児童文化研究センターは、12月24日(木)より1月6日(水)まで閉室とさせていただきます。
ご不便をおかけいたしますがなにとぞご了承くださいませ。
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皆様の健やかな日々をお祈りしております 今年も一年、ありがとうございました |
「MUJI BOOKS 人と物」と銘打った、文庫サイズの素朴な白い本がいかにも無印らしい。1冊500円ほど。シリーズの9冊目、『濱谷 浩』(良品計画、2018年)の帯に書かれた「こども風土記」が気になり、手に取った。1959年に中央公論社から刊行された『こども風土記』に収録された写真と言葉の一部が採られ、この文庫本に掲載されている。
白黒のざらりとした印刷の、15点の写真は、今から60年以上前の、日本各地の子どもたちの暮らしを紹介していた。京都の「タコ焼き」、東北の「ボンデン奉納祭」、北海道の「月光仮面」(月光仮面ごっこに興じる子どもたち)と「アイヌ」、瀬戸内海の「鬼祭り」…等々、それぞれの地域の色を映し出す写真たち。ちなみに東京は、港区ナザレ幼稚園のクリスマス祝会で、子どもたちがキリスト降誕の劇を演じる場面が選ばれていた。
写真に切り取られた風景の美しさや、子どもたちの無心な様子(他所からやってきたカメラマンに対し、どうしてこんなに自然な表情を見せてくれるのだろう。濱谷は自身のことを「冬には、雪がこどもの国に降るように、夏には、トンボがこどもの国に飛んでゆくように」(p.74)などと形容している)が魅力的なのはもちろんだが、濱谷による「後記」も印象的だった。
いろいろな国で、それぞれの暮らしがありました。豊かな国もあれば、貧しい人もいるのです。こどもの国には天使もおり、悪魔もいるようです。しかしそれは可愛いい天使たちで、可愛いい悪魔どもで、みんな精一杯、生きることに無我夢中でした。(p.74)
ここで言う「国」は、“国家”ではなく、“生まれ故郷”というほどの意味だろう。そして、それぞれの国に生きる子どもの領分を、濱谷は「こどもの国」と呼んでいる。
こどもの国には楽しいことも悲しいことも起こるが、濱谷は悲しい場面は写さなかったそうだ。カメラがそっぽを向いてしまったと述べている。
そうした時、私のカメラはそっぽを向いてしまいます。これはこどもの国の出来事ではなくて、おとなの世界の問題なのです。やはり、私はおとなの世界で、濁って醜い空気の中で、やらなければならない仕事があることを、あらためて思い知らされたのでありました。(p.75)
「こどもの国」で起きる悲しい出来事の原因は、「大人の世界の問題」が作っている。そのことを、こんなふうにストレートに書いてあるのを読んで、どきりとした。「後記」からは、濱谷が『こども風土記』にふさわしい楽しい場面を選び取り、「悲しい場面」を排除したことが読み取れるが、それはまるで、「大人の世界の問題」が「こどもの国」に襲いかかるのを食い止めようとするかのようでもある。
また、こんなことも考えた。写真は、写真家が目にしている風景を、写真家の意志に従って写し取り、加工したものであるわけだが、私たちはそうして撮られた写真の中に真正性を求めがちだ。確かに写真には出来事の証拠となる力があるが、真正性と撮影者の思いに基づく表現とは、必ずしも互いを排除し合うものではない。
…と、こんなふうに、『濱谷 浩』の「こども風土記」のページを眺めつつ考えごとをしたわけだが、あくまでも、小さな文庫本に収まったわずかな写真を見ながらのことである。実際に出版された写真集を見たいし、できれば大きくプリントされた展示用の写真も見てみたい。
2020年は調査研究のための外出も躊躇わねばならない年だった。年が明けてからも当面の間は油断できないが、次にやってくる2021年が少しでも明るい年であるよう、祈りながら日々を過ごそう。
遠藤知恵子(児童文化研究センター助手)
かなり唐突であるが、ぜひとも語りたいぬいぐるみのシリーズがある。
ディズニー・ストア限定のぬいぐるみ、UniBEARSity(通称:ユニベア)についてだ。
これはディズニー・キャラクターを模したテディベアシリーズのことを指す。
「なぜクマなのか?」と首をかしげる方も多いことだろう。
それにはちゃんとした理由がある。
これらのクマには制作された経緯・物語が存在する。このクマの一連のシリーズのはじまりは、おなじみミッキー、ミニー、ドナルド、グーフィ―などのユニベアである。
このユニベアたちは、なんとミッキーたちが作ったものなのだ。
作った理由は、クマがシンボルの学校に通うミッキーたち。
その授業の課題でクマの物語を制作する課題が出たミッキーたちが、物語を作るために、テディベアをそれぞれ作ったのである。これがユニベアのせって…誕生秘話である。
(https://shopdisney.disney.co.jp/special/unibearsity-content.html)
わかる。つっこみどころはたくさんあることは私にもわかる。
しかし、そんなことは問題ではない。
このユニベアシリーズ、とっっってもかわいいのである。(*もちろん、好みや感じ方に個人差はあります)
可愛いものは、私にとっては些末なことを忘れさせる。恐ろしや。
これ以外でも最近ではユニベアシリーズには「プリンセス」シリーズのものや、期間限定のさまざまな物語の人物を模したベアが続々出されている。
ディズニー・シーでもダッフィーというかわいいクマが存在するが、ディズニー・ストアだって負けていない。
気になる方はぜひ、ディズニー・ストアに足を運んでいただきたい。
もしかすると、気に入ったクマが見つかるかもしれない。
阿部泉
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猫村たたみ(三文庫の守り猫) |
猫村 センター構成員の皆さま、ご機嫌いかがですかにゃ。センター三文庫の守り猫、猫村たたみですにゃ。
熊沢 どうも、名誉研究員の熊沢健児です。
猫村 書評コンクール2020夏にご参加くださった皆さま、いつも温かく見守ってくださっている皆さまに、心よりのお礼を申し上げますにゃ。ありがとうございましたにゃ!
