昨年私は、「少女と血」をテーマに研究ノート※1を発表したが、これは私がそれを書くに至るまでの道のりの(裏)話である。
本が好きな自覚は幼い頃からあったが、自分が好きなのが“少女小説”であること、自分の興味が常に“少女”に向いていることには長らく気付かないままできた。自分が好きなものに名前がない状態。そもそも、自分の好んで読んでいるものに偏りがあることすらわかっていなかったのだ。言うなれば、視界いっぱいに花柄。フリルとレースとリボンが世界のすべて。『若草物語』と『赤毛のアン』と『アンネの日記』と『風と共に去りぬ』と江國香織と吉本ばななが好き。こういう読書歴の女性はたくさんいそうであるが、私はよくわからなかったのだ。書かれた国も時代も違うこれらの物語を何と呼んでいいのか。そして、前者の外国の作品と後者の日本の作家に繋がりがあるとは、到底思えなかった。
ようやく、自分の好きなのが児童文学の中でも特に“少女小説”であることをきちんと認識したのは、大学3年生の時である。(それ以前にも、小さなヒントには無数に巡り合っていたのであろうが、すべてのピースがきちんと嵌ったと感じたのはこの時である。)突然に、世界は秩序立ち、視界いっぱいの花柄はひいて見ると花柄のワンピースであることがわかった。また、同じような花柄のワンピースが他にもあり、水玉柄、チェック柄のワンピースもあることを私は知っていく。そんなふうに私の世界を広げてくれた本の中の一冊が、J・グリスウォルドの『家なき子の物語―アメリカ古典児童文学にみる子供の成長』※2である。また、これはもう少し先の話であるが、斎藤美奈子の『L文学完全読本』※3を読んで、いわゆる“少女小説”と江國香織や吉本ばななといった現代の日本の作家が繋がる。江國香織や吉本ばななは、裏地は花柄なのだと思う。大人ぶってみせて、その実裏地は“少女小説”そのものの花柄。だから、私は好きなのだ。
そして、私は『あしながおじさん』で卒論を書き、大学院へと進学する。だが、『あしながおじさん』を巡る探求は、あっさり挫折する。理由はたくさんあるのだが、おそらくこういうことなのだと思う。ものすごく大雑把に言うと、「あしながおじさんは、ジュディが大学を卒業してすぐ結婚しちゃうからダメだよね」という論調に負けたのだ。私には、それをひっくり返す何かを言えない気がした。また、“少女小説”を研究することで、『若草物語』のジョーほどに活発でも自立的でもない自分に絶えずダメだしをされている気分にもなっていた。自分の内向さは、むしろベスではないのか?あんなに心は清らかじゃないけど。じゃあ、死ぬしかないのか?ガーン!!!
そんな私が、逃げ出した先が“嶽本野ばらいう名の隣村”であった。嶽本野ばらの作品は、デビュー当時から好きで読んでいたものの、どこかで私の話ではないことは感じていた。また、ロリータ服をみることは可愛くて大好きだったが、実際に手にとってみると「これは私の着る服じゃない」という強烈な違和感があった。嶽本野ばらの作品は、“少女”の物語ではなく“乙女”の物語。その自分を問われない感覚がよかったのだ。と言うわけで、修士論文は、ロリータ服を着ない私のロリータ論となった。
そんな私が、“少女”とはじめてがっぷり四つで取り組んだのが、先に書いた「少女と血」である。白いワンピースの“少女”が血で汚されていく様を描きたかった。当初、私の頭の中にあったイメージは、恩田陸の『蛇行する川のほとり』の表紙の白いワンピースの“少女”たち。あるいは、90年代のCoccoの曲やPV、特に「Raining」のイメージであった。実際に書き始めてみると、当初のイメージとはだいぶ違うものになってしまったが、そこはご愛嬌ということで。ちなみに、第二弾は「破瓜の血」をテーマに、“少女”と家(制度)と性の重なり合いを書きたいと目論んでいるが、実現するかは不明である。
これからも私は、“少女”のまわりをぐるぐると回りながら、“少女小説”への愛と、ままならなかった自分の“少女時代”への憎しみに駆られて書き続けるつもりである。愛憎相半ば。それこそが“少女と血”。
(研究員、芝崎 こと恵)
※1 芝崎こと恵 「少女と血―現代少女小説における初潮・月経の描かれ方」『白百合女子大学児童文化研究センター研究論文集ⅩⅣ』 2011年
※2 J・グリスウォルド 『家なき子の物語―アメリカ古典児童文学にみる子供の成長』 阿吽社 1995年
※3 斎藤美奈子 『L文学完全読本』マガジンハウス 2002年