天使と植物の種は風にのって、おとうさんをこえてゆく
「みどりのおやゆび」で奇跡をつくりだす、少年チトのお話。「みどりのおやゆび」とは、園芸のすばらしい素質、かくされた才能のこと。庭師ムスターシュじいさんによれば、風によってあらゆるところへ運ばれた「何千、何億という、役にたたない種」でも、その指で触れれば「種はどこにいても、たちどころに花がさく」という。
チト一家の贅沢な暮らしと、ミルポワルの町の財政は、「兵器商人」であるおとうさんの仕事によって支えられている。父の工場を継いで、ミルポワルの支配者になることを期待されていたチトだが、学校教育がどうにも合わない。そこでおとうさんは決断する。「わたしたちは、新しい方法の教育をやってみよう。あれは《ほかの子どもとおなじではない》んだからな! ものごとはじっさいに観察しておぼえるものだということを、あの子におしえてやろう。小石や、庭や、畑のことをその場でおしえる。町や、工場が、どんなふうにはたらいているか説明する。こうしたことがすべて、チトが一人前のおとなになる助けになるわけだ。つまり人生とは、いちばんいい学校なのだ。論より証拠だよ」。
こうして自宅学習の課外授業がはじまる。チトが訪ねた先は、庭、刑務所、貧民街、病院、動物園、兵器工場。現状を見聞きするなかでわきだす疑問に対し、チトは「みどりのおやゆび」を使って自分にできることを考え、行動に移してゆく。たとえば、鉄格子、鉄条網、こわれかかったぼろ家、無機質な天井、檻、機関銃、大砲、戦車……に美しい花を咲かせることで、結果、人権を守り、貧困を救い、人びとに「生きるのぞみ」を与え、動物たちを解放し、戦争を阻止するのである。こうした奇跡をおこせるチトとは何者なのか。
『みどりのゆび』がおもしろいのは、植物と天使チトの存在が重ね合わされているところ。植物の種は風にのって垣根や国境をこえる。プネウマ(気息、霊)と同義である天使が「軽やかな翼によって」「教義の枠組み」をこえる存在ならば、チトもまた「古い考え」(規律)から自由であった。かみなりおじさん曰く「規律がなければ、町も、国も、社会も、風とおなじことで、長もちが」しない。つまり、チトは風とおなじで、夭折の象徴なのだ。本田和子の言葉を借りれば、「夭折の系譜」にあるチトは、「存在そのものが境界的で、この世でのありようは、吹き過ぎる風にも似てそこはかとなく、日常的な塵や汗と無縁である。その結果、子どもたちは、あらゆる掟や軛から自由となり、非日常への奉仕者、「聖なる存在」とされた」。聖性を背負わされた天使チトは、「ヤコブの梯子」さながら、「花のはしご」を自らのぼっていってしまう。そこには、三宅美千代がいうように「大人世界の秩序から自由である子どもに、いつまでもなくならない戦争の抑止力を見出そうとする大人たちの欲望」と「祈り」が託されている。一方で、「じぶんの子どもをとてもかわいがっているのに、ほかのひとの子どもたちをみなしごにするために、兵器をこしらえている」おとうさん(おとな)の矛盾と人間味を描いているところも、この作品のさらに深いところ。「いいひとで、しかも兵器商人」。あるあるです。
最後に、チトのよき友である子馬のジムナスティクの言葉を紹介しておこう。「花をいくらさかせても、消すことのできない悪がひとつだけある、(中略)つまり死さ」。「だから、おたがいに傷つけあうなんてほんとうにばかだよ。しじゅう人間がやっていることだけれどね」。
参考文献
岡田温司『天使とは何か』中公新書、2016年
本田和子『異文化としての子ども』ちくま学芸文庫、1992年(引用箇所は144頁)
三宅美千代「3 大冒険(子どもと戦争)」、和田忠彦編「〈子ども〉の文学75選 テーマ別」『國文學:解釈と教材の研究』學燈社、2008年8月(引用箇所は110頁)
この書評が紹介している作品
モーリス・ドリュオン作、ジャクリーヌ・デュエーム絵『みどりのゆび』安東次男訳、岩波書店、2009年(愛蔵版)
この書評は2019年に開催された書評コンクールの応募作品です(書評番号4)