2022年10月28日金曜日

吉祥草と熊沢健児

 

曇り空のもと、熊沢健児氏がキャンパス内でピクニックをしています。



「今年も吉祥草(キチジョウソウ)が咲いたんだよ」と、熊沢氏。


熊沢氏が示す先には、咲き始めたばかりの可憐な花がありました。


目が慣れてくると、いくつもの花を見つけることができました。


※熊沢氏がピクニックシートの代わりに使っていたキッチンペーパーは、センターに戻った後、床のお掃除に再利用されました。

2022年10月27日木曜日

ムナーリとレオーニ(23)

1939

 

 ブルーノ・ムナーリとレオ・レオーニ、二人のアーティストの展覧会図録の年譜をひたすら読み続けるというこの不定期エッセイ、3か月ぶりに再開したい。今回は1939年。この年は9月のドイツのポーランド侵攻を皮切りに、第二次世界大戦が始まった年である。

 19393月に、レオーニは父ルイスとともにアメリカに渡る。図録の解説には、アメリカ亡命を決めたときのレオーニの持ち物について、「唯一持参したものが、油画に打ち込む決心をした高校時代に購入したイーゼル」(執筆:森泉文美p.100)と書いてある。

レオーニは父のつてでフィラデルフィアの広告代理店N.W.エイヤー・アンド・サンの面接を受け、アートディレクターのアシスタントの職を得ると、直属の上司となったレオン・カープという人物から油彩画を学んでいる。就職と同時に、休日画家レオ・レオーニが誕生した。

なお、解説を読むと、レオーニが採用された決め手となったのは「彼の知的でユーモラスな人間性」(p.38 同上)だったようだ。そういえば、「だれも知らないレオ・レオーニ」展には、広告の没原稿というユニークな展示物があった。没になった理由が赤字でユーモアたっぷりに書き込まれた、ペン書きのイラストと短めの文章が組み合わされた原稿である。解説によると、こうした没原稿をあつめた没原稿集が、おそらく社内限定で、刊行されていたのだそうだ。「1案の承認に対し、少なくとも6案は描く必要がある仕事だったので大量の没が存在した」(p.44 同上)というから、日の目を見ないアイディアの数々も、明るく笑い飛ばしていたのだろう。この年の秋、妻ノーラ・長男ルイス・次男パオロもアメリカに到着し、フィラデルフィアでの一家の暮らしが始まった。

 一方、ムナーリはというと、この年の6月に創刊された『テンポ』誌のアートディレクターになっている。1939年の時点ではまだ、イタリアは第二次世界大戦に参戦してはいない。

『だれも知らないレオ・レオーニ』に収録された寄稿に、この時期のムナーリがさりげなく登場しているので、その部分をちょっと引用しておきたい。

 

1930年代後半のモンダドーリでは、チェーザレ・サヴァッティーニが複数の雑誌の編集長兼ライターとして活動し、ブルーノ・ムナーリがグラフ週刊誌『Tempo(テンポ)』の初代アートディレクターとして採用されている。第二次世界大戦後の、イタリアの芸術家や文化人の世界的活躍を準備した要素としても、この時代のメディア状況は改めて注目されるべきだろう。(p.37

 

太田岳人「特別寄稿 両大戦間期のイタリアのメディア文化」

 

 モンダドーリは出版社の名前。ムナーリの1939年の年譜は、この『テンポ』誌のことと、参加したグループ展のことが書かれているのみ。記述は少ないのだけれど、レオーニと比べ、ムナーリは途切れなくキャリアを積み重ねているように見える。しかし、先ほどの太田さんも同じ寄稿の別の箇所で指摘しているのだが、両大戦間期のイタリアはファシスト党の支配下にあった。

 

ところで、去る1024日はムナーリの誕生日だった。少し遅くなってしまったけれど、この記事をブログにアップし終えたら、温かいおしるこ缶を飲んでお祝いする予定である。

 

【書誌情報】

「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし

太田岳人「特別寄稿 両大戦間期のイタリアのメディア文化」同上、pp.36-37

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357


遠藤知恵子(センター助手)

2022年10月20日木曜日

センター閉室のお知らせ

 児童文化研究センターは、白百合祭のため10月21日(金)から24日(月)まで閉室とさせていただきます。

 ご不便をおかけいたしますが、何卒ご了承くださいませ。

シマウマ氏とお散歩にでかける熊沢健児氏。
おやつの入ったポシェットをお忘れなく!


猫村たたみの三文庫(非)公式ガイド

 (16)三文庫クイズ(金平文庫・復習編)にゃ!

 

センター構成員の皆さま、ご機嫌いかがかにゃ?

三文庫の守り猫、猫村たたみですにゃ。

 

今日は三文庫クイズ(金平文庫・復習編)をしたいと思いますのにゃ。クイズは全部で3問。全問正解できるかにゃ~?

