヴァのシエンティフィコ劇場で開催の「未来派、ノヴェチェント、郷土派芸術」に参加している。未来派に加わってすぐに、どんどん発信を始めている。

ふぅん…ムナーリってすごいなぁ…などと思いながらさらに年譜を読み進めていくと、1929年ヴァレーゼ市立図書館で、ムナーリを中心とするグループ展が開催されている。この年の展覧会データによると、610日から25日の「未来派芸術展 ロンバルディアのラジオ未来派グループ」というものだ。また、同じ年の10月にミラノで、12月から翌年1月にかけてはパリで、作品展示に参加。

1929年は作品展示に加え、1212日にローマで上演された、マリネッティの「裸のプロンプター」で舞台装置と衣装を担当。戯曲「裸のプロンプター」が雑誌『コモエディア』に掲載されるときには、挿絵をムナーリが描いている。また、ジュゼッペ・ロメオ=トスカーノ著『羽のない鷲』で、表紙と挿絵を担当している。

こんなふうにして、ムナーリが活躍を始めた頃、レオーニはまだ高等学校の生徒だった。「レオ・レオーニ 年譜」によると、1926年にヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世商業技術高等学校に入学。年譜には、次のように書いてある。

 

クラスメイトのアッダ・マッフィとその兄妹たちと交流。彼らの父ファブリーツィオは医師であると共に共産党員で、ファシスト政権の弾圧で一時投獄されていた。こうした環境下でレオも自ら共産主義を自任するようになる。(p. 216

 

第一次世界大戦後のイタリアでは、1922年にムッソリーニの結成したファシスタ党が政権を獲得し、この時期のイタリアは、独裁体制が敷かれていた。後年の楽しい絵本作品からはちょっと想像しづらいのだが、2020年の「だれも知らないレオ・レオーニ」展は、1940年代・50年代制作の諷刺画を見せてくれて、当時の社会に対するシビアな眼差しが感じられたことが印象的だった。

1929年頃から広告デザインに興味を持つようになり、カンパリに作品を持ち込んでいる(しかし不採用)。作品の持ち込みだけではない。年譜を見ていると、1年の間によくぞそこまで、と感心してしまうほど、活発にトライ&エラーを繰り返している。

 

チューリッヒ大学経済学部の聴講生となり、スイスで下宿生活を送る。映画に強い関心を抱き、ローマの国立映画学校へ入学を希望するが、父に諭され1930年にジェノヴァに戻る。アルビソーラのトゥーリオ・マッツォッティの工房で陶芸を学ぶ。(p. 216

 

芸術系の大学ではなく、しかも経済学部というのが意外である。映画に興味を持ち、しかし父に反対されてジェノヴァに戻り、だがそれでも未来派の一員であるマッツォッティの工房で陶芸を学んでいる。

ちなみに、トゥーリオ・マッツォッティは通称Tullio d’Albisola。Tullio d’Albisolaのカタカナ表記は筆者によって異なるようだけれども、1927年にムナーリが知り合い、のちにその工房で陶芸作品を制作するようになった、あの「トゥッリオ・ダルビゾラ」のことだろう。ムナーリから2年遅れて、レオーニも同じ工房で学んでいたのか!

年譜の続きが気になるが、もうだいぶ長く書いてしまった。今回は、ここまでとしておこう。

 

【書誌情報】

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp. 342-357

「レオ・レオーニ 年譜」森泉文美・松岡希代子著『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp. 216-219 ※執筆担当者の表示なし

 

ニューヨーク近代美術館(MoMA)ホームページに、Tullio d’Albisola(Tullio Spartaco Mazzotti)の項目がある。オンラインで、彼がレイアウトを担当したマリネッティの詩集(https://www.moma.org/artists/6911)を見ることができた。

 

遠藤知恵子(センター助手)

2021年10月21日木曜日

センター閉室のお知らせ

 児童文化研究センターは、白百合祭のため10月22日(金)から25日(月)まで閉室とさせていただきます。

 ご不便をおかけいたしますが、なにとぞご了承くださいませ。


センター入り口のミニ展示 10月20日~11月3日

マスールの著書

 センター入り口で、センター蔵書(Z本)のミニ展示を行っております。展示している図書はSr.松井千恵先生の『ひよこのあゆみ』(パロル舎、2010年)です。こちらの図書は展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。

