2021年11月25日木曜日

ムナーリとレオーニ(9)

 1931年


年譜の続きを読もう。

ムナーリは1931年、ミラノのガレリア・デル・コルソに「ストゥディオR +M」というデザイン事務所を設立している。ともに事務所を立ち上げた相棒は、リッカルド・リカス(本名リッカルド・カスタネーディ)。リカスは1929年の「未来派33人展」にも参加しており、「ストゥディオR +M」設立の年、まだ19歳だった(ムナーリは24歳。ふたりとも若い)。

年譜では、「ストゥディオR +M」について、次のように説明している。

 

R +Mは、『自然』、『ルッフィーチョ・モデルノ』、『ラーナ・ディタリア』などの雑誌や広告などのグラフィック・デザインを手がけ、カンパリの広報部やオリヴェッティ社などとも一緒に仕事をした。(p.343

 

カンパリ…! レオーニが1929年に広告を持ち込んで不採用になっていたことを思い出してしまう。オリヴェッティ社はタイプライターの製造・販売元として創立した企業、オリヴェッティのことだろう。この時期、未来派の芸術家は積極的に企業広告を手がけている。

「誰も知らないレオ・レオーニ」展図録の解説「未来派とイタリアの広告デザイン」(p.19 担当:森泉文美)には、「その実験的なデザインとタイポグラフィは20世紀初頭のヨーロッパの広告デザインに多大な影響を与えました」とある。前回は未来派のダークサイドに注目したけれど、未来派が果たした役割として、現代につながる一つの流れを知ることができる。

言われてみれば、確かに、この時代の広告は、何時間でも見ていられそうな面白いものが多いような気もする。そういえば、日本でもこの頃に『現代商業美術全集』(全24巻、アルス、1928-1930)が刊行されていた。欧米での事例の紹介や同時代の画家やデザイナーの作品を豊富な図版で紹介するこの『現代商業美術全集』は、1冊ずつパラパラめくって絵を眺めるとかなり楽しいし、収録された論文は読み応えがある。

1931年のムナーリは、舞台装置やポスターの下絵なども手がけている。展覧会としては、第1回ローマ・クワドリエンナーレ(クワドリエンナーレは4年に1度開催)に未来派として参加、512日にジェノヴァのパガニーニ劇場付属小劇場で開催の「航空絵画展」、10月から11月にかけてミラノ、ペーザロ画廊で「航空絵画(41人の航空画家)と舞台美術の未来派展・プランポリーニ個展」、11月から12月にかけてキアーヴァリのパラッツォ・デッレスポシヅィオーネ・ペルマネンテで「未来派の絵画、彫刻および装飾美術展」、12月にはミラノのペーザロ画廊で「ロンバルディアの水彩画家たち」と、合わせて5つの展示に参加している。

さて、一方のレオーニは、この年の末、高等学校のクラスメイトだったアッダ・マッフィの妹ノーラ・マッフィと結婚した。

 

【書誌情報】

l  奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp. 342-357

l  「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp. 216-219 ※執筆担当者の表示なし

 

遠藤知恵子(児童文化研究センター助手)

2021年11月18日木曜日

センター入り口のミニ展示 11月18日~12月1日

センター入り口で、センター蔵書(Z本)のミニ展示を行っております。


展示中の本

WH・ハドソン 作、西田実 訳、駒井哲郎 画『夢を追う子』福音館書店、1972

キャサリン・ストー 作、猪熊葉子 訳、マージョリ・アン=ウォッツ 挿絵『マリアンヌの夢』岩波少年文庫、2001

フィリップ・リーヴ 著、井辻朱美 訳『アーサー王ここに眠る』創元社、2009


 こちらの図書は展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。

ムナーリとレオーニ(8)

 1930年② ムナーリとレオーニが出会った未来派

 

前回に書いた、この部分から始めたいと思う。

 

さて、この1930年という年だが、ムナーリはほかに、アレッサンドリアのチルコロ・ウニヴェルシターリ・ファシスティで3月に開催された「未来派芸術展」、ミラノのミケーリ画廊で5月から6月にかけて開催された「第55回協会展」、ミラノのペーザロ画廊で10月から11月にかけて開催された「建築家サンテリアと未来派画家22人」展などに参加している。

 

ここにある3つの展覧会のうち、3つめの展覧会のタイトルに見られる「建築家サンテリア」だが、未来派に参加していた建築家のアントニオ・サンテリア(1888-1916)は、第一次世界大戦に従軍し、戦死してしまった。

