児童文化研究センターは、12月23日(木)から1月5日(水)まで閉室とさせていただきます。
ご不便をおかけいたしますが、なにとぞご了承くださいませ。
本年もありがとうございました。 こちらの画像は、冬至の長い影法師を楽しみながら テーブルの上でポーズを取る熊沢健児氏とひつじ氏です。 |
1934年、レオーニは製菓会社モッタに就職した。モッタは1919年に創業し、イタリアのクリスマス(イタリアではクリスマスを“ナターレ”と言うそうだ)で食べられる「パネトーネ」で有名になったという。手元にある電子辞書(デジタル大辞泉)で調べてみたが、パネトーネは“パネットーネ”とも言い、果物の砂糖漬けやレーズンを入れて焼く、豪華な菓子パンのようなお菓子だ。実際のパネットーネはかなり大きいらしいのだが、個人的には、その、腰高まんじゅうにも通ずるところのある福々しいシルエットに好感を抱いた。
図録の解説「製菓会社モッタのデザイン戦略」(p.23 担当:森泉文美)によれば、モッタでレオーニの上司となったディーノ・ヴィッラーニは、1934年に広告部長として起用され、ブランドリニューアルに向けて企業コンクールの企画やイベントへの協賛、全国的な広告キャンペーンなどを打ち出した。レオーニはモッタのブランドリニューアルのタイミングで、ヴィッラーニのアシスタントとして採用された。これはレオーニにとって大変なチャンスだったのだろう。
モッタがブランドリニューアルのために行った広告キャンペーンとは、どのくらい画期的なことだったのだろう。解説には、「パネトーネの生地や設備を利用して開発したイースター用のケーキ「コロンバ」の成功は企業マーケティング戦略の先駆的な例として評価されています」(同上)とある。
図録に収録された印刷物や広告原画のなかに、コロンバのパンフレット「伝統・伝説(TRADIZIONE
LEGGENDA)」の図版がある。鳩とオリーブの葉を図案化し、淡いピンクとエメラルドグリーンの2色でまとめている。レオーニが制作した広告だという。白抜きになった鳩の形が、咲きかかった百合のように愛らしい。解説には「中世にミラノを勝利に導いた鳩たちを象ったパンの起源を語ったもの」(p.24)とあり、背後に物語のあるイメージなのだということが分かる。
レオーニはまた、「モッタレッロ」というキャラクターをデザインしている。モッタレッロという名前はちょっと発音しづらいけれど、日本語風に名付け直すとしたらどんな名前になるだろう。モッタさん?
モッタ坊や? 新聞広告からとられたモッタレッロの図版を改めて眺めてみると、丸顔で、コックさんの帽子を被り、手にはパネットーネを持ったモッタレッロは、円や台形といった単純な形をもとにデザインされている。斜めの線や、背景の黒のコントラストによってシャープな印象を与えるけれど、嫌味なところが一つもない、愛らしいキャラクターだ。
【書誌情報】
『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年
遠藤知恵子(センター助手)
1934年①
今回は、年譜を読み進めよう。
レオーニは1934年、建築雑誌『Casabella』の編集長エドアルド・ペルシコと出会い、編集に協力したり記事を執筆したりしている。このペルシコの紹介により、レオーニは製菓会社モッタに、広告部長ディーノ・ヴィッラーニのアシスタントとして就職する。また、ルーマニア生まれの漫画家で挿絵画家のソール・スタインバーグ(1914-1999)やシナリオライターのチェーザレ・サヴァッティーニ(1902-1989)と親交を深めた。建築の雑誌に関わったからなのだろうか、年譜には不動産の話題が2つある。ひとつは妻ノーラの母の遺産で購入した土地に「6つの小さな家をデザイン」したこと、もうひとつは「ジャン・カルロ・パランティによって建てられたばかりのモダンなアパートに住」んだことである(p.217)。
一方のムナーリだが、この1934年に、二つの宣言に参加している。「未来派航空造形技術宣言」と「壁面造形宣言」である。
3月1日、未来派の定期刊行物『サンテリア』に、ブルーノ・ムナーリ、カルロ・マンゾーニ、ジェリンド・フルラン、リカス、レジーナの「ミラノ未来派グループ」による「未来派航空造形技術宣言」が掲載される。(p.343)
『スティーレ・フトゥリスタ』誌1巻5号に、マリネッティらとともにムナーリが署名した「壁面造形宣言」が掲載される。(同上)
年譜によると、ムナーリは、トレ・アルティ画廊で開催された未来派25周年の展覧会に参加した折、開会式で「未来派航空造形技術宣言」を読んでいる。
壁画の宣言については、どうだったのだろう。6月から10月にかけてミラノのパラッツォ・デッラルテで開催された「イタリア航空学展」で、ジュゼッペ・パガーノ設計の「イカロスの間」に壁画を描いたそうだが、この壁画は宣言に関係あるだろうか。また、ムナーリは、この年の11月から翌年の1月にかけて、ジェノヴァのパラッツォ・ドゥカーレで開催された「第1回壁面造形展」に参加している。
1934年には上記の展覧会も含め、ムナーリは合わせて7つのグループ展に参加。また、ムナーリが表紙と挿画を担当したトゥッリオ・ダルビゾラの『叙情的な西瓜(情熱的な長編詩)』が、7月に刊行される。この年、ムナーリはディルマ・カルネヴァーリと結婚し、ミラノのヴィットリア・コロンナ通りに住居兼アトリエを構えている。
【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp. 342-357
「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp. 216-219 ※執筆担当者の表示なし
こちらの講演会は、大盛況のうちに終了いたしました。
沼辺信一氏講演会 基本情報
光吉文庫のロシア絵本について:コレクションの稀少性と歴史的意義
日時:2022年3月26日(土)13:00~(16:00頃終了予定)
場所:(対面) R. 3203/(遠隔)zoomによる同時配信
※アーカイブの配信はございません。 アーカイブ配信が決定しました!