※「マスール」とは「シスター(修道女)」のことです。


【ポップより】

 10月23日(土)・24日(日)の白百合祭にちなみ、白百合女子大学や児童文化研究センターのあゆみを知ることができる本をと思い、この本を展示することにしました。

 著者の松井千恵先生は児童文化学科の創設や大学院修士課程、児童文化研究センターの設置に尽力された方です。本書は松井先生の生い立ちから始まり、修道女・教員として「真・善・美」を実践した日々を回想するものです。

 芯の強さと明るく楽天的な純真さとが感じられる、すてきな本です。どうぞお手に取ってご覧ください。

光吉夏弥の評伝が刊行されました

絵本研究者の澤田精一氏による評伝、『光吉夏弥 戦後絵本の源流』が岩波書店より刊行されました。この記事は、刊行されてすぐに本書を読んだ助手の呟きです。

 

光吉夏弥(1904-1989)は『ひとまねこざる』の翻訳者として知られている人物ですが、若い頃は新聞や雑誌に舞踊評論を寄稿し、舞踊評論家として活動を開始していました。鉄道省外局国際観光局に就職し、その後、東京日日新聞、大阪毎日新聞、国際報道工芸社などに勤務。また、戦中より児童書の編集や翻訳を手がけ始めます・・・と、このように、本書からごく簡単に光吉の経歴を抜き書きしてみましたが、従来あまり知られていなかった戦前・戦中の足取りを追う本書を読み、児童文化研究センターが管理している光吉文庫のかつての持ち主、光吉夏弥のことをもっと知りたくなりました。

光吉というと、もう一つ、忘れてはならないのが写真関連の仕事。本書を通じ、さらにその重要さを考えずにはいられませんでした。光吉は戦後、「岩波の子どもの本」シリーズを終えて、「世界写真全集」全7巻(1956-1959)、「世界写真家シリーズ」全14冊(1957-1958)、「世界写真年鑑」(1958-1974)の刊行に携わっています。写真関連のこれらの仕事の背景には、国際観光局勤務時代に培った人脈や経験があることがうかがい知れます。

光吉が働き始めた26歳から敗戦を迎えた41歳までは、誰もが様々な形で変節を余儀なくされた時代でしたが、どの時代の光吉も、過去の自分を捨てずに保ち続けていたのではないか・・・そんな気がします。


【書誌情報】

澤田精一『光吉夏弥 戦後絵本の源流』岩波書店、2021年


ムナーリとレオーニ(4)

出生から1925年まで③ オランダの教育者

 

 今回も引き続き、寄り道しよう。レオ・レオーニがオランダで受けた教育(モンテッソーリ、フレーベル、ルソーといった人々の思想が取り入れられていたという)が興味深いのだけれど、「オランダ」「教育」というキーワードからは、私は他のどの思想家や教育者よりも、まず、コメニウス(1592-1670)の名を思い浮かべてしまった。レオーニが小学生の頃を過ごしたオランダは、コメニウスがヨーロッパの各地を亡命した後、亡くなるまでの日々を過ごした土地だ。

チェコの小説家・劇作家のカレル・チャペック(1890-1938)が旅行記『オランダ絵図』(1932)の「ナールデン」の章を、次のように書き始めている。

 

自らを囲む古い城壁の中にまどろむ、このきれいな由緒ある小さな町を不当に扱うことを望んでいるわけではないが、ここに旅行客がやって来るとしたら、他の何よりもまず、わがチェコスロヴァキアの偉人コメンスキーの墓と記念館を訪れるものとわたしは思う。

カレル・チャペック『オランダ絵図』カレル・チャペック旅行記コレクション、飯島周訳、ちくま文庫、2010年、p.132

 

 私たちがよく知る「コメニウス」はラテン語名。チャペックはこの同郷の偉人(国名は時期によって変遷しているが)を、敬意と祖国愛を込めて「コメンスキー」と呼んでいる。

『世界図絵』(『可感界図示』Orbis sensualium Pictus 1658年)は、絵入りの教科書。『世界図絵』を作成したコメニウスは「教育の過程に視覚に訴える教材を導入し、知識を子どもの感覚に訴えることによって習得させる直観教授法を創始した教育家」(乙訓稔『西洋近代幼児教育思想史』東信堂、2005p.15)と位置づけられている。コメニウスはルソーやモンテッソーリ、フレーベルの思想の源流でもあるようだが、『世界図絵』もまた、子ども向けの書籍に見られるイラストレーションの、源流の一つと考えることができる。