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熊沢健児(名誉研究員) |
熊沢 ありがとうございました。
猫村 夏のイベントにゃったけど、季節はすっかり秋にゃね~。
熊沢 うん、期間延長したからね。窓の外では鮮やかな紅葉が、目に心地良いね。
猫村 風は冷たいけど、日差しの当たるところは暖かいのにゃ。ひざ掛けを持って、ぽかぽか日の当たる縁側で読書したいのにゃ~。
熊沢 そうだね。読書の季節のトークセッション、ぼちぼち始めようか。
猫村 今回の応募作品はどれも、私たちが置かれている時代の状況を反映しているようにゃね。
熊沢 そうだね。今回の優秀作品となった『おみせやさんでくださいな!』の書評は、緊急事態宣言が発令された春の自粛生活のなかで、お子さんと一緒に楽しく読んだ絵本を紹介しているね。
猫村 そうにゃね。保護者の方に連れられてお買い物に行く子どもたちが目にする、おみせやさんの様子を、楽しく描いている絵本のようにゃね。
熊沢 うん。そういう、買い物の楽しさが味わえる絵本だっていうことがよく分かる書評だったね。
猫村 にゃ! 絵本についての説明も楽しいけど、しあわせもりあわせさんのコメントも面白いのにゃ。「ワニが店主をしている精肉店など、価格が異様に安いので、商品の仕入れ先が気になりつつ、あれもこれもほしくなってしまう」にゃって。たしかに気になるのにゃ~。私、ここを読んで笑ってしまったのにゃ。
熊沢 そうだね、大人目線でも面白いね。
猫村 書評には、「登場する動物のキャラクターそれぞれにも物語が潜んでいる」とあるのにゃけど、ここでの「物語」は暮らしの中の物語にゃね。自粛生活中は、なかなか人と会って話せなくて孤独を感じがちだったのにゃ。そういうときって、自分のことで頭がいっぱいになってしまうけれど、みんなそれぞれ自分の暮らしを頑張って続けていると思うと、ちょっと励まされるのにゃ。
熊沢 それにしても、自治体によっては幼稚園・保育園が休園になるなど、あの頃の親御さんたちは本当に大変だったね。仕事もしなくちゃならないし、子どもの世話もしなくちゃならないし、本気で遊び始めたときの子どものエネルギーは無尽蔵だし…。
猫村 そういえば、熊沢君は大学院を出てさすらっていた頃、ベビーシッターのアルバイトもしていたのにゃね。
熊沢 うん。知り合いの子をね。ほら、私はぬいぐるみだろう? だから、ベビーシッターの仕事も、いきおい体を張って行うことになる。バイトのたびに体力を使い果たし、その日の夜はぐったり熟睡してたなぁ。
猫村 え~、いつも不眠症気味の熊沢君が?
熊沢 うん。全力で遊んで燃え尽きていく日々…懐かしいな。
猫村 信じられないのにゃ!
熊沢 そうかな。あの頃に、こんな絵本があったらまた別の遊び方をしていたかも。書評に書いてある探し物ゲームをしたり…歌い読みができるのも興味深いね。
猫村 昔の熊沢君に教えてあげたいのにゃ!
熊沢 そうだね。あの頃、知りたかった絵本だ。
猫村 にゃ! 最優秀賞、おめでとうございますにゃ!
熊沢 白百合の森のキィローさんの書評は、しあわせもりあわせさんとはまたちがったかたちで、生身の子どもたちとの交流が背景にある書評だね。
猫村 にゃ。『あふれでたのは やさしさだった』は少年刑務所での更生教育の一環として行われた詩の授業の記録、ノンフィクションにゃね。
熊沢 うん。詩の授業だけど、この授業を通じて学ぶのは広義のコミュニケーションだ。
猫村 そうにゃね。詩を作る前の準備段階では、絵本の朗読劇をするそうにゃね。表現に優劣をつけず、ただ受け止めるということの練習をしていくのにゃ。
熊沢 優劣をつけないというところが大事だね。他人の評価を気にして思ったことを飲み込んでしまうと、そのうちに、自分が何を感じ、考えていたかということすら忘れてしまうからね。
猫村 そうなのにゃ。自分の心を見失うことほど、つらいことはないのにゃ。
熊沢 共感するにせよ、共感以外の気持ちを抱くにせよ、自分が表現したことを否定せずに受け止めてもらえるという環境は、誰もが必要としていながらなかなか手に入れられないものだよね。
猫村 にゃから、安心して詩を書き、発表できる環境づくりから始めるよう、授業をデザインしているのにゃね~。
熊沢 そうだね。
猫村 すぐれた詩を書くとか、名詩を鑑賞するとかいったことも大事なのにゃけど、そういう高度なことができるのは、安心して素顔を晒せる場があるということが根本にあるのにゃね。
熊沢 うん。そして、表現する側もまた、表現を受け取る相手に共感ばかり求めるのではなく、相手の気持ちや反応を素直に受け止められるといいね。
猫村 にゃ。たとえ作品に共感してもらえなくても、それは存在を否定されているわけではないのにゃ。
熊沢 うん。
猫村 にゃ!