未来派について語るときには、第一次世界大戦の前後で第一世代と第二世代に分けて論じるのが通例だそうなので、サンテリアは第一世代の人物ということになる。ムナーリはダルビゾーラの工房で陶芸作品を製作していたが、そのダルビゾーラ(トゥーリオ・マッツォッティ)もムナーリも、第一次世界大戦後のメンバー(第二世代)である。

「ブルーノ・ムナーリ」展図録の解説に、ムナーリが出会った時期の未来派についてこんなことが書いてある。長くなるが、引用したい。

 

1915年、ジャコモ・バッラとフォルトゥナート・デペロは、「未来派における宇宙の再構築宣言」を発表し、これまでの未来派の単なるダイナミズムや速度とは異なった、抽象的で総合的な形態への方向性を示した。この未来派の第2世代と言うべき動きには、エンリコ・プランポリーニら若い作家たちが加わり、続く20年代末から30年代にかけて、飛行の驚異的なスピードや、遥か上空から見下ろす視点による新しいビジョンを求めた「航空絵画」へと至る。同時にその活動領域は、建築、ファッション、エディトリアル・デザイン、写真や映画、演劇にまで広がっていった。(p.30 執筆者:盛本直美)

 

20世紀初頭における「飛行の驚異的なスピードや、遥か上空から見下ろす視点による新しいビジョン」を現代に置き換えるなら、ドローンを使って撮影した映像のようなものだろうか。新しい視覚体験による「航空絵画」を追及していったこの時期、未来派の活動領域が広がっていったという。

ところで、今年、多木浩二の『未来派 百年後を羨望した芸術家たち』(コトニ社、2021年)が刊行された。今回はこの本も参照したい。

多木はこんなふうに書いている。

 

一九〇九年(マリネッティの最初の宣言が出た年)から第一次世界大戦の終末までが、未来派の盛期であった。(p.97

 

1909年から1918年頃までが「未来派の盛期」だとしたら、ムナーリが未来派の展覧会に初参加した1927年、この頃には旬が過ぎていたという見方がここにある。第一次世界大戦によって亡くなったメンバーはサンテリアの他にもおり、これらの芸術家たちを失ったことは、取り返しのつかない痛手だったということなのだろう。

話は変わるが、ムナーリが初期の代表作のひとつ、《役に立たない機械》を制作する前年の1929年に、マリネッティは『ムッソリーニの肖像』という本を書いている。19191月のスカラ座事件の打ち壊しに未来派グループが参加するなど、未来派はファシズムとの関連を無視しては語れない。多木は同じ本の中で、「とくにマリネッティはムッソリーニが殺されファシズムが終わるまで、ファシズムに忠実だったことは紛れもない事実である」(p.133)と書いている。ムナーリやレオーニが創作活動の第一歩として接近した未来派およびマリネッティは、そんな、第一次世界大戦後の未来派であり、マリネッティだったのである。

…歴史の重さを感じ、ちょっと震えてしまった。

 

【書誌情報】

l  『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018

l  多木浩二『未来派 百年後を羨望した芸術家たち』コトニ社、2021

 

遠藤知恵子(児童文化研究センター助手)

2021年11月12日金曜日

旅する窓の記録

  皆さま、ご機嫌いかがかにゃ? センター三文庫の守り猫、猫村たたみですにゃ。

 書評コンクールが成立しなくて残念だったのにゃ~。ちょうど今の時期は学会もあるし、忙しい時期にゃからね。仕方ないですにゃ。今回の反省を生かし、来年度は熊沢君と一緒に頑張って、コンクールを盛り立てますにゃ。

 

 ところで、皆さまは窓はお好きですかにゃ? 私は大好きですにゃ。明るくて温かくて、風が通り抜けて、お空と挨拶ができる場所にゃね~。コンクールはなくなってしまったのにゃけど、1冊だけ、本を紹介させていただきたいと思いますにゃ。

 『Window Scape 窓のふるまい学』は、窓の研究がもとになってできた本ですにゃ。その研究では、世界中の窓を現地で実測・聞き取り調査して、窓のまわりで人がどんなふうにふるまうかを観察したのにゃって。この本は、建物とその用途、建っている都市や国の名前、気候区分などを、寸法を書き込んだスケッチと写真とともに収録していて、スケッチには、窓の前で憩ったり、お仕事したりしている人の姿も描き込まれているのにゃよ。窓だけ見るのではなくて、その窓がどんなふうに人の暮らしや街や自然環境に溶け込んでいるのか、窓にまつわるいろんな「ふるまい」から窓を見ているのですにゃ。

この本では、調査して観察した窓を「光と風」、「人とともに」、「交響詩」と大きく三つに整理し、それをさらに細かく分けて窓の記録を収めているのにゃ。その、窓を分けて整理するための言葉がとても素敵にゃから、ここに紹介しておきますにゃ~。 