レオーニの『スイミー』(1963年)が日本の国語教科書に採用されてからもう40年以上経つが、教科書的な正しさと美しいヴィジュアルとが融合したあの作品も、その源をずっとずっと遡って行ったなら、やっぱりコメニウスに行き着くのかなぁ…そんなことを考えた。

 

【書誌情報】

l  カレル・チャペック『オランダ絵図』カレル・チャペック旅行記コレクション、飯島周訳、ちくま文庫、2010

l  乙訓稔『西洋近代幼児教育思想史』東信堂、2005

 

遠藤知恵子(センター助手)

2021年10月14日木曜日

ムナーリとレオーニ(3)

出生から1925年まで② ムナーリ「わが幼き日の機械(一九二四)」

 

今回はちょっと寄り道。ムナーリの『芸術としてのデザイン』(小山清男訳、ダヴィッド社、1973年)に、「わが幼き日の機械(一九二四)」というエッセイが収録されている。このエッセイに書かれた内容によって、前回読んだ年譜の記述に何かを付け加えることはできないのだが、大人になってからムナーリが自分の少年期をどんなふうに振り返っていたか、見てみよう。

ムナーリが6歳頃から17歳頃まで過ごしたバディア・ポレジネの北部には、アディジュ川が流れている。「わが幼き日の機械(一九二四)」の「機械」とは、この川のほとりで見た「木造の水車小屋」(p.251)のことだ。

水と長い年月に洗われて古ぼけてはいるが、現役の水車として小麦を挽いている、そんな素敵な「機械」について、ムナーリはこんなふうに書いている。

 

その機械全体は古びた材木でできており、その時にはもうすっかりねずみ色になっていて、柔らかいところは風化して削られ、木目の堅いところがつき出ていた。水車の鉄の芯棒と、ひき臼の石だけが、摩擦で絶えずみがかれて光っていた。小屋の中はほの暗く、その中に小麦の粉砕器の翼や、人間の体ほどもいっぱいに詰った袋があった。(p.252

 

いかにも無愛想な、実用のために作られたこの水車だが、ムナーリは上記の文章に続けて、「その機械はきいきいときしみ、うめき、つぶやき、水車の回るにつれて、時間のリズムにのることができた」(同上)と書いている。「時間のリズムにのることができた」という言葉からは、この水車が、回転運動や軋みの音を通じて時間という観念を発見させてくれるような、特別な意味のある「機械」だったのだ、と想像することができる(“時間という観念”などと言うとちょっと大袈裟かもしれないけれど、私たちは誰も、時間そのものを感じることはできない。「時間のリズムにのること」は、時間という観念を感得する経験の一つだし、そんなふうにして時間の観念と出会う瞬間は、やっぱり特別だ)。

水車は周囲の環境と結びつき、その中で、それ自身の仕事をしている。

 

時折りは粉や雑草、水や土、それに朽木や苔の匂いが鼻についたものである。そしてどうかするとこの大きな水車は、植物といっしょに、鳥の羽や紙きれや木の葉をすくい上げ、そのまばゆい構成に変化を与えるのだった。(pp.252-253

 

水車の軋みと水の音に包まれ、時々鼻先をかすめる土や草や水の匂いを感じながら、雑草や水草、たまに流れてくる木の葉、鳥の羽、紙切れなどを掬い上げて回るさまを眺めている。決して純粋に働くだけの機械ではなく、さまざまな不純物を含んだ、豊かな「機械」である。

 

【書誌情報】

ブルーノ・ムナーリ『芸術としてのデザイン』小山清男訳、ダヴィッド社、1973

 

 (資料を読んでの感想)「わが幼き日の機械(一九二四)」を収録した『芸術としてのデザイン』の原題はArte come metiere(『職業としての芸術』1966年)である。「職業としての芸術」という原題は、考えさせるタイトルだと思う。例えば、“芸術とは、私たちが生きているこの世界のどのような場に存在しうるものなのだろうか?” あるいはまた、“芸術は、どのようなもの(事)に対してどんな働きをなしうるものなのだろうか?” など。

