児童文化研究センターは、12月27日(火)から1月5日(木)まで閉室とさせていただきます。ご不便をおかけいたしますが、なにとぞご了承くださいません。
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ヒマラヤ杉のツリー |
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テディベアのサンタクロース |
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ツリーの向かい側には紅葉 |
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道に散り敷く紅葉 |
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楽しいクリスマスをお過ごしください |
センター入り口で、センター蔵書のミニ展示を行っております。こちらの資料は、展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。
展示中の図書
『おおきいツリー ちいさいツリー』
ロバート・バリー
さく 光吉夏弥 やく
大日本図書 2000年
こちらの資料は、展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。
第二次世界大戦終結の年、レオーニと妻のノーラはアメリカ国籍を取得する。『だれも知らないレオ・レオーニ』には、この頃に諷刺的な意図をもって描かれた水彩画などの図版が収録されている。ヒトラーに対する憎悪を直接的に表したものに加え、伝統的な画題である「スザンナと長老たち」に基づく諷刺画もあって、刺激的で興味深い。
ムナーリの方はと言えば、『決して満足しない』などの7冊の絵本をミラノのモンダドーリ出版から出している。7冊の絵本のタイトルは図録で紹介されている(『決して満足しない』、『トラックの男』、『トントン』、『緑の手品師』、『3羽の小鳥の物語』、『どうぶつはいかが』、『ジージの帽子はどこにあるのかな』(執筆者TM=塚田美紀、p.96))。これらの絵本の掲載図版を眺めていると、シンプルだけど何だかとても楽しくて、とても敗戦から2年目の国のものとは思えない。「日本の敗戦2年目、1947年はどうだったんだろう?」などと考えながら、ひとまず図録を閉じた。
【書誌情報】
「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357
遠藤知恵子(センター助手)
センター入り口で、センター蔵書のミニ展示を行っております。
展示中の図書
『山のクリスマス』
ルドウィヒ・ベーメルマンス
文・え 光吉夏弥 訳・編
岩波書店 1953年
光吉夏弥先生が編集と翻訳を手がけられた、〈岩波の子どもの本〉シリーズのなかの1冊です。
こちらの資料は、展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。
皆さま、ご機嫌いかがかにゃ?
三文庫の守り猫、猫村たたみですにゃ。
12月に入り、白百合女子大学でもツリーの点灯式が行われましたのにゃ。節電の冬にゃけど、きれいなイルミネーションは心を温めてくれますにゃ~。
センター前の掲示板もご覧の通り、助手さんたちが可愛くデコレーションをいたしましたのにゃよ。
にゃにゃ~ん!
(猫村、冊子をパラパラとめくる)にゃ~むにゃむ…電子ブックの使い方を分かりやすくまとめているのにゃね~。
大学図書館が所蔵している電子ブックは、OPACまたはデータベースJapanKnowledgeで探すことができるそうにゃ。
学内からも学外からもアクセスできて、パソコンでもスマホでも読めるから、ちょっとした空き時間も充実の読書タイムに変わるのにゃ。
そして、『知ってる? 電子Book』には、大学図書館の購買タイトルから「語学」「就活」「その他」の比較的実用的な電子ブックが紹介されているのにゃ。学内にゃったらQRコードを使って簡単にそれらの電子ブックにアクセスすることができるから、お試しで何冊か読んでみることもできるのにゃ。この配布冊子もただ者ではないのにゃね~。…はにゃ~(猫村、感心する)。院生の皆さま、ぜひお手に取ってご覧くださいませにゃ~。
1943年9月8日、イタリアは連合国軍に無条件降伏し、敗戦を迎えた。ムナーリの年譜には世界情勢や政治に関わる記載が非常に少ないため、前回(1943年)、うっかり失念していたのだけれど、1944年にはもう、イタリアの対外戦争はひとまず終結していた。
戦争が終わったから…か、どうかは分からないが、1942年・1943年には見られなかった展覧会の記載が、1944年には2つもある。どちらもミラノの画廊で開かれたムナーリの個展で、このうちの1つには「抽象絵画」というタイトルがついている。
出版物の仕事についての記載も、前年の2件から増えて、5件もある。そのうちの1件は未出版に終わった企画。『ABCダダ』という題名の本だったそうだ。年譜には、「21の挿画からなる本」(p.344)という説明がある。イタリアで、ダダ…? しかも1944年に。すごく気になる。何をしたかったのだろう。出版されたものの中にはムナーリ編『ムナーリの図解ユーモア・カタログ』(ミラノ、ウルトラ出版)なんて、楽しそうなタイトルの書籍もあって、平和っていいな、と思う。
【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357
遠藤知恵子(センター助手)
レオーニの年譜には1943年の記載がないので、今回も、読むのはムナーリの1943年の年譜のみ。
この年のムナーリには、写真に関わる話題が二つある。『写真イタリアの写真に関する活動についての初の検証』(ドムス出版グループ、ミラノ。本のタイトル、原文ママ)にムナーリの写真作品が掲載され、『フォトグラファーレ』(『ノーテ・フォトグラーフィケ』誌の定期購読者に無料配布された)に「絵筆を伴った写真」という記事が掲載される。この2誌については、図録に誌面の掲載は見られない。
前回は漫画のことが話題になり、今回は写真。ムナーリが『テンポ』誌のアートディレクターに就任したのは1939年のことだった。漫画も写真も雑誌には欠かせない表現様式であり表現媒体だから、この2年分の年譜を読んで「あ! ムナーリが、雑誌の人になってる。」と、思わず呟きそうになってしまったのだけれど、実際のところはどうだったのだろう。
【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357
遠藤知恵子(センター助手)
この年、ムナーリはトリノのエイナウディという出版社から、『ムナーリのABCの本』と『ムナーリの機械』を出版している。この不定期連載を始めてかれこれ1年以上が経って、ようやく絵本の登場である…!
