1950年
この年、レオーニはコネチカット州のグレニッチ(都市の名称、原文ママ。ニューヨークから見て北東に位置するGreenwichのことだろうか)に引っ越しをする。この年に「想像肖像」というシリーズを始めたとある。「想像肖像」シリーズの作品は、1963年の個展で展示されることになる。図録のキャプションには、「このシリーズは記憶の中にある顔とその正面性を追求したもの」(p.115)という説明がある。眼差しの強さは描かれた顔によってまちまちだが、静かに見つめていると、絵の人物から見つめ返されるような厳粛な感覚がある。
また、1950年の項目には「ニューヨークに移ってからは、ボブ・オズボーン夫妻やアレクサンダー・カルダー夫妻と交流を深め」たとある。1年のうちに2度も引っ越しをしたのだろうか。作品制作や人的交流もさることながら、その引っ越しの多さに驚いてしまう。
一方、ムナーリは1948年に設立に加わった具体芸術運動に関連する作品制作を続けており、1950年には「読めない本」シリーズと「陰と陽」シリーズの個展をそれぞれ開催。また、第28回ミラノ国際見本市のモッタ社のパビリオンのために設計を……ん? モッタ? え? モッタ? あのMotta?
思わず何度も読み返してしまったのだが、それというのも同じ製菓会社で、レオーニが働いていたことがあったからだ。1934年に就職した製菓会社モッタ社の広告宣伝部門で、レオーニは「モッタレッロ」というキャラクターをデザインしていた。まさか1950年のところでモッタに再会するとは!
モッタ社は戦前、パネットーネ(イタリアで食べられるクリスマス用のケーキ)やコロンバ(やはりイタリアの、イースターのお菓子)で成功していた。年譜によると、ムナーリが設計したのは、モッタ社のパビリオンのため、高さ12メートルの《役に立たない機械》だったそうだ。
生活にワクワク感や潤いを与えてくれるお菓子を作る会社と《役に立たない機械》の組み合わせ、なんだかいいな…などと思いながら、レオーニが若い頃に手がけた広告の図版を再び眺めるのだった。
【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357
「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし