2020年2月28日金曜日

【書評】パム・ムニョス・ライアン作、ピーター・シス絵、原田勝訳『夢見る人』岩波書店、2019年

 『夢見る人』は、チリの詩人パブロ・ネルーダ(1904-1973)の子ども時代を描いたお話です。といっても、伝記や自伝とは少しちがいます。原作者パム・ムニョス・ライアンがそこから着想を得た創作で、シンプルでありながら詩情ゆたかな文章が魅力です。
 ページをめくると、深緑のインクで印刷された、凝った書体の目次がまず目を引きます。「雨」「風」「泥」「森」「木」「松かさ」「川」「海」「潟湖」「恋」「情熱」「炎」。(「松かさ」が気になるでしょう?)
 作者あとがきによると、ネルーダにとって「緑はエスペランサ――希望――の色」で、彼自身も緑色のインクを愛用していたそうです。幻想的なピーター・シスの挿絵も相まって、美しい造本にも好感がもてます。
 各エピソードがゆるやかにつながりながら、「内気な少年が詩人になるまで」の過程を描きだしますが、ひとつひとつのエピソードがじつにすてきで、子どものころのネルーダがどんなふうに世界を見て感じていたのか、読者はじゅうぶんに味わうことができます。

 読書と空想好きな少年のネフタリ(ネルーダの本名)は病弱で、「何年も貧しい労働者暮らし」をしてきた父親から事あるごとに、ぼんやりするな、男らしくなれ、文学では食べてゆけないぞ、などと脅されながら暮らしています。本書の父と子の親子関係は、社会のあらゆる権力構造の縮図といえるかもしれません。ネフタリはどうして、自己完結の殻に閉じこもることなく、詩人として物書きとして、苦しむ隣人の代弁者として、高く羽ばたくことができたのでしょうか。

 音楽の道をあきらめるしかなかった兄の助言があったから? 陰で支えてくれる継母や妹がいたから? ジャーナリストのおじさんに導かれたから? 大自然に育まれた感性に助けられたから? 読書で培われた思考力と想像力があったから?……ネフタリはやがて、父の抑圧から逃れる方法を見つけます。それは、「パブロ・ネルーダ」という筆名で書くこと、すなわち、〈変身〉による詩人の誕生でした。そのシーンには、卵から羽が生えた挿絵とともに、ある問いも添えられています。「変身は外から内にむかって/始まるのか?/それとも、内から外へ?」(249頁)

ネフタリは大都会に埋もれ、だれにもとがめられることなく、ふりつづく雨のように休むことなく書いた。詩は自ら道を示し、ネフタリはその道をたどらずにはいられなかったのだ。どんな境遇でも書きつづけた。独房ほどの広さしかない部屋に住んでいる時も、金がなくて食べていくのがやっとの時も、あまりの寒さに、お父さんのマントとママードレのショールがありがたい時も。友だちがいなくて気持ちが沈んでいる時も、心傷つき、あるいは人の心を傷つけた時も、大学当局や政府の方針に賛成できない時も。/ネフタリは書いた。(253頁)

 巻末には、ネルーダの詩の抜粋が何篇か収録されています。ネルーダは自身のことをこう表現しています。「わたしはパブロ鳥、羽根一本だけの鳥。(中略)わたしは嵐の静けさの中にいる/怒れる鳥。」
ネフタリの夢見る力は、のちに「自分では声をあげられない人にかわって声をあげる決意」へと変わり、緑色のインクのついた羽根ペンから生まれた詩は、市井の人びとの希望となったのです。

この書評は、2020年春に開催された書評コンクールの応募作品です(書評番号4)