『ムナーリの機械』については、大学図書館でフランス語訳のものを読むことができる。図録の解説によると、この絵本は「漫画家ルーブ・ゴールドバーグが着想した装置に影響を受けた」絵本であり、また、ここに見られる「機械」は「学生時代に友人を笑わせるために考案し始めた」ものなのだという(執筆者TY=髙嶋雄一郎、p.143)。美術を専門とする研究者にとっては、この絵本は、ムナーリの一連の《役に立たない機械》シリーズの関連資料のような位置づけなのだろうか。
これまでにも何度か参照している太田岳人さんの論考の一つ、「漫画作品から絵本へ:『ムナーリの機械』の制作過程に関する一考察」(『早稲田大学イタリア研究所研究紀要』第9号、2020年3月、pp.1-28)によると、『ムナーリの機械』はエイナウディの「子供と青年の叢書」のうちの1冊だったそうだ。機関リポジトリで読めるPDF版の論文では図版が見られないのがもどかしいけれど、ユーモア紙『セッテベッロ』に掲載された1938年から1941年までのムナーリの漫画が、絵本『ムナーリの機械』の「機械」の原型になっているという事実がそれ自体で興味深い。また、ちょっと胡散臭いムナーリの「機械」に関する太田さんの説明が可笑しくて(胡散臭いものは、真面目に説明すればするほどかえって笑いを誘う)、論文を読んでいるはずなのについつい笑ってしまうのである。ファシズム政権下という背景を踏まえたうえで読み返すと、時には痛々しさも感じてしまうこの「笑い」について、正直、どう受け止めれば良いのか分からない。まずは手に届く範囲の資料をありのままに読んでいけたら、と思う。
さて、アメリカのレオーニはこの頃、どうしていたのだろうか。気になるのだけれども、レオーニの年譜は、1942年から1944年まで記載がない。
【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357
遠藤知恵子(センター助手)
センター入り口で、センター蔵書のミニ展示を行っております。こちらの資料は、展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。
展示中の資料
『こどもとしょかん』
東京子ども図書館 2022年秋
「児童図書館基本蔵書目録」全3巻完結を受けて、
今年8月に刊行された『知識の海へ』を中心とした特集が組まれています。
児童文化研究センターには既刊の目録のうち、『物語の森へ』(2017)が
あります。お手に取ってご覧ください。
今回も、ブルーノ・ムナーリとレオ・レオーニの年譜を読もう。まずはムナーリ。
1940年3月、ミラノのミリオーネ画廊で「ブルーノ・ムナーリの形而上のオブジェ」という個展を開催。また、5月から6月にかけて開催された第7回ミラノ・トリエンナーレでは、「近代のグラフィック・アートに関するセクションの展示プランを手がけ、ムナーリ自身も個別展示される」(p.344)とある。ムナーリはミラノ・トリエンナーレでどんな展示空間を作っていたのだろう。気になるけれど、図録からは分からない。また、『世界 空気 水 大地』を出版したということだけれど、これも、図録には見当たらない(1945年にモンダドーリ出版から子どもの絵本を7冊も刊行し、その後も子どもの本を手がけていたことを考えるなら、この『世界 空気 水 大地』も結構重要な資料だと思うのだけれど…)。それから、この年の9月には、息子のアルベルトが誕生している。翌年の1941年には「未来派原始宣言」に署名。12月に「原始グループ展」に参加。年譜には書いてないけれど、1940年6月、イタリアは第二次世界大戦に参戦している。
一方のレオーニは、1940年の記述はなし。亡命先のアメリカで、生活の基盤を確かなものにしようと仕事に精を出していたのではないだろうか。1939年に就職したN.W.エイヤーで、1941年にはアートディレクターに昇進している。年譜にはレオーニが担当した企業として「ゼネラル・エレクトリック」や「CCA」が挙げられている。図録の説明によると、CCAはコンテイナー・コーポレーション・オブ・アメリカという段ボール箱製造会社とのこと(p.48 執筆担当:森泉文美)。年譜を読んでいて「CCA」の文字にはいまひとつピンと来なかったけれど、「段ボール」という言葉を見て、ようやく思い出した。展示を見たとき、CCAの一連の広告の中にインドネシアの影絵芝居をもとにデザインされたものがあって、ひどく新鮮だったのだ。
ところで、図書館でたまたま手に取った『思想の科学』第16号(1963年7月。手塚治虫と加太こうじの対談記事が掲載されている号である)の共同討議の記事で、こんな発言をしている人がいた。