当日ご参加いただけない方にのみ、アーカイブを公開いたします
お申し込み方法
対面、遠隔ともに、事前のお申込みをお願いしております。
※どなたでもご参加いただけます。
2022年3月15日(火)17:00までに、白百合女子大学 児童文化研究センターへ、メール〔jido-bun@shirayuri.ac.jp〕・FAX〔03-3326-1319〕・下記の「お申込みフォーム」のいずれかの方法でお申し込みください。
センター入り口で、センター蔵書(Z本)のミニ展示を行っております。
展示中の本
A・A・ミルン 著 ル・メール 絵『子どもの情景』
早川敦子 訳 パピルス 1996年
全十二編の短編集。各話のタイトルは次の通りです。
王女さまとりんごの木 すずめの木広場 ふたご
ベッドのなかの、ちっちゃなウォーターロー 砂のこどもたち
かわいそうなアン インドへの旅 バーバラの誕生日に
小さな銀のカップ 魔法の丘
ムッシュー・デュポンの三人姉妹 海辺のお城
こちらの図書は展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。
今回は年譜を読み進めず、前回をちょっと振り返りつつ、寄り道しよう。
ムナーリは、1933年6月1日から20日までミラノのペーザロ画廊で開催された「ウンベルト・ボッチョーニへの未来派的オマージュ」展に参加していた。このグループ展より3年前の1930年には、10月16日から11月30日にかけてミラノのペーザロ画廊で開催された「建築家サンテリアと未来派画家22人」展に参加している。これらの展覧会にみられる「ウンベルト・ボッチョーニ」も「建築家サンテリア」も、未来派の第一世代と見做されている芸術家だ。
前にも参照し、引用した多木浩二の『未来派 百年後を羨望した芸術家たち』では、未来派の盛期が「未来派創立宣言」が発表された1909年から10年間ほどの期間だったという見方が提示されている(じゃあ、その後の未来派はいったい何だったのかという疑問が湧いてくるが、その疑問はひとまず措いておくとしよう)。ボッチョーニもサンテリアも、未来派の一員としてごく短い期間、活動し、第一次世界大戦に従軍して命を落とした。多木はこの二人を重要な芸術家と位置付けて、詳しく取り上げている。
ウンベルト・ボッチョーニ(1882-1916)は印象派や象徴主義の影響を強く受けた画家だったが、1912年頃から彫刻を作り始め、「未来派彫刻技法宣言」(1912年4月11日)を発表した。
『未来派 百年後を羨望した芸術家たち』には、この時期に発表された主な宣言文のほか、「第2章 未来派ギャラリー」というタイトルのもと、未来派のメンバーが作った作品や関連資料の図版が収録されている。複製(写真図版)に基づく個人的な感想になってしまうのだけれど、作品の印象を、ちょっと書いておきたい。「未来派ギャラリー」のページに写真図版が収められているボッチョーニの彫刻作品は、〈一本の壜の空間への展開〉(1912年)と〈空間における連続性の唯一の形態〉(1913年)の2点。〈一本の壜の空間への展開〉は、1本の壜が斜めに切られ、切断面が何もない空間に触れている。傾斜し段になった上に台座があり、この台座に壜の形態が鎮座しているのだが、静止しているはずの壜を「展開」させることで、壜の形態とその周囲の空間とが、互いに緊張感を持って触れ合っている。〈空間における連続性の唯一の形態〉の方は、タイトルに含まれる「唯一の」という強気な言葉にほのかな抵抗を感じないでもない。でも、歩行する人体が空間をどのように切り開きながら歩いていくのか、また、人体の運動がどのようにして空間を占めながら進んでいくのか、堂々たる姿の彫刻を見せつけられると、このタイトルにも納得せざるを得ないような気がしてくる。
もう一人の芸術家、建築家のアントニオ・サンテリア(1888-1916)の作品については、「未来派ギャラリー」の図版で、スケッチを見ることができる。描かれているのは、近代的な住宅や、教会、礼拝堂、灯台、発電所、駅(駅は駅でも、列車と飛行機のための駅である)、巨大なビルディングが立ち並ぶ都市、等々。コンクリート、鉄、ガラスといった、人工的な素材で作る巨大建造物をイメージして描かれたもののようだ。収録された図版はいずれも建造物の外観を紙に描いたものだが、それらの内部をサンテリアはどのようにデザインするつもりだったのだろうか。それらの建造物からは、人間の営みは見えてこない。なお、「未来派ギャラリー」に収録された設計図のうち、〈モニュメンタルな建築〉(1914年)が、コモ湖畔にあるサンテリア記念碑(第一次世界大戦戦没者のための記念碑)のデザインのもととなっているという。
【書誌情報】
多木浩二『未来派 百年後を羨望した芸術家たち』コトニ社、2021年
遠藤知恵子(センター助手)
年譜を読み進めよう。
1933年、レオーニは石油会社での会計の仕事を辞め、学業に励んだのち、アムステルダムに移住。アムステルダムでは事務用品販売会社のセールスマンとして働く。だが、オランダの徴兵制から逃れるために、年末にイタリアに戻る。それにしても、レオーニは引っ越しが多い。
一方のムナーリは、ミラノで仕事を続ける。年譜にはまず、「『文学年鑑1933』に12点のフォトモンタージュ作品《1933年の状況》をはじめとする、複数の挿絵が掲載される」(p.343)とある。また、ムナーリが装丁した『ヴィア・ボーデンバッハ』(フィレンツ・ケレメンディ著)がボンビアーニ出版から刊行されたとのこと。出版物の仕事が、相変わらず充実していたようだ。
「フォトモンタージュ」という言葉を『岩波 西洋美術用語辞典』で引いてみると、「多重露光や多重焼き付け、あるいはフィルムの切り貼りによって、異なる映像を組み合わせたり、重ね合わせたりする写真技法。広い意味ではフォト・コラージュを含む場合がある」(p.259)とある。撮影の段階や現像の段階、あるいはフィルムになってからと、どの時点でどんなふうにモンタージュするかはさまざまだけれど、要するに、写真のイメージを切り貼りして画面を構成する、写真表現に特有の技法…と考えれば良さそうだ。
『文学年鑑1933』のフォトモンタージュ作品12点のうち、6点の図版が図録に収録されている。掲載図版のうち、4点がフォトモンタージュで作ったものらしく、残りの2点はペンなどで描いたドローイングに見える。フォトモンタージュ作品は複雑にイメージを切り貼りしているが、ドローイングのほうも、なかなか複雑だ。2点のうち、「先駆的」と題する1点は、機械装置のなかに動物たちを動力源として組み込んだ絵柄。絵そのものはそれほど複雑ではないけれど、「先駆的」というタイトルと、動力源としての動物という組み合わせが皮肉で、見ると考え込まずにはいられないような諷刺的なイメージだ。「全体演劇」と題するもう1点は、さまざまな要素を組み合わせている。二つの四角形の手前に地球儀を思わせる円形を配し、小さな梯子のようなもの、隣接する二つの平たい建造物(二つとも、ニューヨークのフラットアイアンビルディングのように平らだ)、持ち手のついた円柱(ビールジョッキにも見える)といったものを組み合わせ、画面中央へ寄せ気味に構成している…と、一応、見たままに、描かれているものを言葉にしてみたつもりなのだが、なんだか、かえって分かりづらくなってしまったかもしれない。
1933年のムナーリは展覧会での作品発表も精力的に行なっている。3月から4月にかけてミラノで開催された「ロンバルディア州ファシスト美術連合展」に参加したのを始まりに、5月から10月にかけて開催の第5回ミラノ・ビエンナーレに未来派として参加、6月にミラノのペーザロ画廊で開催された「ウンベルト・ボッチョーニへの未来派的オマージュ」展ほか、全部で6つのグループ展に参加している。さらにこの年は、ミラノのトレ・アルティ画廊で「ブルーノ・ムナーリ個展」を開催している。ムナーリはこの初個展で、《役に立たない機械》を展示した。
【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp. 342-357