熊沢 ところで、コロナ禍で外出が減り、自分のことを振り返る機会も増えたと思う。
猫村 そうにゃね。私も三文庫にこもることが多いのにゃ。冨田文庫の「青い鳥コーナー」をみては、女学校での出来事を思い出すのにゃ。懐かしいのにゃ~。
熊沢 『教育再定義の試み』を書いた、哲学者の鶴見俊輔さんの学生時代は、あまり楽しい思い出ばかりではなかったみたいだけど。
猫村 にゃ~む。そうにゃね~。
熊沢 若いうちに日本から出されて海外で学び、外国の言葉を使って、自分の頭で考えるということを身に着けていったんだね。少年期の記憶は苦かったかもしれないけれど、鶴見さんの思索のスタイルを作るときに役に立ったんじゃないかな。
猫村 そうにゃね。書評で取り上げられている、unlearningという言葉が印象的にゃ。
熊沢 うん。人から教えてもらったことは、自分にふさわしい知識や知恵へと編みなおしていくことで、本当に身につくんだね。
猫村 いつも、考えて行動する「自分」があるのにゃね。
熊沢 そうだね。スウェーター(セーター)の喩えがいいよね。頭の中だけで考えるのではなくて、自分の身体感覚や行動を通じて考えていくんだ。
猫村 私のダンスと同じにゃ。体を動かして、肌で風を感じながら考えて、また体を動かして表現するのにゃ! にゃ~にゃにゃ~にゃにゃ~にゃ、にゃっ…(猫村、ステップを踏み、ターンして決めポーズ)
熊沢 そうか。
猫村 鶴見さんに親しみが湧いたのにゃ!
熊沢 それは良かった。
猫村 にゃ!
熊沢 君は、チャペックの『オランダ絵図』を紹介していたね。
猫村 素敵な旅の記録にゃ。
熊沢 窓と街路の関係など、街並みの観察が面白いね。オランダで見る風景は、エナメルのように明るいだなんて、想像もつかない。見てみたいな。
猫村 いつか一緒に行ってみようにゃ。熊沢君の好きなゴッホの絵も、オランダ旅行をしたらもっと面白く観られるようになるかもにゃ~。
熊沢 うん。コロナが収まったら行きたいな。
猫村 熊沢君が紹介しているのは、『すきになったら』という絵本にゃね。
熊沢 うん。
猫村 熊沢君、恋をしているのかにゃ?
熊沢 いや、していない。
猫村 にゃふ~ん、ずいぶんきっぱり言い切るのにゃね~。ポエムのような書評にゃったけどにゃ~。
熊沢 してないったら、してないんだよ、もう!
猫村 にゃにゃ、ついからかってしまったのにゃ。ごめんにゃ。絵の中に入り込んだような書き方をしているから、気になってしまったのにゃ。
熊沢 絵の魅力を伝えようとしたら、こうなっただけだよ。
猫村 そうだったのにゃね~。熊沢君の書評は余白の魅力に言及しているのにゃけど、照れ屋さんの熊沢君が恋や愛をテーマにした絵本を正面から扱えるのは、この余白のおかげではないのかにゃ?
熊沢 うん。確かに。甘くなりがちなテーマだからね。語り過ぎないところが実に魅力的だった。
猫村 にゃ~む。余白とか、一見、何もないと思われるもののなかに、大事な意味や役割があったりするのにゃね。
熊沢 うん。見えないものこそ大事。そして、見えないものをいかに表現するか、いかに感じ取るかという想像力も同じくらい大事だね。
猫村 今年は目に見えないウイルスへの感染をいかに防ぐかを考えさせられる1年にゃね。見えないものへの想像力を鍛えられた気がするのにゃ。
熊沢 そうだね、絶えず想像しながら予防することを強いられてきたね。
猫村 想像力の2020年!
熊沢 ポジティブに言い換えるとそうなるね。
猫村 私はいつだってポジティブにゃ! 大変な1年にゃけど、皆さまと一緒に最後まで元気に乗り切って、新しい年も無事に過ごすのにゃ。
熊沢 皆さま、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。書評コンクールは年明けにも行います。ぜひ、ご参加ください。
猫村 それでは皆さま、ごきげんようにゃ~。
・書評番号1 遠藤知恵子(その他) 得票数2
・書評番号2 熊沢健児(ぬいぐるみ・名誉研究員) 得票数2
・書評番号3 猫村たたみ(三文庫の守り猫) 得票数1
💖書評番号4 しあわせもりあわせ(一般) 得票数3
・書評番号5 白百合の森のキィロー(その他) 得票数2
優勝は、書評番号4、『おみせやさんでくださいな!』の書評を書かれた、しあわせもりあわせさんに決定いたしました。おめでとうございます。
参加者の皆様と、いつも温かく見守ってくださる皆様に、心よりお礼申し上げます。
とくになるなら
くろうもいとわず
がまんをかさねて
わがよのはるが
いまこそきたれり
えどばくふ
やさしいよになれ
すえながく
このプログラム(半期)を受講できるのは、17〜25歳の400名近い受刑者が収監されているなかで10名ほど。「刑務所のなかでも、みんなと歩調を合わせるのがむずかしく、ともすればいじめの対象にもなりかねない」コミュニケーションが困難な青少年たちだという。寮が担当した「物語の教室」では、まず絵本の朗読劇で心をほぐす準備体操をする(教材の絵本は、アイヌ民話を題材にした『おおかみのこがはしってきて』、宮沢賢治「どんぐりと山猫」を題材にした『どんぐりたいかい』)。そうすることによって、この教室では、「すぐに答えられなくても、ちゃんと待ってもらえる」「評価されない」「叱られない」「安心・安全な場」であることを、彼らに身をもって知ってもらうのだ(わたしたちの日常においても、自然体でいられることは意外とむずかしい)。そのあとではじめて詩を書いてきてもらい、発表し合う授業形式が可能となる。