デザインの問題で、ヨーロッパ、アメリカ等とすぐ例に出されるのがオリベッティのタイプライター。文化の基礎は文字ですから文字の記述を機械化するタイプライターで、世界の文化を引きづって(ママ)ゆくのだというような勢いだった。アメリカだとそれがパッケージング会社なんです。広い曠野を物を運ばなきゃならない。そこが一番デザインがしっかりしている。(p.12 発言者:川添登)
ここでまず思い出されるのは、1931年にムナーリがリッカルド・リカスと立ち上げた「ストゥディオR+M」で、オリヴェッティ社と一緒に仕事をしていたこと。あと、発言者の言う「パッケージング会社」が、レオーニが担当したCCAのことなのかどうかは分からないけれど、『だれも知らないレオ・レオーニ』の解説によると、CCA創設者のウォルター・ペプケは、「グラフィックデザインの理論化に大きく貢献した、コロラド州アスペンでの国際デザイン会議を立ち上げたことでも有名」(p.48 執筆担当:森泉文美)とのこと。また、同じく解説によると、ペプケはアメリカのバウハウス派の擁護者でもあったそうだ。
イタリアとアメリカ。こうして年譜を読んでみると、ムナーリとレオーニは、それぞれの場所で、戦後の活躍につながる重要な流れの中にいたようだ。
【書誌情報】
「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357
ブルーノ・ムナーリとレオ・レオーニ、二人のアーティストの展覧会図録の年譜をひたすら読み続けるというこの不定期エッセイ、3か月ぶりに再開したい。今回は1939年。この年は9月のドイツのポーランド侵攻を皮切りに、第二次世界大戦が始まった年である。
1939年3月に、レオーニは父ルイスとともにアメリカに渡る。図録の解説には、アメリカ亡命を決めたときのレオーニの持ち物について、「唯一持参したものが、油画に打ち込む決心をした高校時代に購入したイーゼル」(執筆:森泉文美p.100)と書いてある。
レオーニは父のつてでフィラデルフィアの広告代理店N.W.エイヤー・アンド・サンの面接を受け、アートディレクターのアシスタントの職を得ると、直属の上司となったレオン・カープという人物から油彩画を学んでいる。就職と同時に、休日画家レオ・レオーニが誕生した。
なお、解説を読むと、レオーニが採用された決め手となったのは「彼の知的でユーモラスな人間性」(p.38 同上)だったようだ。そういえば、「だれも知らないレオ・レオーニ」展には、広告の没原稿というユニークな展示物があった。没になった理由が赤字でユーモアたっぷりに書き込まれた、ペン書きのイラストと短めの文章が組み合わされた原稿である。解説によると、こうした没原稿をあつめた没原稿集が、おそらく社内限定で、刊行されていたのだそうだ。「1案の承認に対し、少なくとも6案は描く必要がある仕事だったので大量の没が存在した」(p.44 同上)というから、日の目を見ないアイディアの数々も、明るく笑い飛ばしていたのだろう。この年の秋、妻ノーラ・長男ルイス・次男パオロもアメリカに到着し、フィラデルフィアでの一家の暮らしが始まった。
一方、ムナーリはというと、この年の6月に創刊された『テンポ』誌のアートディレクターになっている。1939年の時点ではまだ、イタリアは第二次世界大戦に参戦してはいない。
『だれも知らないレオ・レオーニ』に収録された寄稿に、この時期のムナーリがさりげなく登場しているので、その部分をちょっと引用しておきたい。
1930年代後半のモンダドーリでは、チェーザレ・サヴァッティーニが複数の雑誌の編集長兼ライターとして活動し、ブルーノ・ムナーリがグラフ週刊誌『Tempo』の初代アートディレクターとして採用されている。第二次世界大戦後の、イタリアの芸術家や文化人の世界的活躍を準備した要素としても、この時代のメディア状況は改めて注目されるべきだろう。(p.37)
太田岳人「特別寄稿 両大戦間期のイタリアのメディア文化」
モンダドーリは出版社の名前。ムナーリの1939年の年譜は、この『テンポ』誌のことと、参加したグループ展のことが書かれているのみ。記述は少ないのだけれど、レオーニと比べ、ムナーリは途切れなくキャリアを積み重ねているように見える。しかし、先ほどの太田さんも同じ寄稿の別の箇所で指摘しているのだが、両大戦間期のイタリアはファシスト党の支配下にあった。
ところで、去る10月24日はムナーリの誕生日だった。少し遅くなってしまったけれど、この記事をブログにアップし終えたら、温かいおしるこ缶を飲んでお祝いする予定である。
【書誌情報】
「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし
太田岳人「特別寄稿 両大戦間期のイタリアのメディア文化」同上、pp.36-37
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357
遠藤知恵子(センター助手)
センター構成員の皆さま、ご機嫌いかがかにゃ?
