「オラファー・エリアソン ときに川は橋となる」展
「もつれるものたち」展
替えのマスクやアルコールティッシュなどを鞄に詰め込み、ふたつの企画展に行った。
ひとつは「オラファー・エリアソン ときに川は橋となる」展、もうひとつは「もつれるものたち」展。どちらも、東京都現代美術館で9月27日まで開催していた。
オラファー・エリアソンは1967年、デンマークのコペンハーゲンで生まれた。環境問題に深い関心を寄せる作家である。今回の企画展のテーマは「エコロジーとサステナビリティ」ということで、光や水を素材とした美しい作品を通じ、再生可能エネルギーや気候変動について考えさせてくれる作品が並んでいるらしかった。
「らしかった」という曖昧な言い方をしてしまったのは、残念ながら、来場者が多すぎて作品をじっくりと見ることができなかったからだ。なにしろ私は、身長30.5cmのテディベアである。どんなに背伸びをしても、人混みの中での鑑賞はほぼ不可能に等しい。とはいえ、カラフルな光に満ちた作品の間を歩き回る、若者たちの姿を観察するのは面白かった。スマートフォンを手に、思い思いに「映える」場所を見つけてはポーズを取る。彼らの元気な姿を眺めて、私も少し元気をもらったような気がする。あちこちで夏のイベントが中止に追い込まれるなか、普段の美術館にはない雑駁な雰囲気は、まるで縁日のようで、気分の浮き立つものだった。
オラファー・エリアソンの展示とは対照的に、静かな活気に満ちていたのは、「もつれるものたち」展である。パリとサンフランシスコを拠点とするカディスト・ファウンデーションとの共同企画だそうだ。ここでは、12組のアーティストが、現代社会を鋭く批評する作品を展示する。どの作品も問題意識がはっきりしていて、特定の地域や時代と結びついた素材や手法を用いていることが印象的だった。
私が特に気に入ったのは、リウ・チュアンの映像作品《Bitcoin Mining
and Field Recordings of Ethnic Minorities(ビットコイン採掘と少数民族のフィールド・レコーディング)》(2018年)である。映像や音楽の持つ魅力を存分に活かしながら、少数民族の排除をはじめとする、さまざまな暴力をあばき出す。だが、作品が用いる手法はあくまでも自由自在。観ていて実に愉快だった。
この作品では多くの静止画像や動画、そして写真や音楽を引用している。それら、メタファーに満ちたイメージのかけらを繋ぐのは、少数民族の言語によるナレーションである。
ナレーションは、歴史的な事実や科学的な裏付けを前面に出すのではなく、連想の作用により、寓話的に物語る。動画や写真といった、現実の世界を複製したものばかりではなく、時にはスピルバーグやタルコフスキーの映画からの引用も交え、現実と虚構の間を自由に行き来する。もちろん、スピルバーグ+タルコフスキーという組み合わせは、かつての東西冷戦を連想させるものだが、この作品は、イメージの類似や連想によって紡ぎ出される現代の寓話なのだ。冷戦の息詰まる対立構図よりも、マジョリティに圧迫されながらもしたたかに生き抜いてきたマイノリティの気概のほうを、より強く感じることができた。
私たちが日々研究している児童文学には、「戦争児童文学」や「プロブレム・ノベル」といった、フィクションを通じて現実の問題について考えさせてくれる領域がある。現代美術の持つ自在さに目を見開かされながら、「児童文学を研究する私も負けていられないぞ」と、改めて気合を入れ直したのだった。
展覧会情報
「オラファー・エリアソン ときに川は橋となる」展
「もつれるものたち」展
会場 東京都現代美術館
会期 2020年6月9日(火)-9月27日(日)
センターではいま、感染予防の取り組みの一つとして、返却されたセンター蔵書を書架に戻す前に段ボールで別に取り置き、3日間程度、保管している。次の人が手に取る前にウイルスが死滅するよう、しばらく置いておくのである。
センターに住み込んでいる私も、外出後は3日程度、この段ボールで待機しようかと考えている。