詩を書くことによって、しんどい「自分の心に気づくこと、吐きだすこと」ができるようになる。それを仲間が受けとめてくれる「場」がある。その「自己表現」+「受けとめ」(共感にかぎらない)のセットで、みるみる彼らの表情や態度が変わってゆくのだという。またこのプログラムの実践を通じて、講師である寮もまた、詩に対する認識を新たにしていく。
だれかが「これは詩だ」と思って書いた言葉があり、それを「これは詩だな」と受けとめる人がいたら、その瞬間、どんな言葉でも「詩になる」ということだ。そして、それは書いた人の人生を変えるほどの力を持つことがあるのだ。/すぐれた詩作品があり、そんな詩にこそ価値があると思っていたわたしは、愚かな「詩のエリート主義者」だった。(122-123)
わたし自身は、詩の言葉が「日常の言葉とは違う」(寮)ということにすら、どこか違和感を覚える。日常の言葉だって、詩でありうるのではないだろうか。「裸の心でつながりあうことのできる教室」の記録は、詩と日常を分けて暮らしているわたしたちにも、楽に呼吸ができる社会をつくるヒントを教えてくれる。
本書では、いくつかの詩が紹介されており、寮が彼らの背景を含めて解説してくれているが、詩をていねいに読みたい方には「奈良少年刑務所詩集」も2冊出版されているので、そちらをどうぞ。
【関連書】
寮美千子編『空が青いから白をえらんだのです—奈良少年刑務所詩集—』新潮文庫、2011年
寮美千子編『世界はもっと美しくなる 奈良少年刑務所詩集』ロクリン社、2016年
この書評は、2020年夏に開催された書評コンクールの応募作品です(書評番号5)
緊急事態宣言下の春、我が家の幼い子どもが誘ってきた。近所の小さな商店街へ買い物に連れて行ってあげられない理由を、もう一度説明しようとするのを遮って、子どもが言う。
「『ふれあいしょうてんがい』だから、だいじょうぶ!」
びっくりして見下ろすと、子どもは『おみせやさんでくださいな!』という絵本を開いて、中表紙を指差した。タイトルの文字を囲う商店街入口の絵には、『ふれあい商店街』の看板がかかっている。この子にとって、この絵本を読むことは、『ふれあい商店街』に行くことなのだ。
中表紙をめくると、そこはもう商店街。一本の道をコの字型に囲むように、37ものお店が並ぶ。世の中にはこれほどたくさんの種類のお店があるのかと、その多彩さに驚かされる。各店には時計があり、一軒目のくまのパンやさんでは朝の8時を指している。読者は半日かけて動物たちの営むお店を回り、最後のロバのレストラン(パンやさんの向かい)で夜の8時を迎えるという設定だ。
37店それぞれに添えられた文章がやたらリズミカルだと思っていたら、巻末に楽譜が付いていた。その楽譜のシンプルなメロディで、すべての文章を歌い読みできる。この作品をくり返し読んでいるうちに、子どもは歌詞をすっかり覚えてしまった。
お店は一軒ずつ描かれている。左ページに文章と、擬人化された商品たち(彼らのしていることにも注目!)、右ページにお店の個性的な外観が描かれ、ページをめくると見開きいっぱいに店内の様子。ほぼそれのくり返しで作品は展開していく。店内は細部までとことん丁寧に描き込まれており、作者はこういうのが好きなのだろうな、ものすごく楽しんで描いたのだろうな、と思わずにはいられない。そして読者は、指定されたものを店内から見つける、いわゆる探し物ゲームを楽しめるのだ。
しかし、この作品の一番の楽しみは、なんと言っても「お買い物」だろう。子どもは毎回飽きもせず、「なにがほしい?」と聞いてくる。店内をひととおり見渡して、ユニークで豊富な商品の中からその日の気分でほしいものを選ぶのは、思っていた以上にかなり楽しい。ワニが店主をしている精肉店など、価格が異様に安いので、商品の仕入れ先が気になりつつ、あれもこれもほしくなってしまう。
この作品には、ひとつの物語が隠されているのだが、登場する動物のキャラクターそれぞれにも物語が潜んでいる。くり返し読んでいるうちに、ここのお客さんがこちらのお店にもいる、ということに気づく。そして、お客さんや店主たちの関係、彼らの情に厚い性格などが見えてくるのだ。実に奥が深い。
感染拡大防止のために、目的のない買い物のためらわれる日々。自粛生活に疲れたら、ぜひ、あなたも『ふれあい商店街』に行ってみてほしい。
この書評は、2020年夏に開催された書評コンクールの応募作品です(書評番号4)
さて、ですにゃ。この本は、1931年の世界ペンクラブ大会出席のためオランダに滞在したときのことを書いた紀行文ですにゃ。人に対しても、風景に対しても、明晰な観察をもとに小気味の良い文体で書いているのが印象的にゃね。テンポよく、さくさくと読めるのですにゃ。
そして、私が一番気に入っているのは、オランダの土地と光について書いている、この部分ですにゃ。
オランダでは、各種の色はほとんどエナメルのように明るく、赤い煉瓦、緑滴たる牧草地、黄色い砂、明るい色の看板、清らかな空気の中にきらめく純粋な色から受ける喜びがある。
(p.44)
私、ここを読んだとき、「そうそう、それにゃ!」と、開いた本のページに向かって話しかけてしまいましたのにゃ。土地が変わるとお日様の光が変わりますにゃ。にゃから、木も山も建物も川も、それまでの人生で見てきた色とまるで違って見えるのですにゃ。その土地ならではの色彩を全身で浴びることは、海外旅行の醍醐味にゃ〜。
この本を読んでですにゃ、私は1930年代のアムステルダムに行って、建物をよく観察してみたくなりましたのにゃ。チャペックさんは、「オランダでは、家ではなく、街路が建てられている」(p. 96)と書いて、家と街路の結びつき(窓も重要なポイントにゃね)を指摘しているのにゃ。にゃ〜む…どういうことかにゃ〜。
この本を読んで、「コロナがおさまったら行きたい場所リスト」に、アムステルダムを書き加えましたのにゃ!
