2020年11月6日金曜日

【書評】寮美千子『あふれでたのは やさしさだった 奈良少年刑務所 絵本と詩の教室』西日本出版社、2018年

 詩はどうして、心にふれてくるのだろう、ふれられるのだろう。そもそも詩とはなんだろう。もし詩と聞いて身構えてしまうとしたら、そのひとには、もっぱら修辞を駆使する言葉遊び、繊細な感性の証明、どこか気取ったもの、キレイゴト、実人生とは無関係、聖域、といった先入観や苦手意識が少なからずあるからかもしれない。『あふれでたのは やさしさだった』は、奈良少年刑務所(現在は廃庁)での更生教育「社会性涵養プログラム」の一環として行われた授業の記録であるが、そうした詩に対する思いこみを解いてくれるようなノンフィクションでもある。

 このプログラム(半期)を受講できるのは、1725歳の400名近い受刑者が収監されているなかで10名ほど。「刑務所のなかでも、みんなと歩調を合わせるのがむずかしく、ともすればいじめの対象にもなりかねない」コミュニケーションが困難な青少年たちだという。寮が担当した「物語の教室」では、まず絵本の朗読劇で心をほぐす準備体操をする(教材の絵本は、アイヌ民話を題材にした『おおかみのこがはしってきて』、宮沢賢治「どんぐりと山猫」を題材にした『どんぐりたいかい』)。そうすることによって、この教室では、「すぐに答えられなくても、ちゃんと待ってもらえる」「評価されない」「叱られない」「安心・安全な場」であることを、彼らに身をもって知ってもらうのだ(わたしたちの日常においても、自然体でいられることは意外とむずかしい)。そのあとではじめて詩を書いてきてもらい、発表し合う授業形式が可能となる。

 詩を書くことによって、しんどい「自分の心に気づくこと、吐きだすこと」ができるようになる。それを仲間が受けとめてくれる「場」がある。その「自己表現」+「受けとめ」(共感にかぎらない)のセットで、みるみる彼らの表情や態度が変わってゆくのだという。またこのプログラムの実践を通じて、講師である寮もまた、詩に対する認識を新たにしていく。

 

だれかが「これは詩だ」と思って書いた言葉があり、それを「これは詩だな」と受けとめる人がいたら、その瞬間、どんな言葉でも「詩になる」ということだ。そして、それは書いた人の人生を変えるほどの力を持つことがあるのだ。/すぐれた詩作品があり、そんな詩にこそ価値があると思っていたわたしは、愚かな「詩のエリート主義者」だった。(122-123

 

 わたし自身は、詩の言葉が「日常の言葉とは違う」(寮)ということにすら、どこか違和感を覚える。日常の言葉だって、詩でありうるのではないだろうか。「裸の心でつながりあうことのできる教室」の記録は、詩と日常を分けて暮らしているわたしたちにも、楽に呼吸ができる社会をつくるヒントを教えてくれる。

 本書では、いくつかの詩が紹介されており、寮が彼らの背景を含めて解説してくれているが、詩をていねいに読みたい方には「奈良少年刑務所詩集」も2冊出版されているので、そちらをどうぞ。


【関連書】

寮美千子編『空が青いから白をえらんだのです—奈良少年刑務所詩集—』新潮文庫、2011

寮美千子編『世界はもっと美しくなる 奈良少年刑務所詩集』ロクリン社、2016


この書評は、2020年夏に開催された書評コンクールの応募作品です(書評番号5)