三文庫の守り猫、猫村たたみですにゃ。
今日は三文庫クイズ(金平文庫・復習編)をしたいと思いますのにゃ。クイズは全部で3問。全問正解できるかにゃ~?
それでは、第1問。(にゃにゃ~ん!)
金平文庫のもとの持ち主は、金平聖之助先生なのにゃけど、金平先生はどんなお仕事をしていた人かにゃ?
続きまして、第2問。(にゃにゃ~ん!)
金平文庫の資料の請求記号は紫色のシールに印字してあるのにゃけど、この請求記号、アルファベットの何の文字から始まるかにゃ?
ラスト、第3問ですにゃ。(にゃにゃ~ん!)
金平文庫の特徴を一言で表すと、次のどれだと思うかにゃ?
①英語圏の児童書だけでなく、ロシア語・フランス語など、英語圏以外の絵本もある。
②ファイルに入った、絵本以外の資料もある。
③判型の大きい絵本や小さい絵本など、さまざまな大きさの絵本がある。
構成員の皆さまには、ちょっと簡単すぎるかもしれないのにゃ~。早速、答え合わせをいたしますにゃ。
第1問の答え:幼年雑誌の編集者
金平文庫は、金平先生が雑誌の企画資料として蒐集した約6000冊の児童書でできておりますにゃ。
第2問の答え:K
金平先生のお名前からとった「K」ですにゃ!
第3問の答え:①②③全部ですにゃ!
①英語が主体にゃけど、それ以外の言語もあるのにゃよ。②「金平文庫資料」というシールの貼ってある棚にピンクのファイルが並んでおりますにゃ。教育玩具やリーフレット類などが入っているので、金平文庫にお立ち寄りの折には、ぜひ、チェックしていただきたいですにゃ。③洋の東西を問わず、絵本の判型は多様にゃ! 小さな絵本は本棚の奥に入り込んでしまっていることもあるから、見落とさないように注意してにゃ~。
皆さま、クイズはいかがでしたかにゃ?
金平文庫は、金平先生が生前、お仕事のために蒐集した、いろいろな外国の絵本がありますにゃ。図書館のラインナップとは異なる、個人の蔵書がもとになっている文庫にゃから、ときどき入って並んでいる絵本を眺めることが、思わぬ発見につながることもあるかもしれないにゃね。
人が密集しないように人数制限を設けることもあるかもしれないのにゃけど、たいていの場合は空いていて、すんなり入れますにゃ。構成員の皆さまは特に、簡単な手続きで入庫できるので、お時間のあるときにぜひお立ち寄りくださいませにゃ~。
感染対策は継続しつつ、皆さまに利用していただけるよう、私こと猫村たたみ、今後とも全力で三文庫をお守りいたしますにゃ!
センター入り口で、センター蔵書のミニ展示を行っております。こちらの本は、展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。
展示中の本
『ずっとのおうちを探して
世界で一番古い動物保護施設〈バタシー〉の物語』
ギャリー・ジェンキンス
著 永島憲江 訳
国書刊行会 2022年
この本を翻訳した、永島憲江さんからのご寄贈です。
永島さんは、本学大学院児童文学専攻のOGです。
生誕90年を記念して、今年から来年にかけて堀内誠一さん(1932-1987)の回顧展が全国を巡回している。私は、7月30日から9月25日までを会期とする、神奈川近代文学館での展示に行ってきた。
享年54歳と、とても早くに亡くなってしまった堀内さん。社会に出たのは14歳の頃とのこと。展示物を子どもの頃のものから順に見ていくと、敗戦直後の日本の貧しさや、そのために短くなったのであろう子ども時代について、自然と考えさせられてしまう。だから少し切なくもなるのだけれど、絵本原画の明るくて濁りのない色合いや、子どもの成長に等身大で寄り添ってくれるような登場人物(キャラクター)たちの絵姿を見ていると、切なさよりも、個人が自立して生きることの嬉しさや、希望の方へと、意識が向いていく。
堀内さんは若い頃から才能を発揮していたため、デザインやアートディレクション、そして絵本などの仕事をしていた期間は想像していたより長く、仕事の内容もとても濃い。文学者との交流にも焦点を当てたという本展では、堀内さんの筆まめな一面も垣間見ることができて面白かった。パリに住んでいたころに様々な人に送ったという、絵入りの手紙がチャーミングなのである。
そして、旅のこと。今回の展示を見て、私は図録を買わずに『GUIDE an・an パリからの旅 パリとフランスの町々』(マガジンハウス、1990年)を買ってしまった。絵だけでなく、旅に関わる展示物もとても魅力的な企画展だったのだが、地図やスケッチなどへのこまやかな書き込みは、会期終了間際のお客さんの多い展示室ではとてもではないが読み切れなかった。
