黒いテーブル
会期終了直前にどうにか間に合い、「原弘と造形:1920年代の新興美術運動から」展を観てくることができた。展示物を置くテーブルの、黒い天板が印象的な展示だった。印刷物など紙のものが多かったので、テーブルが黒いと展示物がよく映える。そのほかにも、本を見やすく展示する工夫がたくさんあって、ただただ感嘆しながら順路を辿ったのだった。
原弘(はら ひろむ 1903-1986)は一時期、光吉文庫のもとの持ち主である光吉夏弥(1904-1989)と一緒に仕事をしていた。今年3月の沼辺信一氏講演会でロシア絵本コレクターとして言及された原は、20世紀の日本を代表するデザイナーの一人として知られている。
この展覧会では習作期の図案作品(「習作期」と言っても、そつのない図案ばかりが並んでいて溜息が出る)から戦時中の対外文化宣伝・対外軍事宣伝の仕事までを中心としており、戦後の作品については装丁の仕事を少しだけ見ることができた。
原は1918年に東京府立工芸学校に入学し、平版科で印刷技術を学ぶなかで(※1)、海外の最新のグラフィック・デザイン(※2)を摂取していく。1919年にはドイツでバウハウスが創設されていたし、この時代に印刷技術の研究を通じて海外のデザインを学ぶことは、刺激的で面白かったに違いない。また、未来派、ダダ、構成主義といった海外の最新の動向を受けて日本で展開された新興美術運動に、原も一時期加わっていたことを、この展示を通じて知ることができた。
展示物で特に印象に残ったのは、『ひろ・はら石版図案集』(1926年)と『原弘石版図案集 Nr.Ⅱ』(1927年)という2冊の図案集。『ひろ・はら石版図案集』には、ワルワーラ・ブブノワから称賛されたという《石版術の始祖アロイス・ゼネフエルダー氏への感謝》(1925年、リトグラフ、26×19cm)が収録されている。原は卒業すると同時に助手として母校の教育に携わるようになり、この2冊の図案集も石版実習のためにまとめられたそうだ。先鋭的な美術運動に参加しながらも教育者として必要なバランス感覚は常に持っていたことがうかがわれ、興味深かった。
原弘は名取洋之助(1910-1962)らの日本工房(第一次)に参加し、日本工房を離れた後も海外に向けて日本の文化などを紹介する雑誌のアートディレクションを担った。インパクトのある表紙や誌面が目を引く。だが、原の前半生において最も充実していると言っても良さそうな素晴らしい仕事が、戦争に直結するものだったということを、どう受け止めればよいのだろうか? さまざまな試みを重ねて表現がこなれていくのと全く軌を一にして、太平洋戦争の勃発と戦況の悪化が続いているのが、展示物から読み取れる。そして、その先には、戦後の活躍と名声がある。うーん、これは一筋縄ではいかないぞ。そんなことを思いながら、黒いテーブルに美しく並ぶ雑誌を眺めていたのであった。
註
1 当時はリトグラフの方法を応用したオフセット印刷が最新の印刷技術だったとのこと。
2 まだこの呼び方は日本では一般的ではなかったけれど、ともかく今で言うところの「グラフィック・デザイン」に相当するもの。
熊沢健児(ぬいぐるみ・名誉研究員)
本を立てて展示する、あの三角の板に棒を付けたやつ…ボール紙でなんとか手作りできないものだろうか…と思案する熊沢健児氏 |
【作品情報等の出典について】
このテキストを作成するにあたり、同展覧会の図録を参照しました。
西村碧・大野智世『原弘と造形:1920年代の新興美術運動から』武蔵野美術大学
美術館・図書館、2022年
【展覧会情報】
「原弘と造形:1920年代の新興美術運動から」展
会場:武蔵野美術大学 美術展示室3
主催:武蔵野美術大学 美術館・図書館
会期:2022年7月11日(月)-8月14日(日)、9月5日(月)-10月2日(日)