この書評は2020年夏に開催された書評コンクールの応募作品です(書評番号3)
誰かを好きになったときに起こる心の変化を、少女のモノローグで淡々と語る。少女の物思いをそのまま絵本にしたような作品だ。
好きになったら、相手のことをもっと知りたくなるし、自分のことも知ってもらいたくなる。これは誰にでも起こりうることである。なにか特別な、変わったことを言っているわけではない。そして語る言葉はシンプルである。「好き」という感情を知るたびに心が柔らかになっていくさまを、精確な描線で描かれた、少女の表情ひとつひとつにつぶさに見て取ることができる。
誰かを好きになるということは、相手の弱さや苦しみをも暖かく包み込もうとするということ。それは痛みを伴うことなのかもしれない。だが、好きという感情を知り、柔らかくひらかれた心には、身の回りの風景が今まで知らなかったような相貌を見せ始める。
風景が変わったのではなく見る目が変わったのだが、目にするものひとつひとつの豊かな輝きは、人を愛することを知った少女への、この世界からのプレゼントなのではないだろうか。
少女の言葉に合わせてページを繰るたび、場面ごとの絵の美しさにはっとさせられる。話そのものは動きが少ないが、絵の動線は確かで、場面の移り変わりが自然だ。全てを描き切らない、控えめな絵を見つめていると、余白が呼吸をしているような感覚に囚われる。
著者の鶴見俊輔は、1997年に神戸で起きた連続児童殺傷事件を起こした、当時まだ14歳だった少年の身に自分を置き換えて考えようとする。20世紀末の日本児童文学を論じる際にしばしば引き合いに出されるショッキングな事件だが、鶴見の場合、自身の幼少期に心の中に根付いた、俺は悪だ、という強い意識を呼び覚まされたのではないだろうか。本書はこの事件の2年後、1999年に岩波書店より刊行された同タイトルの本の文庫版である。
鶴見は子どもの頃、学校制度となじまなかったそうだ。15歳で日本から出され、アメリカに送り込まれる。異国の言葉で、鶴見は学んだ。
ハーヴァード大学に在籍中の夏休みの記憶。鶴見は働いていた図書館で、偶然、ヘレン・ケラーと言葉を交わしたそうだ。そのとき彼女は「まなびほぐす」という言葉を使った。
鶴見は「まなびほぐす」を次のように咀嚼している。
たくさんのことをまなび(learn)、たくさんのことをまなびほぐす(unlearn)。それは型通りのスウェーターをまず編み、次に、もう一度もとの毛糸にもどしてから、自分の体型の必要にあわせて編みなおすという状景を呼びさました。
(pp. 95-96)
一度まなんだことを分解して、ふさわしい形に編みなおす。まなんだことそれ自体を否定するわけではないが、まなんだことをいったんほぐし、自分の生活や暮らし、心のありように合わせて編みなおすプロセスに目を向けるのである。
本書のタイトルである「教育再定義への試み」は、おそらく、生きていくためのまなびほぐし(unlearning)の試みとも言い換えられるのではないだろうか。「教育」について、それまで積み重ねてきた経験や身につけてきた考え方をほぐし、生きていくことに合わせて編みなおす。
本書は主語のない学術書ではなく、始まりにはいつも「私」がある。「私」を起点にして論を起こし、「私」から離れてより根源的な問題へと進み、ふたたび「私」へと戻る。途切れのない問いの連環を、ゆっくりと辿りたい。
この書評は、2020年夏に開催された書評コンクールの応募作品です(書評番号1)
其之六:真田信繁(真田幸村)
さいかくありとみとめられ
ながくつかえしとよとみけ
だれもがかちめのなしともうすが
のぞむはごおんにむくいることぞ
ぶゆうちりゃくでてきをうち
しょうりをあるじにもたらすが
げにもののふのほまれなりけり
センター構成員の皆さま、ご機嫌いかがかにゃ?
三文庫の守り猫、猫村たたみですにゃ。お久しぶりでございますにゃ~。
突然にゃけど、皆さま、運動はお好きですかにゃ?