 

それでは、第1問。(にゃにゃ~ん!)

金平文庫のもとの持ち主は、金平聖之助先生なのにゃけど、金平先生はどんなお仕事をしていた人かにゃ?

 

 続きまして、第2問。(にゃにゃ~ん!)

 金平文庫の資料の請求記号は紫色のシールに印字してあるのにゃけど、この請求記号、アルファベットの何の文字から始まるかにゃ?

 

 ラスト、第3問ですにゃ。(にゃにゃ~ん!)

 金平文庫の特徴を一言で表すと、次のどれだと思うかにゃ?

 ①英語圏の児童書だけでなく、ロシア語・フランス語など、英語圏以外の絵本もある。

 ②ファイルに入った、絵本以外の資料もある。

 ③判型の大きい絵本や小さい絵本など、さまざまな大きさの絵本がある。

 

 構成員の皆さまには、ちょっと簡単すぎるかもしれないのにゃ~。早速、答え合わせをいたしますにゃ。

 

 第1問の答え:幼年雑誌の編集者

 金平文庫は、金平先生が雑誌の企画資料として蒐集した約6000冊の児童書でできておりますにゃ。

 

 第2問の答え:K

 金平先生のお名前からとった「K」ですにゃ!

 

 第3問の答え:①②③全部ですにゃ!

 ①英語が主体にゃけど、それ以外の言語もあるのにゃよ。②「金平文庫資料」というシールの貼ってある棚にピンクのファイルが並んでおりますにゃ。教育玩具やリーフレット類などが入っているので、金平文庫にお立ち寄りの折には、ぜひ、チェックしていただきたいですにゃ。③洋の東西を問わず、絵本の判型は多様にゃ! 小さな絵本は本棚の奥に入り込んでしまっていることもあるから、見落とさないように注意してにゃ~。

 

 皆さま、クイズはいかがでしたかにゃ?

 金平文庫は、金平先生が生前、お仕事のために蒐集した、いろいろな外国の絵本がありますにゃ。図書館のラインナップとは異なる、個人の蔵書がもとになっている文庫にゃから、ときどき入って並んでいる絵本を眺めることが、思わぬ発見につながることもあるかもしれないにゃね。

人が密集しないように人数制限を設けることもあるかもしれないのにゃけど、たいていの場合は空いていて、すんなり入れますにゃ。構成員の皆さまは特に、簡単な手続きで入庫できるので、お時間のあるときにぜひお立ち寄りくださいませにゃ~。

 

感染対策は継続しつつ、皆さまに利用していただけるよう、私こと猫村たたみ、今後とも全力で三文庫をお守りいたしますにゃ!

2022年10月13日木曜日

ミニ展示 10月14日~11月3日

 センター入り口で、センター蔵書のミニ展示を行っております。こちらの本は、展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。


展示中の本

『ずっとのおうちを探して

世界で一番古い動物保護施設〈バタシー〉の物語

ギャリー・ジェンキンス 著 永島憲江 訳

国書刊行会 2022

 

この本を翻訳した、永島憲江さんからのご寄贈です。

永島さんは、本学大学院児童文学専攻のOGです。

熊沢健児の気になる企画展

「堀内誠一 絵の世界」展

 生誕90年を記念して、今年から来年にかけて堀内誠一さん(1932-1987)の回顧展が全国を巡回している。私は、730日から925日までを会期とする、神奈川近代文学館での展示に行ってきた。

 享年54歳と、とても早くに亡くなってしまった堀内さん。社会に出たのは14歳の頃とのこと。展示物を子どもの頃のものから順に見ていくと、敗戦直後の日本の貧しさや、そのために短くなったのであろう子ども時代について、自然と考えさせられてしまう。だから少し切なくもなるのだけれど、絵本原画の明るくて濁りのない色合いや、子どもの成長に等身大で寄り添ってくれるような登場人物(キャラクター)たちの絵姿を見ていると、切なさよりも、個人が自立して生きることの嬉しさや、希望の方へと、意識が向いていく。

 堀内さんは若い頃から才能を発揮していたため、デザインやアートディレクション、そして絵本などの仕事をしていた期間は想像していたより長く、仕事の内容もとても濃い。文学者との交流にも焦点を当てたという本展では、堀内さんの筆まめな一面も垣間見ることができて面白かった。パリに住んでいたころに様々な人に送ったという、絵入りの手紙がチャーミングなのである。

そして、旅のこと。今回の展示を見て、私は図録を買わずに『GUIDE anan パリからの旅 パリとフランスの町々』(マガジンハウス、1990年)を買ってしまった。絵だけでなく、旅に関わる展示物もとても魅力的な企画展だったのだが、地図やスケッチなどへのこまやかな書き込みは、会期終了間際のお客さんの多い展示室ではとてもではないが読み切れなかった。