「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp. 216-219 ※執筆担当者の表示なし
益田朋幸・喜多崎親編著『岩波 西洋美術用語辞典』岩波書店、2005年
遠藤知恵子(センター助手)
今回は、ちょっと立ち止まって、ムナーリがカンパリ社のためにした仕事を見ておきたい。
前回、年譜からは、ムナーリが若いうちから順調にキャリアを積み上げていたことが読み取れた。「ブルーノ・ムナーリ」展図録の解説(p.49 担当:盛本直美)によると、カンパリ社では1927年から1932年の間に、顧客への贈呈品として『カンパリの吟遊詩人』という全5集の詩集を限定制作していたそうだ。詩は、劇作家で詩人のレナート・シモーニが書いた。ムナーリが挿画を担当したのは第5集だが、同じく図録の解説によると、それは、次のようなものだった。
ムナーリが担当した第5集は、当時としては珍しいスパイラル製本で、宙空に浮かぶ矩形や人物像で構成された挿絵が、愛を主題とした27遍の詩に彩を添えている。
図録では、表紙に加え、中のページが見開きで2面、掲載されており、ふたつの挿画を見ることができる。表紙に描かれた、赤い(カンパリ色?の)果物らしい物体が印象的だ。見開き2面のうち、L’AMORE DI DON GIOVANNIという詩に組み合わされた挿画を見ると、幾何学的な形態(台形)と有機的なモチーフ(包丁で果物を切る人と、カッティングボードの上で切られている果物)を組み合わせ、画面中にさりげなく小さなハート(一般的には“愛”を指す記号)をあしらっている。主張しすぎず、しかし気が利いている。
【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」(『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp. 342-357)
遠藤知恵子(センター助手)
いつもセンター入り口のミニ展示にて皆様をお迎えしている、熊沢健児氏(ぬいぐるみ・名誉研究員)が、昨日のアドベントの集いに参加しました。以下は、熊沢氏から送られた写真画像です。
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アドベントの集いの後も、しばらくの間、 キャンドルが灯されていました。 温かく揺らぐ炎に引き寄せられて、 スマートフォンのカメラを向ける人もちらほら。 (熊沢氏もそのひとりでした。) |
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夕方、あたりが暗くなると、クリスマス ツリーは幻想的な雰囲気をまといます。 紅葉とのコントラストは、 今の時期ならではの楽しみです。 |
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建物に入って、冷えた体を温める熊沢氏。 本館エントランスには、動物のぬいぐるみで 飾り付けたクリスマスツリーがあります。 写真は、カンガルー氏に挨拶しているところ。 |
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カンガルー氏のポケットにインスパイアされ、 助手のコートのポケットに入ってみた熊沢氏。 意外と快適だったようで、ご満悦の様子です。 |
今回も、年譜を読もう。レオーニは1932年にマリネッティと出会い、未来派の作品展に参加する。また、石油会社で会計の仕事に就き、長男ルイスが誕生している。
未来派との交流について、年譜には次のように記されている。
サヴォーナで開催された未来派の作品展に油画6点を出品し、「飛行画家」として紹介されるが、未来派との考え方の違いを自覚する。(p.216)
「未来派との考え方の違い」とは、どのような違いだったのだろうか。図録の解説部分を読むと「彼らがファシズムに傾倒するにつれ違和感を感じはじめ」(p.16 担当:森泉文美)とあるため、その「違い」が政治的なものだったのだろうと推し量ることができる。ただ、多木浩二の『未来派 百年後を羨望した芸術家たち』(2021年)によれば、1919年にムッソリーニが作った「戦闘ファッシ」という組織には、未来派のグループが含まれていたという(p.137)。この戦闘ファッシ(戦闘者ファッシとも)はのちのファシスタ党の母体となっており、第一次世界大戦直後の時点で、未来派は既に破壊的な側面を露わにしている。
1931年のムナーリの年譜には、5月12日にジェノヴァで「航空絵画展」が催されたとあるけれど、1932年に「『飛行画家』として紹介」されたというレオーニは、これを観ていただろうか。1932年はムナーリも「航空画家」や「航空絵画」という言葉をタイトルに含む展覧会(パリで開催された「エンリコ・プランポリーニとイタリアの未来派航空画家たち」展とミラノで開催された「未来派航空絵画展」)に参加している。
1932年のムナーリの年譜を見ると、昨年に引き続き、グラフィックの仕事を手がけている。ムナーリの挿画が掲載された『カンパリの吟遊詩人』第5集の出版。そして、『フトゥリズモ』誌に、絵画作品《空間の中の旅》が掲載されている。展覧会については、先に挙げた2つのグループ展のほか、4月から10月にかけて開催された第18回ヴェネツィア・ビエンナーレに、9月あら10月にかけてトリノで開催された「第4回州美術展覧会および第90回美術振興協会展」に、参加している。
【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp. 342-357
「レオ・レオーニ 年譜」森泉文美・松岡希代子著『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp. 216-219 ※執筆担当者の表示なし
多木浩二『未来派 百年後を羨望した芸術家たち』コトニ社、2021年
遠藤知恵子(センター助手)
センター入り口で、センター蔵書(Z本)のミニ展示を行っております。
展示中の本
アデル・ジェラス『バレエものがたり』神戸万知訳、岩波少年文庫、2011年
年譜の続きを読もう。
ムナーリは1931年、ミラノのガレリア・デル・コルソに「ストゥディオR +M」というデザイン事務所を設立している。ともに事務所を立ち上げた相棒は、リッカルド・リカス(本名リッカルド・カスタネーディ)。リカスは1929年の「未来派33人展」にも参加しており、「ストゥディオR +M」設立の年、まだ19歳だった(ムナーリは24歳。ふたりとも若い)。
年譜では、「ストゥディオR +M」について、次のように説明している。
R +Mは、『自然』、『ルッフィーチョ・モデルノ』、『ラーナ・ディタリア』などの雑誌や広告などのグラフィック・デザインを手がけ、カンパリの広報部やオリヴェッティ社などとも一緒に仕事をした。(p.343)
カンパリ…! レオーニが1929年に広告を持ち込んで不採用になっていたことを思い出してしまう。オリヴェッティ社はタイプライターの製造・販売元として創立した企業、オリヴェッティのことだろう。この時期、未来派の芸術家は積極的に企業広告を手がけている。
「誰も知らないレオ・レオーニ」展図録の解説「未来派とイタリアの広告デザイン」(p.19 担当:森泉文美)には、「その実験的なデザインとタイポグラフィは20世紀初頭のヨーロッパの広告デザインに多大な影響を与えました」とある。前回は未来派のダークサイドに注目したけれど、未来派が果たした役割として、現代につながる一つの流れを知ることができる。
言われてみれば、確かに、この時代の広告は、何時間でも見ていられそうな面白いものが多いような気もする。そういえば、日本でもこの頃に『現代商業美術全集』(全24巻、アルス、1928-1930)が刊行されていた。欧米での事例の紹介や同時代の画家やデザイナーの作品を豊富な図版で紹介するこの『現代商業美術全集』は、1冊ずつパラパラめくって絵を眺めるとかなり楽しいし、収録された論文は読み応えがある。