「わが幼き日の機械(一九二四)」における「機械」、すなわち水車小屋は、小麦を挽くという役割を果たすことにより、この世界に自分のあるべき位置を得、さらに、自分自身の姿(「摩擦で絶えずみがかれて光っていた」)を作り上げている。この水車小屋の描写を通じて、(人間社会と自然環境の両方を含み込んだ広い意味での)環境との関わり合いの中で自分自身を生成していく、そんな幸福な芸術家のイメージを見たような気がする。

 

遠藤知恵子(センター助手)

2021年10月8日金曜日

センター入り口のミニ展示(10月8~20日)

神宮輝夫先生のご著書と訳書 ②児童文学作品の翻訳

センター入り口で、センター蔵書(Z本)のミニ展示を行っております。展示している図書は神宮先生の児童文学作品の翻訳書(共訳も含む)です。こちらの図書は展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。

 

『めいたんていネート きえた 草の なぞ』

マージョリー・ワインマン・シャーマット 作 マーク・シマント 絵

神宮輝夫 訳 大日本図書 2002

 

『めいたんていネート だいじな はこを とりかえせ』

マージョリー・ワインマン・シャーマット 作 マーク・シマント絵

神宮輝夫 訳 大日本図書 2002

 

『めいたんていネート ねむい ねむい じけん』

マージョリー・ワインマン・シャーマット ロザリンド・ワインマン 作

マーク・シマント 絵 神宮輝夫・澤田澄江 訳 大日本図書 2002

 

『めいたんていネート いそがしい クリスマス』

マージョリー・ワインマン・シャーマット グレイグ・シャーマット 作

マーク・シマント 絵 神宮輝夫・内藤貴子 訳 大日本図書 2002

 

『めいたんていネート ペット・コンテストは 大さわぎ』

マージョリー・ワインマン・シャーマット 作 マーク・シマント 絵

神宮輝夫 訳 大日本図書 2002

 

『めいたんていネート 2るいベースが ぬすまれた?!』

マージョリー・ワインマン・シャーマット 作 マーク・シマント 絵

  神宮輝夫・内藤貴子 訳 大日本図書 2002


昨夜の地震(10月7日22時41分)は最大震度5強と大きかったですが、センター構成員の皆様のお住まいの地域はいかがでしたでしょうか。

児童文化研究センターはおかげさまでこれといった被害も見当たらず、感染対策をしつつ、通常通り開室しております。

交通機関の乱れなどもあり、落ち着かない朝を過ごされた方もいらっしゃることと存じます。皆様のご無事とご健康を心よりお祈りしております。

昨夜の地震を受けて、肩掛け鞄の中身を確認した熊沢健児。
災害に備え、日頃から水と羊羹(非常食)を持ち歩くことを決意。

P.S. 院生の皆さんは、ALSOKの安否確認メールが届いているかどうか、チェックしておきましょう。この週末は、非常時の避難先や連絡先、また、鞄の中身と食料品のストックなども確認してみませんか?

2021年10月7日木曜日

ムナーリとレオーニ(2)

 出生から1925年まで① ムナーリとレオーニ

 

ここからは、「ブルーノ・ムナーリ」展(2018-2019年)と、「だれも知らないレオ・レオーニ」展(2020年)の、二つの展覧会図録の年譜を順に読んでいきたい。それぞれ異なる場所とタイミングで作られた年譜なので記述内容も少しずつ異なるのだが、そうした違いもありのままに読み、思ったことを記していこう。

 

ムナーリは19071024日、イタリアのミラノで生まれた。レオーニはそれから3年後の191055日、オランダのアムステルダムで生まれた。二人とも、生まれたときは都会っ子だった。