・「光と風」:「たまりの窓」「にじみの窓」「彫刻する窓」「光の部屋」「影の中の窓」「風の中の窓」「庭の中の窓」

・「人とともに」:「はたらく窓」「通り抜けの窓」「座りの窓」「眠りの窓」「物見の窓」

・「交響詩」:「連なりの窓」「重なりの窓」「窓の中の窓」

(すべて目次より)

 「光と風」の分類では、自然光や外気と窓がどんな風に関わり合っているかという視点からいろいろな窓を配列しているのにゃ。例えば、「たまりの窓」の写真を見ると、窓が光をそっと抱き込むような不思議な空間を見ることができるのにゃよ。「人とともに」はその名の通り、窓と人とがどう関係しあっているか、人のふるまいをもとに分けているのにゃね。「眠りの窓」にゃんて、うっとりしてしまうのにゃ~。「交響詩」は、窓と窓との関係を音楽に喩えているのにゃね。いくつも連なったり、二重窓になったり、さらに複雑に配置されたりすることによって、調和的な空間が生まれるのにゃ。

 人の心と同じように、閉じたり開いたりする窓にゃから、関係性によって窓を見ていくというのは面白いにゃね。

この本のはじめのほうに書いてあったのにゃけど、気候風土によって異なる個性を持った窓の観察は、少しずつ地域を移動しながら見ていくと、窓どうしの似ているところや違っているところが分かりやすくなるらしいのにゃ。だから、この本は、土地から土地へとちょっとずつ移動していく、旅人の視線で窓を記録していった本なのにゃね、きっと。

児童文学作品にも「窓」が重要なモチーフになっているものは少なくないのにゃ。いろいろな窓を眺めにゃがら、好きな作品に登場する窓をあれこれ想像してみようにゃ~。

 

【書誌情報】

東京工業大学塚本由晴研究室編『Window Scape 窓のふるまい学』フィルムアート社、2010年 

第5回書評コンクール中止のお知らせ

第5回書評コンクール(書評コンクール2021年秋)は、書評の応募がなかったため、中止とさせていただきます。

応募作品を楽しみにしてくださっていた皆様には大変申し訳ございませんが、何卒ご了承くださいませ。

来年度の書評コンクールは、実施する方向で検討しております。より参加しやすく、皆様に楽しみにしていただけるイベントになるよう、励んで参りたいと存じます。

今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

ムナーリとレオーニ(7)

1930年① ムナーリとレオーニ

 

ムナーリは1930年に第17回ヴェネツィア・ビエンナーレの未来派の展示に参加する。会期は54日から114日までで、ムナーリの出品作品は《自画像》。未来派のオーガナイザーで詩人のマリネッティに認められ、かなり早い段階から作品発表の機会に恵まれていた。また、《軽やかな機械》や《役に立たない機械》をこの年に制作している。1930年は、ムナーリの初期の代表作が誕生した年なのである。

図録の出品作品リストを確認すると、2018年の回顧展に展示された《軽やかな機械》は1971年再制作のもので(原作は1930年)、赤く塗装した球体と直線もしくは軽やかに湾曲した細長いパーツを組み合わせて作ってある。会場での展示方法は「上から吊るす」…だったと思う(幾何学的な形の組み合わさった、似た雰囲気の作品がいくつもあったので、記憶に自信がない)。図録には、吊った形の写真図版が掲載されている。

《役に立たない機械》も、たしか「上から吊るす」タイプの展示方法をとっていた。《役に立たない機械》は1933年から1956年までの間に原作が制作された5作品について、写真図版と作品情報が図録に収録されている。それらの作品では、幾何学的な形(三角形や四角形、また、円形をもとにした形)に切った素材(木や金属、もしくは塩化ビニール樹脂など)を、絶妙なバランスで組み合わせて配置し、上から糸で吊るしている。吊ったとき自重で形態を安定させるためだろうか、石を使ったものもある。さまざまな形に整えられた木片や金属片は、塗装や不透明水彩、シルクスクリーンなどで着色されている。カラフルだったりモノトーンだったり、一目見たときの印象はそれぞれに異なるのだけれど、壁や床に投げかける影が面白かった。

ところで、いま、図録で作品情報を確認してみて、こんなに色々な材料を使っていたのか…!と、改めて驚いてしまった。材料の表面を塗っているためだと思うのだが、一昨年、展示室を訪れたときには、木や金属の質感をそんなに気にかけていなかったのである。素材の質感が絵の具や顔料の下に閉じ込められていて、展示室では、形と色の面白さを味わっていたような気がする。また、作品(シリーズ)名に「機械」とあるが、動力がついているわけではなく、これらのオブジェは自力では動けない。光線の加減や風など、他からやってくるエネルギーを利用して、その独特の存在感を醸し出している。重たい装置を持たず、環境に依存する「機械」は実際に軽やかだし、しかも役立たず者として飄々と展示空間を占拠する。

