2024年2月15日木曜日

ムナーリとレオーニ(32)

1949年①

 今回は、レオーニの年譜を読んでいく。

前年、大手広告代理店を退社し、フリーランスのデザイナーとなったレオーニは、CBS放送、オリヴェッティ・アメリカ支店などのポスターや広告を手がける。オリヴェッティはタイプライターなどの製造販売をする企業である。1931年にムナーリがリッカルド・リカスとともにミラノで立ち上げた「ストゥディオRM」でも、オリヴェッティ社の仕事をしていたことが思い出される。

また、この年から1962年にかけて、レオーニはビジネス雑誌『Fortune』の社外アートディレクターを務める。『Fortune』での仕事について、この時期の解説「グラフィックデザイン:アメリカ時代」(p.38文章:森泉文美)には、「『Fortune』を約10年にわたってビジネスマンのための文化的な媒体に育て上げ」たとある。

Fortune』は、『TIME』や『LIFE』を発行するタイム社のヘンリー・ルースが19302月に創刊した。図録の解説「『Fortune』での仕事」(pp.55-56 文章:森泉)によると、「創刊当時に掲げていた目標は「美しい本づくりで『ビジネスに文学の形』を与えること」で、リサーチャー(主な担い手は大学を卒業した女性)と記者がユニットを組み、取材し、幅広い分野にわたる、内容の確かな記事を作っていた。写真やイラストレーションといった視覚的要素も重視され、それらが「ビジネスマンの事業をドラマティックに語るのに最適」と考えられていたのだそうだ。「ビジネスマンの事業をドラマティックに」と言われると、城山三郎の経済小説を思い浮かべてしまうけれど、あくまでもデザインの話である。

 「『Fortune』での仕事」によると、レオーニは19497月号からこの雑誌のアートディレクションを担当し、それから2年あまりが過ぎた19519月号から、編集方針の変更に従い、雑誌の構造を変えていった。フォントをより読みやすいものに変更し、余白を有効活用、広告と本文を分け、記事の流れをつくり、整えた。さまざまなアーティストを起用し、毎号変化に富んだ表紙が賛否両論を呼び、当時の美術学校の制作課題となることも多かったという。さらにレオーニは『Fortune』で表紙のデザインコンクールを企画し、19535月号でアメリカのデザイン学校を特集、コンクールで優勝したハロルド・Y・シルヴァーマン(当時、イェール大学芸術学部の学生)の作品を同号の表紙に採用した。

解説文から離れて年譜に戻ると、この年、レオーニはMoMA(ニューヨーク近代美術館)で開催された第28回アートディレクターズ・クラブ広告出版芸術賞に出品し、2つの賞を受賞している。この時期のレオーニの活躍ぶりに、眩暈がする思いである。

だが、『Fortune195312月号の年間購読贈呈用クリスマスカードの図版とキャプションを見ると、どんなに活躍していても、以前と変わらない部分もあるのかな?と思えてくる。蛇腹状に折りたたまれ、1面ごとに1文字ずつ、MERRYCHRISTMASが記されたカードの裏側には、1951年から53年までの表紙と、使用されなかった表紙案が12枚印刷されている。使用されなかった表紙案からは、レオーニがかつて勤めていたN.W.エイヤーで、社内限定で刊行されていたと推測されている没原稿集のことが思い起こされる。没原稿にはユーモアある言葉で、没になった理由が赤字で書き込まれていた。

大量の案のなかからたった一つが採用されるのがデザインの仕事というものなのだろうけれど、選ばれたものはその状況における「最適解」なのであって、没になったものが魅力に欠けているとは限らない。没原稿に対する人道的なふるまいは、フリーランスになってからも変わらなかったのではないか、そんなふうに想像してみると、少し嬉しくなってくるのである。

 

【書誌情報】

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357

「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし

 

遠藤知恵子(センター助手)