2011年6月1日水曜日

【書評】たつみや章『夜の神話』と原発問題――「蹴り」を入れるものとしての物語――

先日の東日本大震災と福島第一原発の事故を受けて
真っ先に思い出した一冊がある。
ここを見ている方にはご存知の方も多いかもしれない、
たつみや章の『夜の神話』(講談社、1993年)だ。
というのも、『夜の神話』は、「原子力発電所の事故」という問題に
まさに真っ向から取り組んだ児童文学作品だからである。


『夜の神話』の物語は、12歳のマサミチが、原発の技師である父を町に残し
母と二人で祖母の家に引っ越してきたところから始まる。
彼はある日、自転車でカエルを轢き殺したのにまったく反省しなかった罰として、
月の神である「ツクヨミさま」に「サトリまんじゅう」を食べさせられてしまう。
それはマサミチに自分勝手な「闇鬼(あんき)」の心に気付かせ、
生き物たちの声を聞き取る力を身につけさせるものだった。

そんなとき、父が、部下のスイッチョさんこと、須賀さんを連れて帰って来る。
腕利きの技術者であるスイッチョさんは
原子炉の暴走を防ぐために大量被曝したのだという。
マサミチは兄のように慕う彼を助けるべく、ツクヨミさまに助けを求める。
だが、それは叶わず、ふとしたことから月のうさぎと体を入れ替えられ、
ついには月に連れて行かれてしまう。

一方、老朽化した原発では、またもや大事故が起ころうとしていた。
ツクヨミさまたち神々はそれを知り、マサミチやスイッチョさんを連れて
月の舟「月弓丸」で現場に向かう。
人の技術は、神の力は、惨事を防ぐことができるのか。
また、放射能の青い炎に蝕まれたスイッチョさんの命は助かるのか――。


刊行から二十年弱。この物語が、今ほど身に迫って感じられることはないだろう。
先日、じっくりと読み直してみて、改めて驚いた。
それは単に、事故を止めようと奔走するスイッチョさんたちの会話に、
ウラン235、水蒸気爆発、メルトダウンといった
今や耳慣れた単語が現れてくるからというだけではない。
これだけ込み入った問題が込み入ったままに捉えられ、
しかも、読み手をぐいぐい引っ張っていくファンタジーとして
着実にまとめあげられているというその点において、である。

たつみやは、本作を含む「神さま三部作」において
常に巧みな構造を物語に張り巡らせてきた。
「主人公の父親を、その原子力発電所の技師に設定するあたりは、
現代社会が抱えた矛盾に対する著者の独特なスタンスが垣間見られる。
それは、前作でレジャーランド開発企業の御曹司を、
開発反対派と共闘させる設定に類似する。つまり、
敵を敵として対象化するという、一見判りやすい図式を廃して、
それを身内に取り込みながら解決の糸口を探ろうとする」(※注)というように、
たつみやはとことん注意深く、一枚岩の世界観を廃そうとする。

後半、緊迫する事故のシーンでは、
原発を止める止めないで争う父や所長たちの傍らで、
国つ神と天つ神とが、人間に手を貸す貸さないで睨みあう。
すなわち、人には人の数、神には神の数だけの立場があるのだ。
どれもひとしなみの重さをもって描かれる、人の理と、神の理。
それらが対立し絡み合う多元的なこの構造こそが、
物語の嘘らしさを退け、面白さを作り出しているのだろう。

しかし、そのような描き方を貫くだけでは、
われわれを取り巻くこの現実と同様、事態が膠着するばかりである。
そこで登場するのが、うさぎになったマサミチ少年だ。
「いいかげんにしてよっ!」彼は叫び、
畏れ多くもツクヨミさまの顔面にキックを浴びせかける。
「けんかしたけりゃどっかよそでやってよ!
じゃまっけだよ! ばっかみたいだ!」と。

どこか、胸のすくようなこの場面を見るとき、今のわれわれもまた、
このように言いたい、言われたいと思っていることに気付くのではないだろうか。
言うなればこの物語は、淡々と事実に沿った裏付けをし、
個々の立場に想像をめぐらし、ていねいに外堀を埋めてから、
いよいよというところで、われわれをスパンと正面から蹴り飛ばすのだ。