実は私、ダンスが好きなのですにゃ。
子どもの頃は習い事をたくさんさせてもらったのにゃけど、踊りのお稽古は大好きでしたのにゃ。
大人になってからは、タイピストをして働いたお給料を貯めて、バレエを観に行きましたのにゃ。あまりたくさんは観られにゃかったけれど、バレエの記事が載った雑誌を見つけては、切り抜きをスクラップブックに集めて、夢中になりましたのにゃ。
あの頃の最先端の舞踊は、洗練されたバレエの技巧と、古代ギリシャへの憧れと、モダンで遊戯的な感覚がせめぎ合い、それはもう、素敵なカオスでしたのにゃ(はにゃ~っ)。
光吉文庫でおなじみ、光吉夏弥先生の批評活動は舞踊から始まっているのにゃけど、光吉先生の批評は、私にとって教科書みたいなものにゃったので、大事に大事に読みましたのにゃ。
初期の批評活動については、絵本研究者の澤田精一さんの「戦前の光吉夏弥を尋ねて」(『図書』815号 2017年1月)に詳しいですにゃ~。
澤田さんによると、光吉先生は慶應義塾大学在学中の1925年に最初の批評を2本書き、卒業までに3本の評論を専門誌に寄稿したそうですにゃ。
皆さまもご存じの通り、2年前に澤田さんがセンター主催の講演会で、「光吉夏弥――その生涯と時代」というテーマでお話ししてくださっておりましたのにゃね(講演録は白百合女子大学図書館の機関リポジトリに登録されていて、図版も含めオンラインで閲覧できますにゃ! 楽しいのにゃ!)。
1920~30年代の舞踊研究は、光吉先生が個人で行い、雑誌などに発表していたみたいにゃけど(私がスクラップしたやつにゃ!)、1930年から37年まで、先生のオフィシャルな顔は、国際観光局の職員さんだったのにゃね。澤田さんの講演録を読み返すと、絵本の翻訳や編集に携わる以前のお仕事や批評活動を振り返ることができ、戦後日本の翻訳絵本がもつ歴史的背景を再確認できますにゃね~。
入構制限が解除されるまで、三文庫の利用を休止しているのが心苦しいのにゃけど、皆さまにご来室いただけるその日まで、私こと猫村たたみ、全力で三文庫をお守りいたしますのにゃ! …にゃから、構成員の皆さまにおかれましては、まずは健康第一でお過ごしいただきたいのですにゃ。よく眠り、栄養のあるものを食べて、お日さまのもとで体を動かしましょうにゃ。
では(猫村、おもむろに立ち上がる)、踊るのにゃ! にゃ~にゃ、にゃ~にゃ、にゃ~にゃ、にゃ~…
[追記]
1932年11月発行の「岩波講座 世界文学」第1回配本『現代の舞踊』は、澤田さんが「戦前の光吉夏弥を尋ねて」で「これまでの総まとめの感がある」(p.18)と評していらっしゃる通り、(当時の)現代舞踊の面白さがぎゅぎゅっと凝縮された充実の小冊子にゃ。この『現代の舞踊』は、光吉文庫にもあるのにゃね。ちなみに、「戦前の光吉夏弥を尋ねて」が掲載された『図書』815号(2017年1月)もセンター内にありますにゃよ。
おもきやまいに
おかされしわれ
ただじぶのみが
にげずひるまず
よきともなりや
しからばめいうんともにして
つこうおぬしの
ぐなるいくさに
いつもでんかのためおもい
しっそけんやく
だいじにす
みなあほうにて
つかれるが
なにもがすぐれしこのわたし
りかいあるのはぎょうぶのみ
作:しあわせもりあわせ
替えのマスクやアルコールティッシュなどを鞄に詰め込み、ふたつの企画展に行った。
ひとつは「オラファー・エリアソン ときに川は橋となる」展、もうひとつは「もつれるものたち」展。どちらも、東京都現代美術館で9月27日まで開催していた。
オラファー・エリアソンは1967年、デンマークのコペンハーゲンで生まれた。環境問題に深い関心を寄せる作家である。今回の企画展のテーマは「エコロジーとサステナビリティ」ということで、光や水を素材とした美しい作品を通じ、再生可能エネルギーや気候変動について考えさせてくれる作品が並んでいるらしかった。
「らしかった」という曖昧な言い方をしてしまったのは、残念ながら、来場者が多すぎて作品をじっくりと見ることができなかったからだ。なにしろ私は、身長30.5cmのテディベアである。どんなに背伸びをしても、人混みの中での鑑賞はほぼ不可能に等しい。とはいえ、カラフルな光に満ちた作品の間を歩き回る、若者たちの姿を観察するのは面白かった。スマートフォンを手に、思い思いに「映える」場所を見つけてはポーズを取る。彼らの元気な姿を眺めて、私も少し元気をもらったような気がする。あちこちで夏のイベントが中止に追い込まれるなか、普段の美術館にはない雑駁な雰囲気は、まるで縁日のようで、気分の浮き立つものだった。
オラファー・エリアソンの展示とは対照的に、静かな活気に満ちていたのは、「もつれるものたち」展である。パリとサンフランシスコを拠点とするカディスト・ファウンデーションとの共同企画だそうだ。ここでは、12組のアーティストが、現代社会を鋭く批評する作品を展示する。どの作品も問題意識がはっきりしていて、特定の地域や時代と結びついた素材や手法を用いていることが印象的だった。
私が特に気に入ったのは、リウ・チュアンの映像作品《Bitcoin Mining
and Field Recordings of Ethnic Minorities(ビットコイン採掘と少数民族のフィールド・レコーディング)》(2018年)である。映像や音楽の持つ魅力を存分に活かしながら、少数民族の排除をはじめとする、さまざまな暴力をあばき出す。だが、作品が用いる手法はあくまでも自由自在。観ていて実に愉快だった。
この作品では多くの静止画像や動画、そして写真や音楽を引用している。それら、メタファーに満ちたイメージのかけらを繋ぐのは、少数民族の言語によるナレーションである。
ナレーションは、歴史的な事実や科学的な裏付けを前面に出すのではなく、連想の作用により、寓話的に物語る。動画や写真といった、現実の世界を複製したものばかりではなく、時にはスピルバーグやタルコフスキーの映画からの引用も交え、現実と虚構の間を自由に行き来する。もちろん、スピルバーグ+タルコフスキーという組み合わせは、かつての東西冷戦を連想させるものだが、この作品は、イメージの類似や連想によって紡ぎ出される現代の寓話なのだ。冷戦の息詰まる対立構図よりも、マジョリティに圧迫されながらもしたたかに生き抜いてきたマイノリティの気概のほうを、より強く感じることができた。
私たちが日々研究している児童文学には、「戦争児童文学」や「プロブレム・ノベル」といった、フィクションを通じて現実の問題について考えさせてくれる領域がある。現代美術の持つ自在さに目を見開かされながら、「児童文学を研究する私も負けていられないぞ」と、改めて気合を入れ直したのだった。
展覧会情報
「オラファー・エリアソン ときに川は橋となる」展
「もつれるものたち」展
会場 東京都現代美術館
会期 2020年6月9日(火)-9月27日(日)
センターではいま、感染予防の取り組みの一つとして、返却されたセンター蔵書を書架に戻す前に段ボールで別に取り置き、3日間程度、保管している。次の人が手に取る前にウイルスが死滅するよう、しばらく置いておくのである。
センターに住み込んでいる私も、外出後は3日程度、この段ボールで待機しようかと考えている。
あれほどつくしつかえたが
けっきょくりそうのあるじにあらず
ちょうようされしはかこのこと
みなのまえにてあしげにされて
ついにむほんをおこせしが
ひでよしどのにうらぎられ
でんしょうじょうはわれのみがあく
作:しあわせもりあわせ
この度、第3回書評コンクールの作品募集期間を延長することとなりました。
当初は本日(9月21日)までを予定しておりましたが、募集期間を、11月6日(金)12:00まで延長いたします。
秋の夜長に読んだ本を、書評コンクールで紹介して、センターの皆にお勧めしてみませんか? 応募はペンネームでも可能です。
書評の募集要項(再掲)
1. 書評の執筆者氏名(ペンネームでの公開をご希望の場合は併記してください)2. 書評の執筆者の身分( 学生/一般/教員/その他 のなかからひとつ選んで記載)3. 取り上げる本の書誌事項(本のタイトル・著者名・訳者名・出版社・出版年など)※ 応募された書評は、原則として、そのままコピー&ペーストしてブログに掲載します。誤字・脱字にご注意ください。
1. 書評の執筆者氏名(ペンネームでの公開をご希望の場合は併記してください)2. 書評の執筆者の身分( 学生/一般/教員/その他 のなかからひとつ選んで記載)3. 取り上げる本の書誌事項(本のタイトル・著者名・訳者名・出版社・出版年など)※ 応募された書評は、原則として、そのままコピー&ペーストしてブログに掲載します。誤字・脱字にご注意ください。
センター構成員の皆さま、ご機嫌いかがかにゃ?