1931年のムナーリは、舞台装置やポスターの下絵なども手がけている。展覧会としては、第1回ローマ・クワドリエンナーレ(クワドリエンナーレは4年に1度開催)に未来派として参加、5月12日にジェノヴァのパガニーニ劇場付属小劇場で開催の「航空絵画展」、10月から11月にかけてミラノ、ペーザロ画廊で「航空絵画(41人の航空画家)と舞台美術の未来派展・プランポリーニ個展」、11月から12月にかけてキアーヴァリのパラッツォ・デッレスポシヅィオーネ・ペルマネンテで「未来派の絵画、彫刻および装飾美術展」、12月にはミラノのペーザロ画廊で「ロンバルディアの水彩画家たち」と、合わせて5つの展示に参加している。
さて、一方のレオーニは、この年の末、高等学校のクラスメイトだったアッダ・マッフィの妹ノーラ・マッフィと結婚した。
【書誌情報】
l 奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp. 342-357
l 「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp. 216-219 ※執筆担当者の表示なし
遠藤知恵子(児童文化研究センター助手)
センター入り口で、センター蔵書(Z本)のミニ展示を行っております。
展示中の本
W・H・ハドソン 作、西田実
訳、駒井哲郎 画『夢を追う子』福音館書店、1972年
キャサリン・ストー
作、猪熊葉子 訳、マージョリ・アン=ウォッツ 挿絵『マリアンヌの夢』岩波少年文庫、2001年
フィリップ・リーヴ
著、井辻朱美 訳『アーサー王ここに眠る』創元社、2009年
前回に書いた、この部分から始めたいと思う。
さて、この1930年という年だが、ムナーリはほかに、アレッサンドリアのチルコロ・ウニヴェルシターリ・ファシスティで3月に開催された「未来派芸術展」、ミラノのミケーリ画廊で5月から6月にかけて開催された「第55回協会展」、ミラノのペーザロ画廊で10月から11月にかけて開催された「建築家サンテリアと未来派画家22人」展などに参加している。
ここにある3つの展覧会のうち、3つめの展覧会のタイトルに見られる「建築家サンテリア」だが、未来派に参加していた建築家のアントニオ・サンテリア(1888-1916)は、第一次世界大戦に従軍し、戦死してしまった。
未来派について語るときには、第一次世界大戦の前後で第一世代と第二世代に分けて論じるのが通例だそうなので、サンテリアは第一世代の人物ということになる。ムナーリはダルビゾーラの工房で陶芸作品を製作していたが、そのダルビゾーラ(トゥーリオ・マッツォッティ)もムナーリも、第一次世界大戦後のメンバー(第二世代)である。
「ブルーノ・ムナーリ」展図録の解説に、ムナーリが出会った時期の未来派についてこんなことが書いてある。長くなるが、引用したい。
1915年、ジャコモ・バッラとフォルトゥナート・デペロは、「未来派における宇宙の再構築宣言」を発表し、これまでの未来派の単なるダイナミズムや速度とは異なった、抽象的で総合的な形態への方向性を示した。この未来派の第2世代と言うべき動きには、エンリコ・プランポリーニら若い作家たちが加わり、続く20年代末から30年代にかけて、飛行の驚異的なスピードや、遥か上空から見下ろす視点による新しいビジョンを求めた「航空絵画」へと至る。同時にその活動領域は、建築、ファッション、エディトリアル・デザイン、写真や映画、演劇にまで広がっていった。(p.30 執筆者:盛本直美)
20世紀初頭における「飛行の驚異的なスピードや、遥か上空から見下ろす視点による新しいビジョン」を現代に置き換えるなら、ドローンを使って撮影した映像のようなものだろうか。新しい視覚体験による「航空絵画」を追及していったこの時期、未来派の活動領域が広がっていったという。
ところで、今年、多木浩二の『未来派 百年後を羨望した芸術家たち』(コトニ社、2021年)が刊行された。今回はこの本も参照したい。
多木はこんなふうに書いている。
一九〇九年(マリネッティの最初の宣言が出た年)から第一次世界大戦の終末までが、未来派の盛期であった。(p.97)
1909年から1918年頃までが「未来派の盛期」だとしたら、ムナーリが未来派の展覧会に初参加した1927年、この頃には旬が過ぎていたという見方がここにある。第一次世界大戦によって亡くなったメンバーはサンテリアの他にもおり、これらの芸術家たちを失ったことは、取り返しのつかない痛手だったということなのだろう。
話は変わるが、ムナーリが初期の代表作のひとつ、《役に立たない機械》を制作する前年の1929年に、マリネッティは『ムッソリーニの肖像』という本を書いている。1919年1月のスカラ座事件の打ち壊しに未来派グループが参加するなど、未来派はファシズムとの関連を無視しては語れない。多木は同じ本の中で、「とくにマリネッティはムッソリーニが殺されファシズムが終わるまで、ファシズムに忠実だったことは紛れもない事実である」(p.133)と書いている。ムナーリやレオーニが創作活動の第一歩として接近した未来派およびマリネッティは、そんな、第一次世界大戦後の未来派であり、マリネッティだったのである。
…歴史の重さを感じ、ちょっと震えてしまった。
【書誌情報】
l 『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年
l 多木浩二『未来派 百年後を羨望した芸術家たち』コトニ社、2021年
遠藤知恵子(児童文化研究センター助手)
書評コンクールが成立しなくて残念だったのにゃ~。ちょうど今の時期は学会もあるし、忙しい時期にゃからね。仕方ないですにゃ。今回の反省を生かし、来年度は熊沢君と一緒に頑張って、コンクールを盛り立てますにゃ。
ところで、皆さまは窓はお好きですかにゃ? 私は大好きですにゃ。明るくて温かくて、風が通り抜けて、お空と挨拶ができる場所にゃね~。コンクールはなくなってしまったのにゃけど、1冊だけ、本を紹介させていただきたいと思いますにゃ。
『Window Scape 窓のふるまい学』は、窓の研究がもとになってできた本ですにゃ。その研究では、世界中の窓を現地で実測・聞き取り調査して、窓のまわりで人がどんなふうにふるまうかを観察したのにゃって。この本は、建物とその用途、建っている都市や国の名前、気候区分などを、寸法を書き込んだスケッチと写真とともに収録していて、スケッチには、窓の前で憩ったり、お仕事したりしている人の姿も描き込まれているのにゃよ。窓だけ見るのではなくて、その窓がどんなふうに人の暮らしや街や自然環境に溶け込んでいるのか、窓にまつわるいろんな「ふるまい」から窓を見ているのですにゃ。
この本では、調査して観察した窓を「光と風」、「人とともに」、「交響詩」と大きく三つに整理し、それをさらに細かく分けて窓の記録を収めているのにゃ。その、窓を分けて整理するための言葉がとても素敵にゃから、ここに紹介しておきますにゃ~。
・「光と風」:「たまりの窓」「にじみの窓」「彫刻する窓」「光の部屋」「影の中の窓」「風の中の窓」「庭の中の窓」
・「人とともに」:「はたらく窓」「通り抜けの窓」「座りの窓」「眠りの窓」「物見の窓」
・「交響詩」:「連なりの窓」「重なりの窓」「窓の中の窓」
(すべて目次より)
「光と風」の分類では、自然光や外気と窓がどんな風に関わり合っているかという視点からいろいろな窓を配列しているのにゃ。例えば、「たまりの窓」の写真を見ると、窓が光をそっと抱き込むような不思議な空間を見ることができるのにゃよ。「人とともに」はその名の通り、窓と人とがどう関係しあっているか、人のふるまいをもとに分けているのにゃね。「眠りの窓」にゃんて、うっとりしてしまうのにゃ~。「交響詩」は、窓と窓との関係を音楽に喩えているのにゃね。いくつも連なったり、二重窓になったり、さらに複雑に配置されたりすることによって、調和的な空間が生まれるのにゃ。
人の心と同じように、閉じたり開いたりする窓にゃから、関係性によって窓を見ていくというのは面白いにゃね。