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」(『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp. 342-357)によると、ムナーリは1913年に両親とともにヴェネト州バディア・ポレジネに移住している。ムナーリが6歳頃までを過ごしたミラノとは違い、静かなこの町でムナーリの両親はホテル経営をしていたという。そのホテルというのは、「エステ公爵家の旧邸のひとつ、パラッツォ・グラデニゴを改装したホテル」(p.342)だったそうだ。いま私の手元にある電子辞書の『ブリタニカ国際大百科事典』で「エステ家」を引いてみると、中世から近代まで中部イタリアのフェララ、モデナ、レッジョエミリアなどの地域を支配していた家系だった、ということがわかる。モデナ公国という国を領有していたが、1860年にサルジニア王国に併合され、エステ家による支配が終わったそうだ。サルジニア王国はリソルジメント運動(イタリア統一運動)の中心地であり、第二次イタリア独立戦争を経て、1861年にイタリア王国に転換した。イタリアには、古代の遺産を引き継いだ古い国というイメージがあるけれど、国家としては若いのだ。

ムナーリは、1925年(1926年という説もある)に両親から離れて1人でミラノに戻るまで、バディア・ポレジネで過ごした。

 一方のレオーニだが、「レオ・レオーニ 年譜」(『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp. 216-219 執筆担当者の表示なし)によると、レオーニの父ルイス・レオーニはスペイン系ユダヤ人セファルディムにルーツを持ち、ダイヤモンドの研磨工を経て会計士となった人である。なんでも、「オランダのユダヤ人はダイヤモンド産業の中心的存在だった」 (p.216)のだそうだ。母エリーザベト・グロソウはオペラ歌手である。芸術を愛する大人が身近にいる環境だったようで、レオーニは「建築家の叔父ピート」からは絵の手ほどきをうけている。また、年譜には「大叔父のヴィレムは前衛芸術の収集家で、そのコレクションのうち数枚」がレオーニの家に置かれたとあり、少年レオーニのお気に入りは、「シャガールの油画」だったという(同上)。

また、後に見る通り、レオーニの年譜は引っ越しに関する記述が多い。1922年、両親がアメリカに移住し、レオーニはブリュッセルに移住した父方の継祖父と祖母の元に預けられている。また、その時期、「母方の叔母ミースの夫ルネがコレクションしたエルンストなど同時代の画家の作品に触れ、大きな影響を受け」たとのことだ(同上)。

 1915年にレオーニが入学した当時のオランダの小学校教育は、「モンテッソーリ、フレーベル、ルソーなどの思想が取り入れられ、芸術や自然観察が重視された」(同上)とあり、自宅では小さな生き物を飼ったりテラリウムを作ったりしていたというのが面白い。「のちに自宅近くの国立美術館でデッサンをする許可を得る」(同上)ともあり、家でも、家の外でも、動植物と芸術作品が身近にある少年期を過ごしていたことが分かる。1924年、アメリカのフィラデルフィアにいる両親の元へ。ここでウィリアム・ペン・チャーター中学校に通うことになるが、翌年には父の転勤のためイタリアのジェノヴァに一家で移住する。この頃に漫画を書き始め、油彩画を描き始めたのもこの頃だという。「生涯の友となるイーゼルを購入」(同上)したのもやはり、1925年に移住したジェノヴァだった。

 レオーニは15歳までにオランダ、ベルギー、アメリカ、イタリアの4か国に暮らし、それぞれの国の言語を身につける。ムナーリも引っ越しはしているものの、あくまでもイタリア国内での移動だったことを考えると、既に二人の違いが見えてきたようで、ちょっと面白いと思った。

 

【書誌情報】

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp. 342-357

「レオ・レオーニ 年譜」森泉文美・松岡希代子著『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp. 216-219 ※執筆担当者の表示なし

 

遠藤知恵子(センター助手)

2021年10月1日金曜日

投稿募集のお知らせ

 本日より、児童文化研究センター主催書評コンクールの作品募集を開始いたしました。センター構成員の皆さまのご応募を、心よりお待ちしております。

 センターブログは、2011年に児童文化研究センター公式サイト内に開設され、当センターからの情報発信及びセンター構成員による自由な投稿の場として運営されております。書評コンクール開催の場となる以外にも、皆さまのご投稿を随時募集しております。募集内容は、次の通りです。 


児童文学・文化に関わる

・批評 ・研究ノート 

・エッセイ ・創作 ・翻訳

・新刊書/映画/展覧会/講演会の紹介や感想

*原稿の分量は、A4用紙1~2枚程度を目安としてください。

*投稿原稿は、当センター宛てのメールに添付してお送りください。

 

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