1939年
ブルーノ・ムナーリとレオ・レオーニ、二人のアーティストの展覧会図録の年譜をひたすら読み続けるというこの不定期エッセイ、3か月ぶりに再開したい。今回は1939年。この年は9月のドイツのポーランド侵攻を皮切りに、第二次世界大戦が始まった年である。
1939年3月に、レオーニは父ルイスとともにアメリカに渡る。図録の解説には、アメリカ亡命を決めたときのレオーニの持ち物について、「唯一持参したものが、油画に打ち込む決心をした高校時代に購入したイーゼル」(執筆:森泉文美p.100)と書いてある。
レオーニは父のつてでフィラデルフィアの広告代理店N.W.エイヤー・アンド・サンの面接を受け、アートディレクターのアシスタントの職を得ると、直属の上司となったレオン・カープという人物から油彩画を学んでいる。就職と同時に、休日画家レオ・レオーニが誕生した。
なお、解説を読むと、レオーニが採用された決め手となったのは「彼の知的でユーモラスな人間性」(p.38 同上)だったようだ。そういえば、「だれも知らないレオ・レオーニ」展には、広告の没原稿というユニークな展示物があった。没になった理由が赤字でユーモアたっぷりに書き込まれた、ペン書きのイラストと短めの文章が組み合わされた原稿である。解説によると、こうした没原稿をあつめた没原稿集が、おそらく社内限定で、刊行されていたのだそうだ。「1案の承認に対し、少なくとも6案は描く必要がある仕事だったので大量の没が存在した」(p.44 同上)というから、日の目を見ないアイディアの数々も、明るく笑い飛ばしていたのだろう。この年の秋、妻ノーラ・長男ルイス・次男パオロもアメリカに到着し、フィラデルフィアでの一家の暮らしが始まった。
一方、ムナーリはというと、この年の6月に創刊された『テンポ』誌のアートディレクターになっている。1939年の時点ではまだ、イタリアは第二次世界大戦に参戦してはいない。
『だれも知らないレオ・レオーニ』に収録された寄稿に、この時期のムナーリがさりげなく登場しているので、その部分をちょっと引用しておきたい。
1930年代後半のモンダドーリでは、チェーザレ・サヴァッティーニが複数の雑誌の編集長兼ライターとして活動し、ブルーノ・ムナーリがグラフ週刊誌『Tempo』の初代アートディレクターとして採用されている。第二次世界大戦後の、イタリアの芸術家や文化人の世界的活躍を準備した要素としても、この時代のメディア状況は改めて注目されるべきだろう。(p.37)
太田岳人「特別寄稿 両大戦間期のイタリアのメディア文化」
モンダドーリは出版社の名前。ムナーリの1939年の年譜は、この『テンポ』誌のことと、参加したグループ展のことが書かれているのみ。記述は少ないのだけれど、レオーニと比べ、ムナーリは途切れなくキャリアを積み重ねているように見える。しかし、先ほどの太田さんも同じ寄稿の別の箇所で指摘しているのだが、両大戦間期のイタリアはファシスト党の支配下にあった。
ところで、去る10月24日はムナーリの誕生日だった。少し遅くなってしまったけれど、この記事をブログにアップし終えたら、温かいおしるこ缶を飲んでお祝いする予定である。
【書誌情報】
「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし
太田岳人「特別寄稿 両大戦間期のイタリアのメディア文化」同上、pp.36-37
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357
遠藤知恵子(センター助手)