この本のはじめのほうに書いてあったのにゃけど、気候風土によって異なる個性を持った窓の観察は、少しずつ地域を移動しながら見ていくと、窓どうしの似ているところや違っているところが分かりやすくなるらしいのにゃ。だから、この本は、土地から土地へとちょっとずつ移動していく、旅人の視線で窓を記録していった本なのにゃね、きっと。
児童文学作品にも「窓」が重要なモチーフになっているものは少なくないのにゃ。いろいろな窓を眺めにゃがら、好きな作品に登場する窓をあれこれ想像してみようにゃ~。
【書誌情報】
東京工業大学塚本由晴研究室編『Window Scape 窓のふるまい学』フィルムアート社、2010年
第5回書評コンクール(書評コンクール2021年秋)は、書評の応募がなかったため、中止とさせていただきます。
応募作品を楽しみにしてくださっていた皆様には大変申し訳ございませんが、何卒ご了承くださいませ。
来年度の書評コンクールは、実施する方向で検討しております。より参加しやすく、皆様に楽しみにしていただけるイベントになるよう、励んで参りたいと存じます。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
ムナーリは1930年に第17回ヴェネツィア・ビエンナーレの未来派の展示に参加する。会期は5月4日から11月4日までで、ムナーリの出品作品は《自画像》。未来派のオーガナイザーで詩人のマリネッティに認められ、かなり早い段階から作品発表の機会に恵まれていた。また、《軽やかな機械》や《役に立たない機械》をこの年に制作している。1930年は、ムナーリの初期の代表作が誕生した年なのである。
図録の出品作品リストを確認すると、2018年の回顧展に展示された《軽やかな機械》は1971年再制作のもので(原作は1930年)、赤く塗装した球体と直線もしくは軽やかに湾曲した細長いパーツを組み合わせて作ってある。会場での展示方法は「上から吊るす」…だったと思う(幾何学的な形の組み合わさった、似た雰囲気の作品がいくつもあったので、記憶に自信がない)。図録には、吊った形の写真図版が掲載されている。
《役に立たない機械》も、たしか「上から吊るす」タイプの展示方法をとっていた。《役に立たない機械》は1933年から1956年までの間に原作が制作された5作品について、写真図版と作品情報が図録に収録されている。それらの作品では、幾何学的な形(三角形や四角形、また、円形をもとにした形)に切った素材(木や金属、もしくは塩化ビニール樹脂など)を、絶妙なバランスで組み合わせて配置し、上から糸で吊るしている。吊ったとき自重で形態を安定させるためだろうか、石を使ったものもある。さまざまな形に整えられた木片や金属片は、塗装や不透明水彩、シルクスクリーンなどで着色されている。カラフルだったりモノトーンだったり、一目見たときの印象はそれぞれに異なるのだけれど、壁や床に投げかける影が面白かった。
ところで、いま、図録で作品情報を確認してみて、こんなに色々な材料を使っていたのか…!と、改めて驚いてしまった。材料の表面を塗っているためだと思うのだが、一昨年、展示室を訪れたときには、木や金属の質感をそんなに気にかけていなかったのである。素材の質感が絵の具や顔料の下に閉じ込められていて、展示室では、形と色の面白さを味わっていたような気がする。また、作品(シリーズ)名に「機械」とあるが、動力がついているわけではなく、これらのオブジェは自力では動けない。光線の加減や風など、他からやってくるエネルギーを利用して、その独特の存在感を醸し出している。重たい装置を持たず、環境に依存する「機械」は実際に軽やかだし、しかも役立たず者として飄々と展示空間を占拠する。
さて、この1930年という年だが、ムナーリはほかに、アレッサンドリアのチルコロ・ウニヴェルシターリ・ファシスティで3月に開催された「未来派芸術展」、ミラノのミケーリ画廊で5月から6月に開催された「第55回協会展」、ミラノのペーザロ画廊で10月から11月にかけて開催された「建築家サンテリアと未来派画家22人」展などに参加している。
一方のレオーニはと言えば、この年、ヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世商業技術高等学校を卒業し、税理士の資格を得ている。大学に進学するが、美術や工芸の学校ではなく、ジェノヴァ大学経済商学部に入学した。前年(1929年)にカンパリに作品を持ち込んだレオーニの行動力には目を見張らされるが、まだまだ学生である。
【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp. 342-357
「レオ・レオーニ 年譜」森泉文美・松岡希代子著『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp. 216-219 ※執筆担当者の表示なし
遠藤知恵子(センター助手)
ムナーリとレオーニは二人とも、未来派の陶芸作家の工房で陶芸を学んだり、作品を制作したりしていた。未来派の一員となったときムナーリはすでに広告デザインの仕事をしており、ムナーリより3歳若いレオーニは、まだ高等学校を卒業していなかったけれど、カンパリ社に広告作品を持ち込んでいた。
アルコールを嗜まないため、私自身は「カンパリ」と言われても全くピンとこないのだが、手元にある電子辞書の『デジタル大辞泉』に「カンパリ(Campari)」の項目があった。カンパリはビターオレンジと薬草を原料とするリキュール。苦味が強くて、鮮やかな赤い色と柑橘系の香りが特徴なのだそうだ。食前酒として飲んだり、カクテルにしたりするという。
「ブルーノ・ムナーリ」展図録のキャプションによれば、カンパリの発売開始は1862年。2代目経営者ダヴィデ・カンパリのときに、広告デザインに同時代の前衛芸術家を起用し、カンパリ社は世界的な大成功をおさめていた。未来派の芸術家たちも、カンパリ社の仕事をしている(p.49 担当:盛本直美)。
レオーニが持ち込んだとされる広告デザインは、2020年の「だれも知らないレオ・レオーニ」展で展示され、図録にも3点が収録されている。そのうちの1点は、半ズボンや短いスカートを穿いた子どもたちが、ついさっきまで楽しんでいた大道芸人のパフォーマンスそっちのけで、カンパリの入ったコップを持った紳士の元に走り出すというもの。子どもの飲酒を誘っているように見えて、「今日から考えるとあまり教育的ではなかったかもしれません」という図録の解説(p.21 担当:森泉文美)にはただただ頷くばかりである。だが、現代の日本人としての規範感覚から少し距離を取り、レオーニの広告デザインを改めて見てみると、画面の右から左へと流れていくストーリーが読み取れる。子どもたちがコップに入ったカンパリを目指してまっしぐらに走っていく様子は、人々の欲望を商品に向けて誘導する広告デザインのもつ性質のひとつを、率直に物語っているようにも感じられる。
【書誌情報】
l 奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」(『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp. 342-357)
l 「レオ・レオーニ 年譜」(森泉文美・松岡希代子『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp. 216-219) ※執筆担当者の表示なし
遠藤知恵子(センター助手)
センター入り口で、センター蔵書(Z本)のミニ展示を行っております。こちらの図書は展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。
展示中の本
舟崎克彦・作、長新太・絵『うわさのマメずきん』あかね書房、1994年
【ポップより】
児童文化研究センターの打ち合わせスペースに飾ってある、原画作品をご覧になったことはありますか?