原発や原子力技術の在り方といったことは、
言うまでもなく、経済、政治、外交、はたまたその歴史など、
あらゆる分野を股にかけて考えられねばならない問題である。
その途方もなさがわかっていればいるほど、
人は、自分などに何ができようと感じ、口をつぐんでしまうだろう。
けれど、口をつぐんでいても始まらないし、
何も始まらなくて困るのは他ならぬわれわれ自身、とりわけ、
この世界をいずれ否応なく手渡されてしまう子どもたちである。

だから本作は、その絡まりを可能なかぎり解きほぐすと同時に、
堂々と「蹴り」を入れることによって、
すっぱりと余分な糸を断ち切ってもみせる。
そう、ここであえて、一歩進んで言ってみたい。
「児童文学だからこそできること」というのがあるとしたら、
まさにこういったことではないだろうか? と。

清水真砂子は、『夜の神話』が刊行されたのとほぼ同時期に、
『幸福の書き方』(JICC出版局、1992年)でこう述べている。
「今、大人の文学の世界で、「幸福」だとか「人間の生き方」なんて言ったら、
照れくさくて恥ずかしくて、
「ようまあ、そんなこと言えるわ」というようなものでしょう。
今の時代、そんなことは本当に野暮なことかもしれません。
しかし、その野暮さでしか子どもの本は勝負できないし、
その野暮さで勝負すればいいと、私は思っています。
「子どもの本」って、きっと野暮なんです(PP.66-67)」。

その意味でいえば、『夜の神話』もまた、きわめて野暮にはちがいない。
原発事故の収拾をつけるのに、月の神さまが手助けしてくれるとか、
さまざまな哀しみを経た主人公の少年が
それでも薪や木炭を使った「夢の発電所」を自由研究のテーマにして、
将来に希望を託すなんていう結末は。
しかし、現実は現実として捉える一方で、そういう物語を「良し」と考え
「確からしさ」を感じて暮らすことに、どんな不都合があるだろう。
むしろ、人を生かし、動かしている理由などしょせんは野暮なもので、
けれど野暮なほど、意外な底力を発揮するものなのではないのだろうか。

第一、マサミチの希望は、まんざら野暮な夢物語でもなくなってきたようである。
少し前、遅ればせながらも勉強しようと、
『原発と日本の未来』(吉岡斉、岩波ブックレット)という本に目を通してみた。
奇しくも震災直前の2011年2月に発行された本書には、
原子力技術の保持のため、国ぐるみで原発の利用を推し進めてきた
日本の歴史的・軍事的な事情と共に、
ここ二十年ほどの原発関連事業の実績が解説されている。
そこでは、実際のところ、原発は温暖化対策の切り札ともなりえていないし、
コスト的にもあまりに割が合わないので、いずれは自由主義経済の中で
淘汰されていくであろう、という判断が述べられていた。
それこそ、この聞きかじりだけでものを言う愚は承知だが、
あるいは、人の理が神の理に近づくときが――
人が人の利益を追求した結果、ぐるっと一回りして、
どうでも自然と共存できるエネルギーに向かわざるを得なくなるという状況が――、
もう、すぐ目の前まで来ているのかもしれない。

私自身のことを考えても、この物語をはじめて読んだ子どもの時分から、
もはや十数年の時が経った。
その間、社会人のはしくれとして企業の論理も垣間見たし、
いくつかは人の生や死にも出くわした。
そしてつい先日、私にかつてお年玉をくれていた親戚のお兄さんが、
原発の技師になり、福島で働いていることを知った。
それでもなお『夜の神話』の物語は、私にとって十分に確からしい。

そんなこの本が、今このときに思ったよりも目を向けられず、
一般の書店で手に取りにくい状況なのが、とても残念だと考えている。
反原発のデモに参加するような気分で、この本を読めと言いたいのではない。
ただ、ときに人の、ときに神さまの視点で、
静かにこれからのことを考え、動くために、
この本がもっと多くの大人や子どもに読まれることを祈っている。

(研究員、沢崎 友美)

※注:たつみやは1991年に『ぼくの・稲荷山戦記』で
講談社児童文学新人賞を受賞し、続く1993年に『夜の神話』、
1995年に『水の伝説』を発表した(いずれも講談社刊)。
これら三作のモチーフは、いずれも主人公の少年と神々とが
様々な困難を孕んだ現代の環境問題に向き合うというもので、
「神さま三部作」とも呼ばれている。
2006-2007年には、相次いで講談社文庫にも収められた。
引用は『夜の神話』文庫版の解説(野上暁、PP.323-324)で、
「前作」とは『ぼくの・稲荷山戦記』を指す。