正直、ちょっと読みにくいけれど、あの手書き文字の中に、異なる文化圏で暮らし、旅を楽しむための知恵が詰まっているような気がした。読み切れないままに家に帰るのはもったいなくて、ガイドブックとしてまとまった旅の記録を、手元に置いておきたくなったのだ。おおよそB5サイズの、200ページを越えるどっしりとしたガイドブックである。旅行のお供にしても良いのだが、この本自体が面白い読み物であるため、繰り返し熟読したくなる。実際に現地に行ってみる頃には、ここに書いてあることはだいたい覚えてしまっているだろう。
熊沢健児(ぬいぐるみ・名誉研究員)
【展覧会情報】
「堀内誠一 絵の世界」展
会場:神奈川近代文学館
主催:県立神奈川近代文学館、公益財団法人神奈川文学振興会
会期:2022年7月30日(土)-9月25日(日)
会期終了直前にどうにか間に合い、「原弘と造形:1920年代の新興美術運動から」展を観てくることができた。展示物を置くテーブルの、黒い天板が印象的な展示だった。印刷物など紙のものが多かったので、テーブルが黒いと展示物がよく映える。そのほかにも、本を見やすく展示する工夫がたくさんあって、ただただ感嘆しながら順路を辿ったのだった。
原弘(はら ひろむ 1903-1986)は一時期、光吉文庫のもとの持ち主である光吉夏弥(1904-1989)と一緒に仕事をしていた。今年3月の沼辺信一氏講演会でロシア絵本コレクターとして言及された原は、20世紀の日本を代表するデザイナーの一人として知られている。
この展覧会では習作期の図案作品(「習作期」と言っても、そつのない図案ばかりが並んでいて溜息が出る)から戦時中の対外文化宣伝・対外軍事宣伝の仕事までを中心としており、戦後の作品については装丁の仕事を少しだけ見ることができた。
原は1918年に東京府立工芸学校に入学し、平版科で印刷技術を学ぶなかで(※1)、海外の最新のグラフィック・デザイン(※2)を摂取していく。1919年にはドイツでバウハウスが創設されていたし、この時代に印刷技術の研究を通じて海外のデザインを学ぶことは、刺激的で面白かったに違いない。また、未来派、ダダ、構成主義といった海外の最新の動向を受けて日本で展開された新興美術運動に、原も一時期加わっていたことを、この展示を通じて知ることができた。
展示物で特に印象に残ったのは、『ひろ・はら石版図案集』(1926年)と『原弘石版図案集 Nr.Ⅱ』(1927年)という2冊の図案集。『ひろ・はら石版図案集』には、ワルワーラ・ブブノワから称賛されたという《石版術の始祖アロイス・ゼネフエルダー氏への感謝》(1925年、リトグラフ、26×19cm)が収録されている。原は卒業すると同時に助手として母校の教育に携わるようになり、この2冊の図案集も石版実習のためにまとめられたそうだ。先鋭的な美術運動に参加しながらも教育者として必要なバランス感覚は常に持っていたことがうかがわれ、興味深かった。
原弘は名取洋之助(1910-1962)らの日本工房(第一次)に参加し、日本工房を離れた後も海外に向けて日本の文化などを紹介する雑誌のアートディレクションを担った。インパクトのある表紙や誌面が目を引く。だが、原の前半生において最も充実していると言っても良さそうな素晴らしい仕事が、戦争に直結するものだったということを、どう受け止めればよいのだろうか? さまざまな試みを重ねて表現がこなれていくのと全く軌を一にして、太平洋戦争の勃発と戦況の悪化が続いているのが、展示物から読み取れる。そして、その先には、戦後の活躍と名声がある。うーん、これは一筋縄ではいかないぞ。そんなことを思いながら、黒いテーブルに美しく並ぶ雑誌を眺めていたのであった。
註
1 当時はリトグラフの方法を応用したオフセット印刷が最新の印刷技術だったとのこと。
2 まだこの呼び方は日本では一般的ではなかったけれど、ともかく今で言うところの「グラフィック・デザイン」に相当するもの。
熊沢健児(ぬいぐるみ・名誉研究員)
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本を立てて展示する、あの三角の板に棒を付けたやつ…ボール紙でなんとか手作りできないものだろうか…と思案する熊沢健児氏 |
【作品情報等の出典について】
このテキストを作成するにあたり、同展覧会の図録を参照しました。