児童文化研究センターの宝物のひとつ。それは、舟崎克彦先生の『うわさのマメずきん』に、長新太さんが描かれた絵です。舟崎先生が生前、ご寄贈くださいました。謎のヒーロー、マメずきんが物の怪たちに囲まれ、あわや絶体絶命!?…という絵柄なのですが、よ~く見ると、物の怪たちの顔が楽しそうなこの絵。原画では、夜の暗さを表す青い絵の具の色が、意外にも透明感があり、きれいです。
印刷物にはない鮮やかさや、絵の具の微妙な重なり具合を、ぜひ、間近で見てください。
ムナーリは1926年、フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ(1876-1944)に出会う。マリネッティと初めて会った年については、1927年という説もあるそうだが、ともかくも10代の終わりか20代の初めくらいの年頃でマリネッティと出会い、1927年11月から12月にミラノのペーザロ画廊で開かれた「未来派画家34人」展に参加している。ムナーリが未来派に加わった経緯について、年譜には次のように書いてある。
フランコ・ランパ・ロッシに、未来派に推挙された後、トゥッリオ・ダルビゾラと知りあう。のち、ダルビゾラの工房で、他の未来派の芸術家とおなじように、陶芸作品を制作するようになる。(p. 342)
2018年の「ブルーノ・ムナーリ展」では、残念ながらこの時期のムナーリの陶芸作品は見られなかったのだが、未来派の仲間に加わり、創作活動を開始したようだ。
さて、どんな活動だったのだろうか…と、同展図録の、年譜以外のページを見てみる。論文がいくつか収録されているのだが、そのうちのひとつを書いた世田谷美術館学芸員の野田尚稔は「ブルーノ・ムナーリの理論的再構成」(pp.325-339)の中で、アレッサンドロ・コリッツィの博士論文(Bruno Munari and the invention of modern graphic
design in Italy, 1928-1945. Doctral Thesis, Leiden
University, 2011)を参照しながら、未来派に加わる直前のムナーリは、「製図を描く仕事に就きつつミラノでの生活を始め、次第に広告デザインを手掛けていった」(p.328)と記している。若い頃のムナーリは、製 “図”、そして、デザイン(=“図”案)というように、“図”を描く仕事をしていた。絵画作品(タブロー)に比べ、それらの図は、画面に描き込まれたものの形や色が記号により近いことや、経済活動へとダイレクトにつながっていることがおおよその傾向として言えると思うのだが、ムナーリの仕事は、そうした“図”に近いところから始まっていたことがわかる。
年譜に戻ると、未来派のグループ展に初めて参加した翌年にあたる1928年3月31日には、「サッスとともに「ダイナミズムと筋肉改革」絵画宣言に署名」(p.342)し、同年12月23日から翌年の1月15日にはマントヴァのシエンティフィコ劇場で開催の「未来派、ノヴェチェント、郷土派芸術」に参加している。未来派に加わってすぐに、どんどん発信を始めている。
ふぅん…ムナーリってすごいなぁ…などと思いながらさらに年譜を読み進めていくと、1929年ヴァレーゼ市立図書館で、ムナーリを中心とするグループ展が開催されている。この年の展覧会データによると、6月10日から25日の「未来派芸術展 ロンバルディアのラジオ未来派グループ」というものだ。また、同じ年の10月にミラノで、12月から翌年1月にかけてはパリで、作品展示に参加。
1929年は作品展示に加え、12月12日にローマで上演された、マリネッティの「裸のプロンプター」で舞台装置と衣装を担当。戯曲「裸のプロンプター」が雑誌『コモエディア』に掲載されるときには、挿絵をムナーリが描いている。また、ジュゼッペ・ロメオ=トスカーノ著『羽のない鷲』で、表紙と挿絵を担当している。
こんなふうにして、ムナーリが活躍を始めた頃、レオーニはまだ高等学校の生徒だった。「レオ・レオーニ 年譜」によると、1926年にヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世商業技術高等学校に入学。年譜には、次のように書いてある。
クラスメイトのアッダ・マッフィとその兄妹たちと交流。彼らの父ファブリーツィオは医師であると共に共産党員で、ファシスト政権の弾圧で一時投獄されていた。こうした環境下でレオも自ら共産主義を自任するようになる。(p. 216)
第一次世界大戦後のイタリアでは、1922年にムッソリーニの結成したファシスタ党が政権を獲得し、この時期のイタリアは、独裁体制が敷かれていた。後年の楽しい絵本作品からはちょっと想像しづらいのだが、2020年の「だれも知らないレオ・レオーニ」展は、1940年代・50年代制作の諷刺画を見せてくれて、当時の社会に対するシビアな眼差しが感じられたことが印象的だった。
1929年頃から広告デザインに興味を持つようになり、カンパリに作品を持ち込んでいる(しかし不採用)。作品の持ち込みだけではない。年譜を見ていると、1年の間によくぞそこまで、と感心してしまうほど、活発にトライ&エラーを繰り返している。
チューリッヒ大学経済学部の聴講生となり、スイスで下宿生活を送る。映画に強い関心を抱き、ローマの国立映画学校へ入学を希望するが、父に諭され1930年にジェノヴァに戻る。アルビソーラのトゥーリオ・マッツォッティの工房で陶芸を学ぶ。(p. 216)
芸術系の大学ではなく、しかも経済学部というのが意外である。映画に興味を持ち、しかし父に反対されてジェノヴァに戻り、だがそれでも未来派の一員であるマッツォッティの工房で陶芸を学んでいる。
ちなみに、トゥーリオ・マッツォッティは通称Tullio d’Albisola。Tullio d’Albisolaのカタカナ表記は筆者によって異なるようだけれども、1927年にムナーリが知り合い、のちにその工房で陶芸作品を制作するようになった、あの「トゥッリオ・ダルビゾラ」のことだろう。ムナーリから2年遅れて、レオーニも同じ工房で学んでいたのか!