三文庫の守り猫、猫村たたみですにゃ。
もうすぐ夏休みにゃのに、豪雨災害のニュースのたびに心配になるし、雨が降ったり曇ったり…なんだかすっきりしないのにゃ~。
湿気が多いので、三文庫の除湿器は毎日フル稼働ですにゃよ。
ごぉ~っと乾いた空気を排出する音と、ぴちょん、ぴちょん、と水の溜まっていく音を聴きながら、私こと猫村たたみ、今日も三文庫を守っておりますのにゃ。
…とは申せ、私、メーテルリンクの『青い鳥』が好きにゃので、ついつい冨田文庫に入り浸ってしまいがちなのですにゃ。
青い鳥コレクションの前に立って好きな本を眺めていると、なんだか幸せになりますにゃ~。
今日はですにゃ、楠山正雄訳による『近代劇選集(1)青い鳥外八篇』(T00744)を手に取りましたのにゃ。1920年に新潮社から出版され、センターに所蔵しているものは1922年の第14版ですにゃ。
手に持つとずっしり重みがあるのにゃ~。
中身の本はですにゃ、暗緑色の背にタイトルが金色に箔押しされていて、文字の上下に押された植物模様もきれいなのにゃ。
そして、表紙は背と同じ暗緑色と焦げ茶色で色分けしてあるのにゃ。表の表紙はこの2色の境目に銀色のラインが入っていて、かっこいいのにゃ~。
表紙・見返しをめくると、巻頭の写真版2葉は海外の役者さんの写真。挿絵はないけれど、収録された戯曲それぞれに舞台面略図があって、いずれも岡本帰一さんの意匠によるものですにゃ。
帰一さんと言えば、『青い鳥』の演出を手掛けた童画家としても有名にゃね。私も民衆座の公演を観に行きましたのにゃ。
それはもう、素敵だったのにゃよ。思い出すとため息をついてしまうのにゃ(はにゃ~)。
本文は当然、活版印刷ですにゃ。ぽこぽこした凹凸のある紙の表面が味わい深いのにゃ。
8篇の戯曲は次の通り。
沈鐘 (ハウプトマン)
心願の国 (イェーツ)
月の出 (レヂー・グレゴリ―)
海へ乗り入るるもの等 (シング)
かもめ (チェーホフ)
エレクトラ (ホーフマンスタール)
群盲 (メーテルリンク)
青い鳥 (メーテルリンク)
検察官 (ゴーゴリ)
※作者名の表記は本書に従ったのにゃ!
