2022年11月3日木曜日

ムナーリとレオーニ(24)

1940-1941

  

 今回も、ブルーノ・ムナーリとレオ・レオーニの年譜を読もう。まずはムナーリ。

 19403月、ミラノのミリオーネ画廊で「ブルーノ・ムナーリの形而上のオブジェ」という個展を開催。また、5月から6月にかけて開催された第7回ミラノ・トリエンナーレでは、「近代のグラフィック・アートに関するセクションの展示プランを手がけ、ムナーリ自身も個別展示される」(p.344)とある。ムナーリはミラノ・トリエンナーレでどんな展示空間を作っていたのだろう。気になるけれど、図録からは分からない。また、『世界 空気 水 大地』を出版したということだけれど、これも、図録には見当たらない(1945年にモンダドーリ出版から子どもの絵本を7冊も刊行し、その後も子どもの本を手がけていたことを考えるなら、この『世界 空気 水 大地』も結構重要な資料だと思うのだけれど…)。それから、この年の9月には、息子のアルベルトが誕生している。翌年の1941年には「未来派原始宣言」に署名。12月に「原始グループ展」に参加。年譜には書いてないけれど、19406月、イタリアは第二次世界大戦に参戦している。

 一方のレオーニは、1940年の記述はなし。亡命先のアメリカで、生活の基盤を確かなものにしようと仕事に精を出していたのではないだろうか。1939年に就職したN.W.エイヤーで、1941年にはアートディレクターに昇進している。年譜にはレオーニが担当した企業として「ゼネラル・エレクトリック」や「CCA」が挙げられている。図録の説明によると、CCAはコンテイナー・コーポレーション・オブ・アメリカという段ボール箱製造会社とのこと(p.48 執筆担当:森泉文美)。年譜を読んでいて「CCA」の文字にはいまひとつピンと来なかったけれど、「段ボール」という言葉を見て、ようやく思い出した。展示を見たとき、CCAの一連の広告の中にインドネシアの影絵芝居をもとにデザインされたものがあって、ひどく新鮮だったのだ。

 ところで、図書館でたまたま手に取った『思想の科学』第16号(19637月。手塚治虫と加太こうじの対談記事が掲載されている号である)の共同討議の記事で、こんな発言をしている人がいた。

 

 デザインの問題で、ヨーロッパ、アメリカ等とすぐ例に出されるのがオリベッティのタイプライター。文化の基礎は文字ですから文字の記述を機械化するタイプライターで、世界の文化を引きづって(ママ)ゆくのだというような勢いだった。アメリカだとそれがパッケージング会社なんです。広い曠野を物を運ばなきゃならない。そこが一番デザインがしっかりしている。(p.12 発言者:川添登)

 

 ここでまず思い出されるのは、1931年にムナーリがリッカルド・リカスと立ち上げた「ストゥディオRM」で、オリヴェッティ社と一緒に仕事をしていたこと。あと、発言者の言う「パッケージング会社」が、レオーニが担当したCCAのことなのかどうかは分からないけれど、『だれも知らないレオ・レオーニ』の解説によると、CCA創設者のウォルター・ペプケは、「グラフィックデザインの理論化に大きく貢献した、コロラド州アスペンでの国際デザイン会議を立ち上げたことでも有名」(p.48 執筆担当:森泉文美)とのこと。また、同じく解説によると、ペプケはアメリカのバウハウス派の擁護者でもあったそうだ。

イタリアとアメリカ。こうして年譜を読んでみると、ムナーリとレオーニは、それぞれの場所で、戦後の活躍につながる重要な流れの中にいたようだ。

 

【書誌情報】

「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357

報告・多田道太郎、司会・山田宗睦、出席者・今村太平・川添登・長谷川龍生「共同討議・中井正一『美と美学の将来について』」『思想の科学』第16号(19637月)、pp.2-19

 

遠藤知恵子(センター助手)