年譜の続きが気になるが、もうだいぶ長く書いてしまった。今回は、ここまでとしておこう。
【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp. 342-357
「レオ・レオーニ 年譜」森泉文美・松岡希代子著『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp. 216-219 ※執筆担当者の表示なし
ニューヨーク近代美術館(MoMA)ホームページに、Tullio d’Albisola(Tullio Spartaco Mazzotti)の項目がある。オンラインで、彼がレイアウトを担当したマリネッティの詩集(https://www.moma.org/artists/6911)を見ることができた。
遠藤知恵子(センター助手)
センター入り口で、センター蔵書(Z本)のミニ展示を行っております。展示している図書はSr.松井千恵先生の『ひよこのあゆみ』(パロル舎、2010年)です。こちらの図書は展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。
※「マスール」とは「シスター(修道女)」のことです。
【ポップより】
10月23日(土)・24日(日)の白百合祭にちなみ、白百合女子大学や児童文化研究センターのあゆみを知ることができる本をと思い、この本を展示することにしました。
著者の松井千恵先生は児童文化学科の創設や大学院修士課程、児童文化研究センターの設置に尽力された方です。本書は松井先生の生い立ちから始まり、修道女・教員として「真・善・美」を実践した日々を回想するものです。
芯の強さと明るく楽天的な純真さとが感じられる、すてきな本です。どうぞお手に取ってご覧ください。
光吉夏弥(1904-1989)は『ひとまねこざる』の翻訳者として知られている人物ですが、若い頃は新聞や雑誌に舞踊評論を寄稿し、舞踊評論家として活動を開始していました。鉄道省外局国際観光局に就職し、その後、東京日日新聞、大阪毎日新聞、国際報道工芸社などに勤務。また、戦中より児童書の編集や翻訳を手がけ始めます・・・と、このように、本書からごく簡単に光吉の経歴を抜き書きしてみましたが、従来あまり知られていなかった戦前・戦中の足取りを追う本書を読み、児童文化研究センターが管理している光吉文庫のかつての持ち主、光吉夏弥のことをもっと知りたくなりました。
光吉というと、もう一つ、忘れてはならないのが写真関連の仕事。本書を通じ、さらにその重要さを考えずにはいられませんでした。光吉は戦後、「岩波の子どもの本」シリーズを終えて、「世界写真全集」全7巻(1956-1959)、「世界写真家シリーズ」全14冊(1957-1958)、「世界写真年鑑」(1958-1974)の刊行に携わっています。写真関連のこれらの仕事の背景には、国際観光局勤務時代に培った人脈や経験があることがうかがい知れます。
光吉が働き始めた26歳から敗戦を迎えた41歳までは、誰もが様々な形で変節を余儀なくされた時代でしたが、どの時代の光吉も、過去の自分を捨てずに保ち続けていたのではないか・・・そんな気がします。
【書誌情報】
澤田精一『光吉夏弥 戦後絵本の源流』岩波書店、2021年
今回も引き続き、寄り道しよう。レオ・レオーニがオランダで受けた教育(モンテッソーリ、フレーベル、ルソーといった人々の思想が取り入れられていたという)が興味深いのだけれど、「オランダ」「教育」というキーワードからは、私は他のどの思想家や教育者よりも、まず、コメニウス(1592-1670)の名を思い浮かべてしまった。レオーニが小学生の頃を過ごしたオランダは、コメニウスがヨーロッパの各地を亡命した後、亡くなるまでの日々を過ごした土地だ。
チェコの小説家・劇作家のカレル・チャペック(1890-1938)が旅行記『オランダ絵図』(1932)の「ナールデン」の章を、次のように書き始めている。
自らを囲む古い城壁の中にまどろむ、このきれいな由緒ある小さな町を不当に扱うことを望んでいるわけではないが、ここに旅行客がやって来るとしたら、他の何よりもまず、わがチェコスロヴァキアの偉人コメンスキーの墓と記念館を訪れるものとわたしは思う。
カレル・チャペック『オランダ絵図』カレル・チャペック旅行記コレクション、飯島周訳、ちくま文庫、2010年、p.132
私たちがよく知る「コメニウス」はラテン語名。チャペックはこの同郷の偉人(国名は時期によって変遷しているが)を、敬意と祖国愛を込めて「コメンスキー」と呼んでいる。
『世界図絵』(『可感界図示』Orbis sensualium Pictus 1658年)は、絵入りの教科書。『世界図絵』を作成したコメニウスは「教育の過程に視覚に訴える教材を導入し、知識を子どもの感覚に訴えることによって習得させる直観教授法を創始した教育家」(乙訓稔『西洋近代幼児教育思想史』東信堂、2005年 p.15)と位置づけられている。コメニウスはルソーやモンテッソーリ、フレーベルの思想の源流でもあるようだが、『世界図絵』もまた、子ども向けの書籍に見られるイラストレーションの、源流の一つと考えることができる。
レオーニの『スイミー』(1963年)が日本の国語教科書に採用されてからもう40年以上経つが、教科書的な正しさと美しいヴィジュアルとが融合したあの作品も、その源をずっとずっと遡って行ったなら、やっぱりコメニウスに行き着くのかなぁ…そんなことを考えた。
【書誌情報】
l カレル・チャペック『オランダ絵図』カレル・チャペック旅行記コレクション、飯島周訳、ちくま文庫、2010年
l 乙訓稔『西洋近代幼児教育思想史』東信堂、2005年
遠藤知恵子(センター助手)
今回はちょっと寄り道。ムナーリの『芸術としてのデザイン』(小山清男訳、ダヴィッド社、1973年)に、「わが幼き日の機械(一九二四)」というエッセイが収録されている。このエッセイに書かれた内容によって、前回読んだ年譜の記述に何かを付け加えることはできないのだが、大人になってからムナーリが自分の少年期をどんなふうに振り返っていたか、見てみよう。
ムナーリが6歳頃から17歳頃まで過ごしたバディア・ポレジネの北部には、アディジュ川が流れている。「わが幼き日の機械(一九二四)」の「機械」とは、この川のほとりで見た「木造の水車小屋」(p.251)のことだ。
水と長い年月に洗われて古ぼけてはいるが、現役の水車として小麦を挽いている、そんな素敵な「機械」について、ムナーリはこんなふうに書いている。
その機械全体は古びた材木でできており、その時にはもうすっかりねずみ色になっていて、柔らかいところは風化して削られ、木目の堅いところがつき出ていた。水車の鉄の芯棒と、ひき臼の石だけが、摩擦で絶えずみがかれて光っていた。小屋の中はほの暗く、その中に小麦の粉砕器の翼や、人間の体ほどもいっぱいに詰った袋があった。(p.252)
いかにも無愛想な、実用のために作られたこの水車だが、ムナーリは上記の文章に続けて、「その機械はきいきいときしみ、うめき、つぶやき、水車の回るにつれて、時間のリズムにのることができた」(同上)と書いている。「時間のリズムにのることができた」という言葉からは、この水車が、回転運動や軋みの音を通じて時間という観念を発見させてくれるような、特別な意味のある「機械」だったのだ、と想像することができる(“時間という観念”などと言うとちょっと大袈裟かもしれないけれど、私たちは誰も、時間そのものを感じることはできない。「時間のリズムにのること」は、時間という観念を感得する経験の一つだし、そんなふうにして時間の観念と出会う瞬間は、やっぱり特別だ)。
水車は周囲の環境と結びつき、その中で、それ自身の仕事をしている。
時折りは粉や雑草、水や土、それに朽木や苔の匂いが鼻についたものである。そしてどうかするとこの大きな水車は、植物といっしょに、鳥の羽や紙きれや木の葉をすくい上げ、そのまばゆい構成に変化を与えるのだった。(pp.252-253)
水車の軋みと水の音に包まれ、時々鼻先をかすめる土や草や水の匂いを感じながら、雑草や水草、たまに流れてくる木の葉、鳥の羽、紙切れなどを掬い上げて回るさまを眺めている。決して純粋に働くだけの機械ではなく、さまざまな不純物を含んだ、豊かな「機械」である。
【書誌情報】
