2020年11月6日金曜日

【書評】鶴見俊輔『教育再定義への試み』岩波書店、2010年

 教育再定義「の」試み、ではなく、教育再定義「への」試みである。教育の再定義を目論んで書かれた試論ではない。

 著者の鶴見俊輔は、1997年に神戸で起きた連続児童殺傷事件を起こした、当時まだ14歳だった少年の身に自分を置き換えて考えようとする。20世紀末の日本児童文学を論じる際にしばしば引き合いに出されるショッキングな事件だが、鶴見の場合、自身の幼少期に心の中に根付いた、俺は悪だ、という強い意識を呼び覚まされたのではないだろうか。本書はこの事件の2年後、1999年に岩波書店より刊行された同タイトルの本の文庫版である。

 鶴見は子どもの頃、学校制度となじまなかったそうだ。15歳で日本から出され、アメリカに送り込まれる。異国の言葉で、鶴見は学んだ。

ハーヴァード大学に在籍中の夏休みの記憶。鶴見は働いていた図書館で、偶然、ヘレン・ケラーと言葉を交わしたそうだ。そのとき彼女は「まなびほぐす」という言葉を使った。

鶴見は「まなびほぐす」を次のように咀嚼している。

 

たくさんのことをまなび(learn)、たくさんのことをまなびほぐす(unlearn)。それは型通りのスウェーターをまず編み、次に、もう一度もとの毛糸にもどしてから、自分の体型の必要にあわせて編みなおすという状景を呼びさました。

pp. 95-96

 

一度まなんだことを分解して、ふさわしい形に編みなおす。まなんだことそれ自体を否定するわけではないが、まなんだことをいったんほぐし、自分の生活や暮らし、心のありように合わせて編みなおすプロセスに目を向けるのである。

本書のタイトルである「教育再定義への試み」は、おそらく、生きていくためのまなびほぐし(unlearning)の試みとも言い換えられるのではないだろうか。「教育」について、それまで積み重ねてきた経験や身につけてきた考え方をほぐし、生きていくことに合わせて編みなおす。

本書は主語のない学術書ではなく、始まりにはいつも「私」がある。「私」を起点にして論を起こし、「私」から離れてより根源的な問題へと進み、ふたたび「私」へと戻る。途切れのない問いの連環を、ゆっくりと辿りたい。


この書評は、2020年夏に開催された書評コンクールの応募作品です(書評番号1)