西村碧・大野智世『原弘と造形:1920年代の新興美術運動から』武蔵野美術大学
美術館・図書館、2022年
【展覧会情報】
「原弘と造形:1920年代の新興美術運動から」展
会場:武蔵野美術大学 美術展示室3
主催:武蔵野美術大学 美術館・図書館
会期:2022年7月11日(月)-8月14日(日)、9月5日(月)-10月2日(日)
子供の窓を通して見た、これは今日の世界の人間像だが、子供版“ザ・ファミリー・オブ・マン”というのが、一ばんふさわしいかもしれない。
(クライン・タコニスほか『子供の世界』光吉夏弥訳、平凡社、1957年)
もしかして…と思い、検索してみたら、あった。
英語版の展覧会図録The Family of Manである。展覧会の企画者はエドワード・スタイケン(1879-1973)、図録のアート・ディレクターはレオ・レオーニ(1910-1999)。レオーニが初めての絵本『あおくんときいろちゃん』を出版したのが1959年だから、この図録は、まだ絵本作家になる前のレオーニの仕事である。恐ろしくメジャーな展覧会の図録だけれども、まさかここ白百合で手に取って見られるとは予想していなかった。
図録のはじめの方に展示風景を写した写真が掲載されている。会場いっぱいにさまざまな大きさの写真パネルを配置したインスタレーションである。人の入っていない展示空間の画像を、精一杯、想像をたくましくして見てみよう。まず、高価な美術品の展示とは違い、展示物と観客の距離感が近そうだ。写真を立体的に組み合わせて構成された空間の中に、観客が入り込んで動き回る。一枚一枚の写真が発するメッセージだけではなく、展示の構成によってもThe Family of Man(人間家族)の世界観を示し、同じ展示を見る人たちに一体感を与えようとしているのだろうか。
展示は68か国から集められた273人の撮影者による503枚の写真から成り、1955年から1962年までに38か国を巡回して9000000人の人々が訪れたという。日本にも来ていた。大変な規模だ。
図録の写真でその中身を確かめると、新しい生命の誕生を起点として、さまざまな国や地域での子どもの成長や家族のあり方、日々の暮らし方、食、労働、音楽、舞踊、遊び、学び、人の死、戦争、等々が提示されている。中でも興味深いのは、ヨーロッパ、南北アメリカ、中国、日本など各地で撮影された、手をつないで輪になる遊びの写真が並ぶ見開きのページ。人間って、住む場所が違っていても、こんなにも似ているものなのかと驚かされる。
もちろん、人類の普遍性を強調しすぎるこの展示のメッセージには、危うさがある。みんなと同じであることを押し付けられるのは誰にとってもつらいことだし、この展示によってかえってあらわになる貧富の差もある。でも、この遊びのような、意外な一致に興味をそそられてしまうのも事実だ。この驚きはちょうど、シンデレラの類話が世界各地にあるということを知ったときの驚きに似ている。
図録にはプロローグの言葉、写真、キャプションに加えて、古今東西の様々な有名人の言葉が華を添える。その中に岡倉覚三の『茶の本』からの引用を見つけたときは、思わず「おうっ」と声が出そうになってしまった。意外なところで、意外な人に出会う。
しかし、それにしても…と、思う。現役のデザイナーだった頃のレオ・レオーニの、グラフィックの仕事をリアルタイムで見ていた光吉夏弥。羨ましすぎる。
遠藤知恵子(センター助手)
展覧会が巡回した国の数や観客動員数は、DNP Museum Information Japan artscape(URL: https://artscape.jp/index.html)が提供している現代美術用語辞典「アートワード」の「『ザ・ファミリー・オブ・マン(人間家族)』展」の項目(執筆者:小原真史)を参照しました。
その判型から、はじめは子どものための写真絵本かと思ったけれど(およそ25×18.5cm、48p+後付8p、ハードカバー)、ページを開いてみると、世界中の子どもたちの生活ぶりを写真に収め、聞き取り調査に基づいてテキストをつけられたフォトエッセイだった。振り仮名などもなく、特に子ども向けに出版された本ではないようだ。光吉夏弥の前書き(解説)があって、写真と本文のあとに、撮影者であるマグナムの写真家たちがまとめたデータの抜粋(後付8pの部分)が収録されている。
被写体となり、取材を受けた子どもたちの名前と出身地、そして写真家の名前と、巻末に付された文章のタイトルは次の通り。
