1935年①
今回も、シンプルに年譜を読んでいきたい。
第二次世界大戦前のムナーリは、展覧会での作品発表も定期的に行なっていたけれど、年譜を読む限り、どちらかといえばグラフィック・デザインの仕事の方が目立つような気がする。
グラフィック・アートと広告の専門誌である『イル・リソルジメント・グラーフィコ』(ええと…これはきっと、Il Risorgimento Graficoだから、日本語に訳すと「グラフィック復興」という誌名だろうか)のコンクールに参加し、ムナーリの表紙デザイン案が2等になったという(p.344)。また、一緒にデザイン事務所を設立したリッカルド・リカスとともに表紙デザインを担当した、『ルッフィーチョ・モデルノ』誌(これは…L’Ufficio Moderno? というと、つまり…日本語だと「現代の事務所」? それとも「当世風のお仕事」? …イタリア語が分からないことが悔やまれる)の36巻5号に「R+M リカスとムナーリ」事務所の活動を紹介する記事「RM41698 列車が止まる前に扉を開けてはいけません」が掲載されたとのこと(同上)。コンクールは2等だったけれど、ムナーリは同僚のリカスとともに気鋭のデザイナーとして注目されていたのだろう。
この年、ムナーリはウィーン、ローマ、パリでそれぞれ開催された展覧会に参加している。いずれも未来派の一員としての参加である。
【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp. 342-357
遠藤知恵子(センター助手)