2021年5月26日水曜日

【本の紹介】

アーネスト・ハワード・シェパード『思い出のスケッチブック 『クマのプーさん』挿絵画家が描くヴィクトリア朝ロンドン』永島憲江訳、国書刊行会、2020

 



幸福な記憶

1879年生まれの著者アーネスト・ハワード・シェパードの、7歳から8歳の頃の思い出を記した本だ。ヴィクトリア朝ロンドンの上流階級の子ども期が活き活きと語られ、世紀末の屈託は、ここにはまだない。姉のエセル・兄のシリルと一緒に、アーネスト少年が大人たちに守られ、「子どもであること」を謳歌する姿がある。

本書に登場する印象的な場所や人、そして物を挙げていくときりがない。シェパードの過ごした場所――暮らすための家であり、シェパードたちきょうだいの遊び場でもあった「ケント・テラス十番の家」、ケンブリッジ対オックスフォードのボートレースのたびに揚がる旗の見えるパーク・ロード――、通り沿いに連なるお店や、街で働く人々、初等学校で雨の日だけ使わせてもらえた闘鶏のおもちゃ、潰して食べた菓子パン等々、読者はシェパードの巧みな挿絵に助けられながら、その時・その場所で起きたできごとや見聞きしたものごとを、話し言葉に近くまた的確な文体によって追体験することができる。

この本の翻訳者、永島憲江さんは、2012年に『ネズビット作品における衣服の役割 ファンタジー児童文学のひとつの研究法として』という論文で博士号を取得した。博士論文では、ファンタジー文学を読み解く手がかりとして、ネズビット作品に登場する子どもたちの衣服に注目し、論じている。衣服に関する規範はその時代・その地域の文化的・社会的状況の中で作り上げられていくものだが、ファンタジー児童文学の中でも、その物語世界に固有のルールに基づき、様々な役割を果たしているのだそうだ。

永島さんは論文中で、ネズビット作品における衣服のさまざまな役割を示している。タイム・トラベルの手段としての衣服。変装し、ごっこ遊びをする子どもの衣服。衣服は時に日常から子どもたちを解放し、時に子どもの自由な身体の動きを抑制する。さらに、子どもたちは衣服がもたらす快・不快によって自己の存在を確認することができる。

物語に登場する衣服はまた、それを着る子どもたちの身体そのものに働きかけ、変化させる。子どもたちはその衣服によって、透明人間や蟻、大理石になる。衣服は怪奇的幻想の源泉にもなるという。

瀬田貞二がネズビットの特質を「子どもの見方にかなう触覚的リアリズム」(183)と仮に呼んで論じていたことが思い出されるが、永島さんの論じた衣服は、瀬田の「触覚的リアリズム」よりももっと実感がこもっている。衣服は私たちが身にまとい、持ち運ぶ“空間”の最小単位だ。場面ごとに特有の空気を身体に一番近いところで決定づけるし、それ自体で、物語に対して役割を背負っている。小さいけれど最も基本的な要素である衣服が、作品のなかでいかに機能するか、永島さんの博士論文は教えてくれる。

そんなわけで、『思い出のスケッチブック』を読んでいる間も、博士論文で永島さんが追究された衣服に関する議論が思い起こされて楽しかった。

例えば、コットンのフロック(七分丈ほどの上着)について書かれた、この部分。

 

フロックの両肩にはチェックの蝶むすびリボンが、お腹のまわりにはチェックのサッシュがついていた。その下には小さなドロワーズ[ズボン型の下ばき]をはいていたが、小さい子の脚にはかなりきゅうくつだったし、ちくちくした。パーティーへ行くときは母さんがぼくの髪の毛をカール用アイロンでよくカールさせていた。(5

 

コットンのフロックについては、訳者あとがきで言及されている。普段は動きやすく着心地の良い服装をしていたアーネストたちだが、お出かけのときはよそゆきの服装ならではの窮屈さがあったようだ。シェパードの回想には折に触れて服装に関する言及があり、その場の空気を感じさせてくれる。安定して破れ目のない翻訳の文体にも助けられ、その時・その場所の空気が、この一冊の本に封じ込められているのである。

当時の様子を詳しく記憶し、語り、また挿絵によって示してくれる本書だが、そうして語られていることはどれも、時間の波に洗われて純化され、結晶化した思い出だ。浜辺に拾うガラス片のように、幸福な記憶が優しい光を放っている。大切に読みたい。

 

引用文献

瀬田貞二『児童文学論 ―瀬田貞二 子どもの本評論集―』上巻、福音館書店、2009

 

 

遠藤知恵子(センター助手)