ラップランドのイーサク(クライン・タコニス「トナカイを追う子」)
イタリアのロベルティーノ(デーヴィッド・シーモア「少年ガイド」)
アフリカのエマニュエル(ジョージ・ロジャー「近侍の少年」)
フランスのアルレット(アンリ・カルティエ・ブレッソン「オペラ座の豆バレリーナ」)
キューバのフアナ(イヴ・アーノルド「キューバの島の娘」)
イギリスのイアン(インゲ・モラート「小さな紳士」)
ペルーのマリオ(コーネル・キャパ「アンデスのマリオ」)
アメリカのゲイリー(エリオット・アーウィット「未来の牧場主」)
近代化された都市空間で生活する子どもと、伝統的な暮らしを守り大自然に囲まれて生活する子ども。金持ちの家の子どもと、大人顔負けの観光ガイドをして家計を支える子ども。上流階級の子どもと、上流も下流もなくただただ元気に走り回る子ども。さまざまなコントラストがあり、思わずじっと写真に見入ってしまう。ちょっと得意がった、いかにもやんちゃな笑顔や、疲れてぼうっと座っている姿も、むつかしい顔をして何やら考えているらしい横顔も、子どもたちの姿はみんな魅力的だ。
取材対象となり、被写体となったこれらの子どもたちのそれぞれの境遇について、光吉は前書きで次のように記している。
ある社会では、子供はおとなの世界の現実からできるだけ長く護られている。そして、ある社会では、子供もできるだけ早くおとなの中に繰り入れられる。これも、どっちがいいか簡単にはきめられないことだ。ただ、わたしたちにわかっていいのは、子供には子供の考えがあるということだ。幸せも不幸も、子供は自分で持っているのである。
いまこうして引用のために光吉の文章を打ち込みながら、「ただ、わたしたちにわかっていいのは、」のフレーズが、つん、と胸に刺さった。一瞬、誤植を疑ったけれど、「わたしたちにわかっていい」という言い回しも、なんだかいいと思った。
子どもには子どもの考えがあるということ。わかっているべきだけれど、それを本当にわかるのは、なかなか難しいことでもある。あまり上手に言葉に表してくれない子どもたちは、それでも自分の考えを持って生きているし、幸せや不幸を自分自身で感じることができるひとつの独立した人格を持っている。
センター入り口で、センター蔵書のミニ展示を行っております。こちらの本は、展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。
展示中の本
『昔話の扉をひらこう』
小澤俊夫 暮しの手帖社 2022年
一緒に展示されている『暮しの手帖』(2022年2-3月号・8-9月号)には
小澤先生の対談記事やインタビュー記事が掲載されています。
併せてご覧ください。
センター構成員の皆様、ご機嫌いかがかにゃ?
三文庫の守り猫、猫村たたみですにゃ。
夏らしい、暑い季節になったのにゃね~。
大学の敷地は緑が豊かにゃから、ミンミン、ジワジワ、蝉がにぎやかですにゃ(今朝も蝉の抜け殻を見つけたのにゃ!)。
センターは8月5日(金)から9月22日(木)まで休室期間に入りますにゃ。
夏休みの間は三文庫が利用できなくて寂しいにゃね。コロナの感染状況も気になるのにゃ…にゃ~む、そんなときこそ、オンライン資料の出番にゃね。
今年の5月、国立国会図書館の「個人向けデジタル化資料送信サービス」が始まったのにゃけど、構成員の皆様におかれましては、既に利用されているかもしれないのにゃね~。
このサービスが始まったことで、国立国会図書館所蔵のデジタル化資料のうち、絶版などの理由で入手困難になっている資料を、自宅からオンラインで閲覧できるようになったのにゃ。
貴重書庫は言うにゃれば絶版の宝庫ですにゃ!
にゃから、センター三文庫の蔵書と同じ資料を、このサービスで閲覧できる場合もあるのにゃよ。まあ、もちろん、全部の資料が閲覧できるわけではないのにゃけど、手の届く範囲で調査研究を進めることができるのは嬉しいですにゃ。いろいろ大変な時代にゃけど、以前に比べて良くなったこともあるのにゃね~。
そして、「個人向けデジタル化資料送信サービス」で出会った資料がもし三文庫の資料に含まれていたら、お休み明けにぜひ直接見て確認していただきたいですにゃ。紙の質感や装丁の様子は実物を手に取ってみないと分からないですからにゃ~。デジタルの時代だからこそ、実物に触れる経験は大事にゃね。
院生の皆さんは特に、歴史的な価値があって実物が閲覧可能な資料は、必ず一度は実物を確認してくださいにゃ。猫村たたみのお願いにゃよ!