ブルーノ・ムナーリ『芸術としてのデザイン』小山清男訳、ダヴィッド社、1973年
(資料を読んでの感想)「わが幼き日の機械(一九二四)」を収録した『芸術としてのデザイン』の原題はArte come metiere(『職業としての芸術』1966年)である。「職業としての芸術」という原題は、考えさせるタイトルだと思う。例えば、“芸術とは、私たちが生きているこの世界のどのような場に存在しうるものなのだろうか?” あるいはまた、“芸術は、どのようなもの(事)に対してどんな働きをなしうるものなのだろうか?” など。
「わが幼き日の機械(一九二四)」における「機械」、すなわち水車小屋は、小麦を挽くという役割を果たすことにより、この世界に自分のあるべき位置を得、さらに、自分自身の姿(「摩擦で絶えずみがかれて光っていた」)を作り上げている。この水車小屋の描写を通じて、(人間社会と自然環境の両方を含み込んだ広い意味での)環境との関わり合いの中で自分自身を生成していく、そんな幸福な芸術家のイメージを見たような気がする。
遠藤知恵子(センター助手)
センター入り口で、センター蔵書(Z本)のミニ展示を行っております。展示している図書は神宮先生の児童文学作品の翻訳書(共訳も含む)です。こちらの図書は展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。
『めいたんていネート きえた
草の なぞ』
マージョリー・ワインマン・シャーマット 作 マーク・シマント
絵
神宮輝夫 訳 大日本図書 2002年
『めいたんていネート だいじな
はこを とりかえせ』
マージョリー・ワインマン・シャーマット 作 マーク・シマント絵
神宮輝夫 訳 大日本図書 2002年
『めいたんていネート ねむい
ねむい じけん』
マージョリー・ワインマン・シャーマット ロザリンド・ワインマン
作
マーク・シマント 絵 神宮輝夫・澤田澄江 訳 大日本図書 2002年
『めいたんていネート いそがしい
クリスマス』
マージョリー・ワインマン・シャーマット グレイグ・シャーマット
作
マーク・シマント 絵 神宮輝夫・内藤貴子 訳 大日本図書 2002年
『めいたんていネート ペット・コンテストは
大さわぎ』
マージョリー・ワインマン・シャーマット 作 マーク・シマント
絵
神宮輝夫 訳 大日本図書 2002年
『めいたんていネート 2るいベースが ぬすまれた?!』
マージョリー・ワインマン・シャーマット 作 マーク・シマント
絵
昨夜の地震(10月7日22時41分)は最大震度5強と大きかったですが、センター構成員の皆様のお住まいの地域はいかがでしたでしょうか。
児童文化研究センターはおかげさまでこれといった被害も見当たらず、感染対策をしつつ、通常通り開室しております。
交通機関の乱れなどもあり、落ち着かない朝を過ごされた方もいらっしゃることと存じます。皆様のご無事とご健康を心よりお祈りしております。
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昨夜の地震を受けて、肩掛け鞄の中身を確認した熊沢健児。 災害に備え、日頃から水と羊羹(非常食)を持ち歩くことを決意。 |
P.S. 院生の皆さんは、ALSOKの安否確認メールが届いているかどうか、チェックしておきましょう。この週末は、非常時の避難先や連絡先、また、鞄の中身と食料品のストックなども確認してみませんか?
ここからは、「ブルーノ・ムナーリ」展(2018-2019年)と、「だれも知らないレオ・レオーニ」展(2020年)の、二つの展覧会図録の年譜を順に読んでいきたい。それぞれ異なる場所とタイミングで作られた年譜なので記述内容も少しずつ異なるのだが、そうした違いもありのままに読み、思ったことを記していこう。
ムナーリは1907年10月24日、イタリアのミラノで生まれた。レオーニはそれから3年後の1910年5月5日、オランダのアムステルダムで生まれた。二人とも、生まれたときは都会っ子だった。
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」(『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp. 342-357)によると、ムナーリは1913年に両親とともにヴェネト州バディア・ポレジネに移住している。ムナーリが6歳頃までを過ごしたミラノとは違い、静かなこの町でムナーリの両親はホテル経営をしていたという。そのホテルというのは、「エステ公爵家の旧邸のひとつ、パラッツォ・グラデニゴを改装したホテル」(p.342)だったそうだ。いま私の手元にある電子辞書の『ブリタニカ国際大百科事典』で「エステ家」を引いてみると、中世から近代まで中部イタリアのフェララ、モデナ、レッジョエミリアなどの地域を支配していた家系だった、ということがわかる。モデナ公国という国を領有していたが、1860年にサルジニア王国に併合され、エステ家による支配が終わったそうだ。サルジニア王国はリソルジメント運動(イタリア統一運動)の中心地であり、第二次イタリア独立戦争を経て、1861年にイタリア王国に転換した。イタリアには、古代の遺産を引き継いだ古い国というイメージがあるけれど、国家としては若いのだ。
ムナーリは、1925年(1926年という説もある)に両親から離れて1人でミラノに戻るまで、バディア・ポレジネで過ごした。
一方のレオーニだが、「レオ・レオーニ 年譜」(『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp. 216-219 執筆担当者の表示なし)によると、レオーニの父ルイス・レオーニはスペイン系ユダヤ人セファルディムにルーツを持ち、ダイヤモンドの研磨工を経て会計士となった人である。なんでも、「オランダのユダヤ人はダイヤモンド産業の中心的存在だった」
(p.216)のだそうだ。母エリーザベト・グロソウはオペラ歌手である。芸術を愛する大人が身近にいる環境だったようで、レオーニは「建築家の叔父ピート」からは絵の手ほどきをうけている。また、年譜には「大叔父のヴィレムは前衛芸術の収集家で、そのコレクションのうち数枚」がレオーニの家に置かれたとあり、少年レオーニのお気に入りは、「シャガールの油画」だったという(同上)。
また、後に見る通り、レオーニの年譜は引っ越しに関する記述が多い。1922年、両親がアメリカに移住し、レオーニはブリュッセルに移住した父方の継祖父と祖母の元に預けられている。また、その時期、「母方の叔母ミースの夫ルネがコレクションしたエルンストなど同時代の画家の作品に触れ、大きな影響を受け」たとのことだ(同上)。
1915年にレオーニが入学した当時のオランダの小学校教育は、「モンテッソーリ、フレーベル、ルソーなどの思想が取り入れられ、芸術や自然観察が重視された」(同上)とあり、自宅では小さな生き物を飼ったりテラリウムを作ったりしていたというのが面白い。「のちに自宅近くの国立美術館でデッサンをする許可を得る」(同上)ともあり、家でも、家の外でも、動植物と芸術作品が身近にある少年期を過ごしていたことが分かる。1924年、アメリカのフィラデルフィアにいる両親の元へ。ここでウィリアム・ペン・チャーター中学校に通うことになるが、翌年には父の転勤のためイタリアのジェノヴァに一家で移住する。この頃に漫画を書き始め、油彩画を描き始めたのもこの頃だという。「生涯の友となるイーゼルを購入」(同上)したのもやはり、1925年に移住したジェノヴァだった。
レオーニは15歳までにオランダ、ベルギー、アメリカ、イタリアの4か国に暮らし、それぞれの国の言語を身につける。ムナーリも引っ越しはしているものの、あくまでもイタリア国内での移動だったことを考えると、既に二人の違いが見えてきたようで、ちょっと面白いと思った。
【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp. 342-357
「レオ・レオーニ 年譜」森泉文美・松岡希代子著『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp. 216-219 ※執筆担当者の表示なし
遠藤知恵子(センター助手)