【書評】町田そのこ『ぎょらん』新潮社、2018年

大切な人が残した最期の思い


 タイトルの「ぎょらん」とは、イクラに似て非なるものを指す。人が死ぬ瞬間に強く願ったことが、小さな赤い珠となってこの世に残る。それが「ぎょらん」。その珠を口にしてぷちんと噛みつぶすと、死者の願いがまざまざと蘇り、共有できるという。作中に登場する「幻の短編漫画」に描かれ、実在するとされる珠。一方、葬儀屋の間では、同じものが「みやげだま」と呼ばれている。心を砕いて葬儀を執り行ってくれた葬儀屋に死者が贈る礼の宝とされており、都市伝説のような存在だ。本作品は、この珠に関わる人々を描いた短編連作である。
 六つの短編は、それぞれ異なる女性の一人称で語られている。彼女たちほぼ全員に共通するのが、大切な人を不慮の事故や病により失った、あるいは失いかけているということ。だが、全編を通して読んでいるうちに浮かび上がってくるのは、脇役だったはずの青年の物語である。大学一年生の夏に、自殺した親友のぎょらんを口にし、それゆえに苦しみ続けている、三十代の青年。大学を中退し、十年以上引きこもり生活を続けた彼は、ぎょらんに何らかの縁をもつ人との出会いや関わりを通じて、少しずつ変化していく。そして、ぎょらんとは本当は何なのか、その正体を探ろうとするのだ。
 ぎょらんに込められているのは、愛情や感謝など、美しい思いばかりではない。嫉妬、憎悪、軽蔑、怒り。登場人物の抱えている思いもまた、重く、苦しい。人を死に追いやってしまったという自責の念、後悔、生きていることへの罪悪感。それにもかかわらず、読後感はふわりとしており、切ないのに人のぬくもりに満ちている。そう感じるのは、決して癒えない傷や濁った感情を抱えている人が見せる優しさ、誰かを思いやる気持ちが、丁寧に描かれているからだろうか。
心の奥にどんなものを抱えていようと、人は誰かを救い、救われることができる。大切なのは、人と関わって生きるということ。大切な人を亡くして絶望の淵にいる人間にそっと寄り添い、再び立ち上がらせてくれるのは、いつだって生きている人間なのだから。読み終えたとき、人のもつ温かさにほっとしている自分に気づく。そして、ふと考えるのだ。自分はどんなぎょらんを残すのだろうかと。出会えてよかった。しみじみとそう思える作品である。

この書評は、2020年春に開催した書評コンクールの応募作品です(書評番号5)

【書評】向山貴彦著・宮山香里絵『童話物語(上) 大きなお話の始まり』、幻冬舎文庫、平成13年7月 向山貴彦著・宮山香里絵『童話物語(下) 大きなお話の終わり』、幻冬舎文庫、平成13年7月

 このお話に出てきた、この料理をどうしても食べてみたい。
 本を読んでいて、そんな風に思ったことがある人は多いのではないだろうか。
 わたしの場合、その料理はオムレツだった。

 オムレツが出てきたのは、向山貴彦による小説『童話物語』だ。『ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本』で注目を集めた著者のデビュー作で、クローシャという架空の世界を舞台にしたハイ・ファンタジーである。
 主人公は十三歳の少女ペチカ。裏表紙のあらすじで「極めて性格の悪い」と称されるように、何に対しても攻撃的。暖を取ろうと寄ってきた子猫を蹴飛ばして追い払い、その死体を家の前で見つけても「あんなとこで死ぬなんて迷惑」と言い放つ。しかし、ペチカを取り巻く環境も過酷だ。父親はおらず、母親も幼い頃に亡くなって、天涯孤独の彼女は町の教会で働いているのだが、雇い主の女性からは暴力を振るわれ、同世代の子ども達からも陰湿な苛めを受けている。
 そんな目を背けたくなるようなペチカの世界に、ある日善良で優しい妖精フィツが現れる。クローシャにおける妖精は初めて会った人間としかコミュニケーションを取ることができず、また、その人間を観察する役割を与えられているので、フィツはペチカのそばを離れることはできない。しかし、人間は妖精のことを疫病を撒き散らす化物だと思っており、ペチカはフィツを手酷く拒絶し、その誤解が解けても厄介者として冷たくあしらう。事実、フィツの存在が原因で、ペチカは故郷から逃げ出す羽目になる。
 辛い状況の中で、ペチカの心の拠り所となっているのは優しかった母の思い出だ。特に、大好物のオムレツを作ってもらった記憶は格別で、夢に見て「食べたいよ」と涙を流すペチカの姿には心が痛む。
 故郷から逃げたペチカは大きな町へ辿り着く。街中のレストランでオムレツを食べている客を見て、どうにかオムレツにありつこうと苦心するが、そのために窮地に陥ってしまう。そんな彼女を助けたのは、旅をしていた盲目の老婆だった。ペチカは最初、老婆を人買いか人食いだと考えて警戒するが、親切な老婆は見返りなしにペチカを助け、うなされているのを聞いてオムレツを作ってくれる。貧しく、色彩の乏しい景色の中で、卵の黄色が鮮やかに光る場面だ。ペチカは喜び、オムレツを独り占めしようとするが、老婆の計らいでフィツもオムレツを食べることができた。
 空腹も心も満たされた二人は、ようやく心を通わせ始める。ペチカにとって、オムレツは母との思い出の味というだけでなく、他者から受けた優しさの象徴となったのだ。
 卵料理からはじまったペチカとフィツの道行きを、ぜひ見届けてほしい。