センター入り口で、センター蔵書のミニ展示を行っております。こちらの本は、展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。
展示中の本
『星空から来た犬』
ダイアナ・ウィン・ジョーンズ
原島文世 訳 佐竹美保 絵 早川書房 2004年
今回は、1937年から1938年にかけてのムナーリの年譜を読もう…と、意気込みながら図録を開いてみて、いまさらのように気づいたのだが、ムナーリの年譜はレオーニのものとは違い、世界情勢に関する事項はほぼ書かれていないと言って良い。わずかにプライベートなこと(1934年のディルマ・カルネヴァーリとの結婚や、1940年の息子アルベルトの誕生など)が書かれているばかりで、基本的には作品の展示やグラフィック・デザインのことで埋め尽くされていると言っていい。もちろんレオーニの年譜からも、彼が手掛けていた仕事の面白さや充実ぶりを読み取ることができるのだけれど、ムナーリと比べるとずっと社会の動きに左右されているし、引っ越しも多い。
…と、前置きが長くなってしまったけれど、ムナーリの年譜に戻ろう。
1937年11月20日、ムナーリはマリネッティの『乳の衣服に奉げる詩』(ミラノ・ズニア・ヴィスコーザ宣伝部)の表紙と挿画を手掛けている。また、この年から1940年にかけて、「『読書』『自然』『ドムス』といった雑誌に表紙デザイン、記事が多数掲載」(p.344)されたとある。『乳の衣服に捧げる詩』の表紙は、図録に図版が掲載されている。上部に、空から撮影した工業地帯のような写真(ぱっと見た感じ、半導体に見える)が小さく緑色で印刷されており、真ん中に角の生えた牛の顔が赤い線で大きく描かれている。そしてその牛の目元を隠すように、くしゃっと皺を寄せた布地(これは、写真を切り貼りしたものだろうか)が横切る。タイトルのIL POEMA DEL VESTITO DI LATTEの文字は上部の写真と同じ緑色で印字されている。異なる要素を組み合わせているけれど、見た感じ、そつのない印象を受ける。
この年、ムナーリは「グラフィックと写真芸術の特別展」、「全国近代舞台美術展」、「パリ万国博覧会」に参加している。「写真」や「近代舞台」などの文字が目につく。ちなみに、1937年のパリ万博は「近代生活におけるアートとテクノロジー」というテーマを掲げている。
1938年、ムナーリは「機械主義宣言」をまとめたが、この宣言が発表されるのは1952年。1952年の年譜をちょっと覗いてみると、次のように書かれている。
「機械主義宣言」、「総合芸術宣言」、「解体宣言」、「有機的芸術宣言」が掲載されたMAC会報『具体芸術』10号が出版される。(p.346)
相変わらず未来派の一員として活動しているけれど、ムナーリの頭のなかでは新たな展開を迎える準備が進んでいたらしい…そんなことが想像できる記述である。なお、この年、ムナーリは二つのグループ展に参加している。そのうちのひとつが「20世紀を越えて」(12月7日-9日、ミラノ、チルコロ・バルベラ)というタイトルのもの。まだ20世紀は62年も残っていたのに、もう「20世紀を越えて」だなんて、ちょっと気が早いのではないかと思ってしまったが、これは、戦争の世紀だった20世紀の様々な問題と、私たちがいまだに向き合っている最中だからなのかもしれない。
【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp. 342-357
【参考URL】
https://www.bie-paris.org/site/en/1937-paris
(Bureau International des Expositionsホームページ。1937年パリ万博)
遠藤知恵子(センター助手)
センター入り口で、センター蔵書のミニ展示を行っております。
今回は、ふだんキャビネットに収納している資料のなかから1冊、ご紹介いたします。
展示中の本
『こどもとしょかん』第173号
東京子ども図書館 2022年春号
こちらの号には、昨年冬に逝去された故・松岡享子さんが毛筆で書かれた「はるよこい」のカードが添えられておりましたので、併せて展示いたします。いまはもう夏なのですが、ふっくらとした優しいピンク色の文字を眺めていると、「あとちょっとだけ、がんばってみようかな」という気持ちになれそうです。特集は「東日本大震災復興支援事業『3.11からの出発』十年間の試み」(小関知子・内田直子)、巻頭言はフォトジャーナリストの佐藤慧さんです。
むかし住んでいた家の近くの池に、ヒキガエルが住んでいた。毎年6月になると、尻尾が取れて蛙の形になったばかりの、豆粒みたいな蛙たちが(喩えるなら、ハエトリグモくらいのサイズだった)、一斉に移動を始める。
近くに水辺なんてなかったけれど、とにかく彼らは池を出て、みな一様にひとつの方角を目指し、舗装路の上に小さな跳躍を重ねて進んでいった。どこか、ここではないどこかへ。道半ばにして事故に遭った蛙たちが、路上にぽつぽつとダークグレーの染みとなっているのは見かけたが、彼らが結局どこに行ったのかは、分からずじまいだった。
『かようびのよる』のページを繰りながら、私はあの6月の蛙たちのことを思った(あの子たちはまだ小さかったから、きっと、みんな…)。彼らも、この絵本に登場する蛙たちくらい大きくて、大胆で、睡蓮の葉に乗っていたらよかったのに。絵本の蛙たちが活き活きとしていればしているほど、悲しくなった。
絵本の最後のページを閉じてからもしばらくの間、考えてしまったのだった。
熊沢健児(ぬいぐるみ・名誉研究員)
センター入り口で、センター蔵書のミニ展示を行っております。
今回は、新たにご寄贈を受けた福田清人関連資料(目録)です。センターの打ち合わせスペース、向かって左側の本棚の、目録のところにあります。
展示中の本
『福田清人文庫』第1号~第20号
立教女学院短期大学図書館編 1992~2002年
目録に加え、『福田清人・人と文学』(鼎書房、2011年)もご寄贈いただきました。展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。