さて、この1930年という年だが、ムナーリはほかに、アレッサンドリアのチルコロ・ウニヴェルシターリ・ファシスティで3月に開催された「未来派芸術展」、ミラノのミケーリ画廊で5月から6月に開催された「第55回協会展」、ミラノのペーザロ画廊で10月から11月にかけて開催された「建築家サンテリアと未来派画家22人」展などに参加している。

 一方のレオーニはと言えば、この年、ヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世商業技術高等学校を卒業し、税理士の資格を得ている。大学に進学するが、美術や工芸の学校ではなく、ジェノヴァ大学経済商学部に入学した。前年(1929年)にカンパリに作品を持ち込んだレオーニの行動力には目を見張らされるが、まだまだ学生である。

 

【書誌情報】

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp. 342-357

「レオ・レオーニ 年譜」森泉文美・松岡希代子著『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp. 216-219 ※執筆担当者の表示なし

 

遠藤知恵子(センター助手)

2021年11月5日金曜日

ムナーリとレオーニ(6)

 1926-1929年 ②カンパリとレオーニ


 ムナーリとレオーニは二人とも、未来派の陶芸作家の工房で陶芸を学んだり、作品を制作したりしていた。未来派の一員となったときムナーリはすでに広告デザインの仕事をしており、ムナーリより3歳若いレオーニは、まだ高等学校を卒業していなかったけれど、カンパリ社に広告作品を持ち込んでいた。

アルコールを嗜まないため、私自身は「カンパリ」と言われても全くピンとこないのだが、手元にある電子辞書の『デジタル大辞泉』に「カンパリ(Campari)」の項目があった。カンパリはビターオレンジと薬草を原料とするリキュール。苦味が強くて、鮮やかな赤い色と柑橘系の香りが特徴なのだそうだ。食前酒として飲んだり、カクテルにしたりするという。

「ブルーノ・ムナーリ」展図録のキャプションによれば、カンパリの発売開始は1862年。2代目経営者ダヴィデ・カンパリのときに、広告デザインに同時代の前衛芸術家を起用し、カンパリ社は世界的な大成功をおさめていた。未来派の芸術家たちも、カンパリ社の仕事をしている(p.49 担当:盛本直美)。

レオーニが持ち込んだとされる広告デザインは、2020年の「だれも知らないレオ・レオーニ」展で展示され、図録にも3点が収録されている。そのうちの1点は、半ズボンや短いスカートを穿いた子どもたちが、ついさっきまで楽しんでいた大道芸人のパフォーマンスそっちのけで、カンパリの入ったコップを持った紳士の元に走り出すというもの。子どもの飲酒を誘っているように見えて、「今日から考えるとあまり教育的ではなかったかもしれません」という図録の解説(p.21 担当:森泉文美)にはただただ頷くばかりである。だが、現代の日本人としての規範感覚から少し距離を取り、レオーニの広告デザインを改めて見てみると、画面の右から左へと流れていくストーリーが読み取れる。子どもたちがコップに入ったカンパリを目指してまっしぐらに走っていく様子は、人々の欲望を商品に向けて誘導する広告デザインのもつ性質のひとつを、率直に物語っているようにも感じられる。

 

【書誌情報】

l  奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」(『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp. 342-357

l  「レオ・レオーニ 年譜」(森泉文美・松岡希代子『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp. 216-219) ※執筆担当者の表示なし

 

遠藤知恵子(センター助手)

2021年11月4日木曜日

センター入り口のミニ展示 11月4日~7日

センターの宝物

 センター入り口で、センター蔵書(Z本)のミニ展示を行っております。こちらの図書は展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。


展示中の本

舟崎克彦・作、長新太・絵『うわさのマメずきん』あかね書房、1994


【ポップより】

児童文化研究センターの打ち合わせスペースに飾ってある、原画作品をご覧になったことはありますか?

児童文化研究センターの宝物のひとつ。それは、舟崎克彦先生の『うわさのマメずきん』に、長新太さんが描かれた絵です。舟崎先生が生前、ご寄贈くださいました。謎のヒーロー、マメずきんが物の怪たちに囲まれ、あわや絶体絶命!?…という絵柄なのですが、よ~く見ると、物の怪たちの顔が楽しそうなこの絵。原画では、夜の暗さを表す青い絵の具の色が、意外にも透明感があり、きれいです。

印刷物にはない鮮やかさや、絵の具の微妙な重なり具合を、ぜひ、間近で見てください。