 ちなみに、わたしは小さい頃卵アレルギーで、成長して耐性がついてから、やっと憧れのオムレツにありつけたのだが、感想としては「なんかちがう」だった。
 それでも、この本の中のオムレツは今読み返してもとびきり美味しそうなのである。

この書評は、2020年春に開催された書評コンクールの応募作品です(書評番号6)

【書評】中井正一『美学入門』中央公論新社(中公文庫)、2010年

私、この本は「ジャケ買い」しちゃったのにゃ。カバーの絵がとっても可愛い卵なのにゃよ。大きさはうずらの卵より少し大きいくらいかにゃ? 淡い鶯色と、やや緑がかった優しい黄色の卵が2個、柔らかにくすんだ黄緑を背景に、ぽこぽこと描かれているのにゃ。1850年代イギリスの『鳥の卵と巣の図鑑』にあった絵なのにゃって。
この本は卵の本ではなく、美学の手ほどきをしてくれる入門書にゃけど、そこはかとない卵っぽさがあるところが魅力なのにゃ。
例えばだにゃ、このツェッペリンのエピソード。

あのツェッペリンの飛行船が、ドイツから東京の上空に来る時、シベリヤの空で七時間ほど全世界から消息を絶ったことがある。シベリヤの空であのツェッペリンの船体の表面に氷が張って来たのである。そしてその重さのために、だんだん高度が落ちて来たのである。そして、刻々と絶望的条件に陥って行ったのである。[略]しかしやがて破綻の寸前、地殻のかなたから、太陽がその船体に光を投げかけはじめた。そして重い氷はその船体から一塊り、一塊りと落ちはじめたのである。
   ツェッペリンは一メートル、一メートルとその高度を上げ出したのである。 
pp.59-60

著者の中井さんは、ラジオや新聞のニュースで接したツェッペリンのエピソードを近代的な新しい美の一つとして例示しているのにゃね。飛行機から重たい氷が落ちていく音を想像しながら、「自分の心の中の滞っているもの、古いものが、落ちていく音を、今、聞いた思いをしたのである」(同上)と書いているのにゃ。でも、機体を覆っていた氷が剥がれ落ちていくだにゃんて、ゆで卵の殻をむくみたいで楽しいのにゃ~。
中井さんがここに説いている美とは、自分の心を重たく滞らせるものが抜け落ちて、新しく生まれ変わったようになることなのにゃね。それは、太陽の光が差すように、外から訪れるものとの出会いによって自分が変わることなのにゃ。余分なものを全部振り落として、本当の自分になるのにゃよ。中井さんは「自由」(p.56)という言葉でも言い表していたのにゃ。自由で、しかも新しい自分へと再生するときが、美と出会う瞬間なのにゃね。はにゃ~、ドラマチックにゃ~。
たっぷりと具体例を提示しながら、美とはどんなものかを説明したあとは、いよいよ美の歴史のお話が始まるのにゃよ。歴史と言っても、出来事や時代ごとの作品の羅列ではないのにゃ。時代ごとの美のモメントを、易しい言葉で深く掘り下げてくれるのにゃ。
これは、熊沢君にも教えてあげたいのにゃ!

この書評は、2020年春に開催された書評コンクールの応募作品です(書評番号1)