正直、ちょっと読みにくいけれど、あの手書き文字の中に、異なる文化圏で暮らし、旅を楽しむための知恵が詰まっているような気がした。読み切れないままに家に帰るのはもったいなくて、ガイドブックとしてまとまった旅の記録を、手元に置いておきたくなったのだ。おおよそB5サイズの、200ページを越えるどっしりとしたガイドブックである。旅行のお供にしても良いのだが、この本自体が面白い読み物であるため、繰り返し熟読したくなる。実際に現地に行ってみる頃には、ここに書いてあることはだいたい覚えてしまっているだろう。

熊沢健児(ぬいぐるみ・名誉研究員)

 

【展覧会情報】

「堀内誠一 絵の世界」展

会場:神奈川近代文学館

主催:県立神奈川近代文学館、公益財団法人神奈川文学振興会

会期:2022730日(土)-925日(日)


2022年10月6日木曜日

熊沢健児の気になる展覧会

黒いテーブル

会期終了直前にどうにか間に合い、「原弘と造形:1920年代の新興美術運動から」展を観てくることができた。展示物を置くテーブルの、黒い天板が印象的な展示だった。印刷物など紙のものが多かったので、テーブルが黒いと展示物がよく映える。そのほかにも、本を見やすく展示する工夫がたくさんあって、ただただ感嘆しながら順路を辿ったのだった。

原弘(はら ひろむ 1903-1986)は一時期、光吉文庫のもとの持ち主である光吉夏弥(1904-1989)と一緒に仕事をしていた。今年3月の沼辺信一氏講演会でロシア絵本コレクターとして言及された原は、20世紀の日本を代表するデザイナーの一人として知られている。

この展覧会では習作期の図案作品(「習作期」と言っても、そつのない図案ばかりが並んでいて溜息が出る)から戦時中の対外文化宣伝・対外軍事宣伝の仕事までを中心としており、戦後の作品については装丁の仕事を少しだけ見ることができた。

原は1918年に東京府立工芸学校に入学し、平版科で印刷技術を学ぶなかで(※1)、海外の最新のグラフィック・デザイン(※2)を摂取していく。1919年にはドイツでバウハウスが創設されていたし、この時代に印刷技術の研究を通じて海外のデザインを学ぶことは、刺激的で面白かったに違いない。また、未来派、ダダ、構成主義といった海外の最新の動向を受けて日本で展開された新興美術運動に、原も一時期加わっていたことを、この展示を通じて知ることができた。

展示物で特に印象に残ったのは、『ひろ・はら石版図案集』(1926年)と『原弘石版図案集 Nr.Ⅱ』(1927年)という2冊の図案集。『ひろ・はら石版図案集』には、ワルワーラ・ブブノワから称賛されたという《石版術の始祖アロイス・ゼネフエルダー氏への感謝》(1925年、リトグラフ、26×19cm)が収録されている。原は卒業すると同時に助手として母校の教育に携わるようになり、この2冊の図案集も石版実習のためにまとめられたそうだ。先鋭的な美術運動に参加しながらも教育者として必要なバランス感覚は常に持っていたことがうかがわれ、興味深かった。

 原弘は名取洋之助(1910-1962)らの日本工房(第一次)に参加し、日本工房を離れた後も海外に向けて日本の文化などを紹介する雑誌のアートディレクションを担った。インパクトのある表紙や誌面が目を引く。だが、原の前半生において最も充実していると言っても良さそうな素晴らしい仕事が、戦争に直結するものだったということを、どう受け止めればよいのだろうか? さまざまな試みを重ねて表現がこなれていくのと全く軌を一にして、太平洋戦争の勃発と戦況の悪化が続いているのが、展示物から読み取れる。そして、その先には、戦後の活躍と名声がある。うーん、これは一筋縄ではいかないぞ。そんなことを思いながら、黒いテーブルに美しく並ぶ雑誌を眺めていたのであった。

 

1 当時はリトグラフの方法を応用したオフセット印刷が最新の印刷技術だったとのこと。

2 まだこの呼び方は日本では一般的ではなかったけれど、ともかく今で言うところの「グラフィック・デザイン」に相当するもの。

 

熊沢健児(ぬいぐるみ・名誉研究員)

本を立てて展示する、あの三角の板に棒を付けたやつ…ボール紙でなんとか手作りできないものだろうか…と思案する熊沢健児氏











【作品情報等の出典について】

このテキストを作成するにあたり、同展覧会の図録を参照しました。

西村碧・大野智世『原弘と造形:1920年代の新興美術運動から』武蔵野美術大学 美術館・図書館、2022

 

【展覧会情報】

「原弘と造形:1920年代の新興美術運動から」展

会場:武蔵野美術大学 美術展示室3

主催:武蔵野美術大学 美術館・図書館

会期:2022711日(月)-814日(日)、95日(月)-102日(日)