6番目の「エレクトラ」は1910年に発行された『白樺』創刊号でも紹介されていたのにゃ。
『白樺』は岡本帰一さん世代の芸術家にとっては、青年期の憧れの雑誌だったにゃね。
大人になっても憧れを持ちつづけるって、素晴らしいのにゃ~。
なかなか明けない梅雨にゃけど、センターは窓を開けて換気しながら8月5日(水)まで開室中ですにゃ。
皆さま、どうかお元気でお過ごしくださいませにゃ。
ご報告
昨年の7月12日(金)に、私は、雑誌『みづゑ』の感想を投稿した(「こんなところに巖谷小波」)。この投稿にも書いた通り、この雑誌の創刊号に掲載されていた記事「絵ハガキ競技会記事」(p.16)の次の文言を見つけて以来、ずっと巖谷小波とこの雑誌の関係が気になっていたのだった。
客員巖谷小波氏の「定齊」は投票済みて後着せしが、意匠として奇抜のものなりき。
これは、1905年7月の記事にあった言葉である。この部分を読んで、私はブログの投稿に「こんなところに巖谷小波が。客員だったのか。しかも、「意匠として奇抜」などと評されている。これは気になる。」と、書いていたのだった。
先日(6月30日)、『児童文化研究センター研究論文集23号』が大学図書館の学術機関リポジトリに公開された。小波日記研究会による寄稿「巖谷小波日記 翻刻と注釈:明治三十八年(五月~八月)」を、家に居ながらにして読むことができるようになった。
この「巖谷小波日記 翻刻と注釈」を読んでいると、『みづゑ』主催者である大下(藤次郎)の名を見つけることができた。そこには、次のように書いてある。
五月六日(土) 曇晴夜雨
九時出勤
午後三時帰
四時より 画葉書品評會 大下、南岳 爽日
及余、 久保田 柳川欠席
夕食 後 八時後散
(「巖谷小波日記 翻刻と注釈:明治三十八年(五月~八月)」二頁)
おお、「大下」! そして、「画葉品評會」とある…!「巖谷小波日記」の註にも、この「大下」が「大下藤次郎」であることが書いてある。「競技会」ではないが、みんなで手描きの絵葉書を持ち寄って批評し合っていたようだ。そこから先の日記にも「画葉」の文字はちらほらと現れ、「題 青」(五月十一日、同上二頁)、「題茶 余二等」(六月八日、同上七頁)、「題五月雨」(六月二十五日、同上九頁)、「題七、余一等」(七月二十七日、同上十四頁)など、品評会を行うにあたって、毎回課されていたらしい画題や、二等や一等を獲得した記録を見ることができる。
小波の日記は全体的に簡潔で、金銭の出入りも克明に記されている一方、日々のこまごまとした出来事や自分の気持ちなどはあまり書いていない(ただ、お父さんが亡くなった後の数日は、簡潔ながら克明に記されており、お父さんの辞世の漢詩に和する形で小波作の漢詩が書かれていたりする。読んでいるこちらもじわっと悲しくなってしまう)。そんな日記に、「画葉書」の品評会のことがちゃんと書いてある。
……ああ、そうか、やっぱりそうなんだ。バラバラに見ていた資料同士がつながった瞬間である。嬉しくて、なんだかニヤニヤしてしまう。
小波は絵葉書にどのくらい凝っていたのだろう。どれくらい絵が好きだったのだろう。小波の美意識や自作のお伽噺の挿絵に対するこだわりについても、調べてみたいと思ったのであった。
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熊沢健児(ぬいぐるみ・名誉研究員)
フェルト人形を少しずつ動かしながらコマ撮りしてつくる、パペットアニメーションである。
6月19日から2週間、YouTubeで限定公開中。私もひとりのぬいぐるみとして観ておかねばと、オフィシャルサイト(https://mylittlegoat.tumblr.com/)で作品情報を確かめ、アクセスした。ストーリーは怖いが、パペットがもこもこして可愛いせいか、不思議と平気だ。
この作品は、グリム童話の『狼と七匹の子山羊』を下敷きにしており、制作者の見里さんが独自の解釈を加えた後日談を10分間ほどのアニメーションにしたものである。
グリム童話では救出された子山羊たちが泉の周りで喜びの踊りを踊ってハッピーエンドとなるが、『マイリトルゴート』は違う。このアニメーションでは、狼の胃の中で消化されかけ、瀕死の子山羊たちが、母親に救出される場面から始まる。最初に食べられた長男のトルクは、狼の胃袋の中で溶けていた。
6匹になったきょうだいは、母親に守られ、山の中の小屋で身を寄せ合って暮らしていた。だが、ある日、母山羊が「トルクお兄ちゃん」を連れて帰る。それはケープを着た人間の子どもだった。その子が着ているケープは白い毛糸で編まれており、耳付きのフードがあって、子山羊のようにふわふわしていた。
「トルクお兄ちゃん」と呼ばれたその子は、ところどころ体毛が溶け落ち、爛れた皮膚の見える子山羊たちと対面する。
怯えた目つきで子山羊のきょうだいを見る「トルクお兄ちゃん」だが、子山羊たちもまた、怪訝そうに「トルクお兄ちゃん」を見る。そして、そのうちの1匹は、「トルクお兄ちゃんは一番に食べられたじゃない。なのにどうして毛がふさふさなの?」などと言って詰め寄ってくるのだが、ヒトである「トルクお兄ちゃん」には、その言葉は「メエメエ」としか聞こえなかったはずだ。
子山羊たちに囲まれ、疑いの眼で見つめられ、メエメエメエメエ言われたら、これは怖いに違いない。「トルクお兄ちゃん」は窓から小屋を脱出しようと、窓際に裏返して置かれた姿見に登るのだが、バランスを崩して落ちた拍子に鏡が表に返り、傷跡の一番ひどかった子山羊が、変わり果てた自分の顔を見てしまう。悲鳴を上げ、泣き出す子山羊のまわりにほかの子山羊たちが集まる。
メエメエといたわり合う彼らの姿を見て「トルクお兄ちゃん」は着ていたケープを脱ぎ、泣いている子山羊に着せかける。
「トルクお兄ちゃん」は人間の子だから、山羊に比べれば体毛は無いに等しい。ケープをはずし、毛のないつるんとした首や腕が見えたとき、子山羊たちから見たその姿は、傷つき毛の禿げた自分たちの姿に重なったのかもしれない。さらに、「トルクお兄ちゃん」の腕には傷跡があり、子山羊は、この子も傷を負っていることを知る。
そうして、お互いの痛みを思いやることにより心を通わせかけたとき、「トルクお兄ちゃん」を探して「狼」が小屋にやってくる…
毛のない「トルクお兄ちゃん」に、口を開けて驚く子山羊たちの表情に、そうそう、人間って変な生き物なんだよな、と、改めて納得してしまう。動物としての姿かたちだけではない。話が終盤に近付くにつれ、同じ種族どうしなのに相手を痛めつけたり、愛情という名のもとに支配しようとしたりする、人間の姿が、いやおうなしに見えてしまうのだ。
パペットだからこその視点と触感(どんなにグロテスクに作っていたとしても、そこはフェルト人形。やはり、もこもこなのである)。場面ごとの色彩や効果音にも気を配り、内容の詰まった10分間だった。
熊沢健児(ぬいぐるみ・名誉研究員)
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研究の再始動に向けて体力づくり。まずはストレッチから… |