【書評】ゴンブリッチ、エルンスト・ハインリヒ『美術の物語』天野衛・大西廣・奥野皐・桐山宣雄・長谷川摂子・長谷川宏・林道郎・宮腰直人/訳、ファイドン、2007年

 若い読者に向けて、物語のように美術の歴史を語りかける本である。先史時代から現代までの視覚芸術が連綿と続けてきた変化を、簡潔な言葉で的確に述べる。
688ページもある大著なのだが、この本の充実ぶりを見ていると、分量の多さには納得がいく。話に出てきた作品の図版は必ず載っているし(時々、必要な図版をすべて掲載せず言葉による説明で済ませる美術の本があるが、あれはすごくイライラする)、地図も年表もついていて、行き届いている。説明と図版が近くにくるよう、レイアウトにだって工夫がある(人によるのかもしれないが、初めて美術を学ぶ者にとって、図版と説明文とを交互に見比べながら本を読み進めるというのは実は結構な手間なのだ)。この本は初学者にとっての意外な障壁をできる限り取り除き、読者が「美術の物語」に浸り切れるよう、あらかじめ準備して待ってくれているのだ。ここまでお膳立てしてもらったなら、読まないわけにはいかないだろう。
 そんな面倒見の良い著者、ゴンブリッチは、「これこそが美術だというものが存在するわけではない」と言い切る。作品を作る人たちがいて、彼らがそれぞれに生きた時代における必然を表現し、試行錯誤の末に、「これで決まり」と思える完成品を作り出す。そうした作品づくりの積み重ねがあるだけなのだ。ゴンブリッチの物語をたどっていると、作品を作った人が何をしようとしたのか、その人の時代でどのようなことを成し遂げたのか、手に取るように理解することができる…とは言わないまでも、まるでその時代に居合わせたかのような、わくわくした気持ちにしてもらえる。この本が、読者を美術という未知の領域(美術館のおかげで美術はだいぶ身近だが、実のところ、やはり未知の領域のままである)へと誘ってくれる、夢の卵であることは間違いない。
 ところで、ゴンブリッチの『美術の物語』に「これで決まり」はなかったようだ。1950年の初版以降、1966年の第11版で追記が加わり、1971年第12版、1977年第13版、1984年第14版、1989年第15版、1994年第16版と、改訂の折には新しく序文が付け加えられている。丁寧に改訂を重ねることで、本はその度に生命を新たにする。
一回書いたら終わりとはならず、初版から半世紀以上が経過し、著者が亡くなるまで変化を止めなかったこの物語は、長い生命を保ってきた。35か国語に翻訳され、世界中の人たちと同じ教養を身につけられるのも、この本の魅力だろう。

この書評は、2020年春に開催した書評コンクールの応募作品です(書評番号2)

【書評】武井武雄『童話集 お話の卵』目代書房、1923年

瀟洒な本である。作者は童画家の武井武雄。当時29歳だった武井による、第一童話集である。柔らかな輪郭線で描かれた外箱の絵は、ユーモラスでありながら繊細だ。図案化した花のような丸い形の中心部に、「童話集 お噺の卵」というタイトルが記され、一枚一枚の花びらにあたるところには、表題作「お噺の卵」の主人公である鶏の夫婦、お噺の木、それにお日様とお月様が配されている。その花の形は背景の黒い四角形に重ねられ、その四角い形には赤いふち飾りがついている。その様子はまるで、テーブルの上のランチョンマットに載った、お花型のお皿。不思議な親しみやすさだ。きっと、凝り性の武井が凝りに凝ってデザインしたのだろう。中身の本の表紙も、楽器の音で双葉を育てる鶏夫婦と、大きく育ったお噺の木とがダイヤの形に配されている。
愛らしく芽吹いたエメラルド色の双葉を、鶏の夫婦が大切に育てると、やがて双葉は育ってお噺の木になり、お噺の花が咲き、実る。しかしお噺の実を食べると鶏たちは卵を産めなくなり、「ショイショイ」と住処を追われる。放浪の途上で雌鶏はお噺の卵を産み、夫婦はこの卵を大切に温めながら旅を続ける――童話集の冒頭は、こんな物語で始まる。
収録作品はほかに、「蜂の貸間」、「ブウ太郎鍛冶屋」、「竹の着物」、「流れ星」、「小悪魔ピッピキの話」、「木魂の靴」、「陸軍大将」、「又取ったよう」、「天国」、「多衛門の影」、「立聞話」、「化けマンドリン」、「蜉蝣」、「不朽の花園」、「ムヘット・ムヘット」、「眼玉」。主人公は動物だったり、小悪魔だったり、人の身体の一部だったり。画家の武井が書いたのだから、さぞかし情景描写に凝った視覚的な物語なのだろう、と、思いきや、そうでもない。耳の悪い神様が主人公の願いを聞き間違えて叶えてしまう「小悪魔ピッピキの話」など、ほとんど駄洒落だ。命の儚さと造形芸術の永続性とを対比した「不朽の花園」も忘れ難いが、実のところ、武井の書いた物語には聴覚優位のものが存外に多いのだ。
人は見かけによらぬもの。ピリッとした諷刺をときに交えながら、軽みと余韻を楽しませてくれる1冊である。
ちょっと遠方になるが、大阪府立中央図書館国際児童文学館(東大阪市)に行くと、本を手に取って見ることができる。外観は変わってしまうが、関東地方では表紙は異なるが中身の物語は同じ1924年版を、神奈川近代文学館(横浜市)で読むことができる。より手近で、上笙一郎さんの解説もついているのは1976年講談社文庫版。絶版ではあるが、大きな公共図書館に所蔵があったり、古本屋さんで売られていたりする。白百合女子大学児童文化研究センターの冨田文庫にも、実は所蔵がある。

この書評は、2022年春に開催した書評コンクールの応募作品です(書評番号3)