2022年9月28日水曜日

光吉文庫の資料から ①フォトエッセイ

 クライン・タコニスほか『子供の世界』光吉夏弥訳、平凡社、1957

 

その判型から、はじめは子どものための写真絵本かと思ったけれど(およそ25×18.5cm48p+後付8p、ハードカバー)、ページを開いてみると、世界中の子どもたちの生活ぶりを写真に収め、聞き取り調査に基づいてテキストをつけられたフォトエッセイだった。振り仮名などもなく、特に子ども向けに出版された本ではないようだ。光吉夏弥の前書き(解説)があって、写真と本文のあとに、撮影者であるマグナムの写真家たちがまとめたデータの抜粋(後付8pの部分)が収録されている。

 被写体となり、取材を受けた子どもたちの名前と出身地、そして写真家の名前と、巻末に付された文章のタイトルは次の通り。

 

 ラップランドのイーサク(クライン・タコニス「トナカイを追う子」)

 イタリアのロベルティーノ(デーヴィッド・シーモア「少年ガイド」)

 アフリカのエマニュエル(ジョージ・ロジャー「近侍の少年」)

 フランスのアルレット(アンリ・カルティエ・ブレッソン「オペラ座の豆バレリーナ」)

 キューバのフアナ(イヴ・アーノルド「キューバの島の娘」)

 イギリスのイアン(インゲ・モラート「小さな紳士」)

 ペルーのマリオ(コーネル・キャパ「アンデスのマリオ」)

 アメリカのゲイリー(エリオット・アーウィット「未来の牧場主」)

 

 近代化された都市空間で生活する子どもと、伝統的な暮らしを守り大自然に囲まれて生活する子ども。金持ちの家の子どもと、大人顔負けの観光ガイドをして家計を支える子ども。上流階級の子どもと、上流も下流もなくただただ元気に走り回る子ども。さまざまなコントラストがあり、思わずじっと写真に見入ってしまう。ちょっと得意がった、いかにもやんちゃな笑顔や、疲れてぼうっと座っている姿も、むつかしい顔をして何やら考えているらしい横顔も、子どもたちの姿はみんな魅力的だ。

取材対象となり、被写体となったこれらの子どもたちのそれぞれの境遇について、光吉は前書きで次のように記している。

 

ある社会では、子供はおとなの世界の現実からできるだけ長く護られている。そして、ある社会では、子供もできるだけ早くおとなの中に繰り入れられる。これも、どっちがいいか簡単にはきめられないことだ。ただ、わたしたちにわかっていいのは、子供には子供の考えがあるということだ。幸せも不幸も、子供は自分で持っているのである。

 

 いまこうして引用のために光吉の文章を打ち込みながら、「ただ、わたしたちにわかっていいのは、」のフレーズが、つん、と胸に刺さった。一瞬、誤植を疑ったけれど、「わたしたちにわかっていい」という言い回しも、なんだかいいと思った。

子どもには子どもの考えがあるということ。わかっているべきだけれど、それを本当にわかるのは、なかなか難しいことでもある。あまり上手に言葉に表してくれない子どもたちは、それでも自分の考えを持って生きているし、幸せや不幸を自分自身で感じることができるひとつの独立した人格を持っている。

 そんなわけで、写真ばかり見ていないで、巻末の文章もきちんと読んで、その上でもう一度、じっくりと写真を見ようと思うのだった。

遠藤知恵子(センター助手)