2022年1月19日水曜日

ムナーリとレオーニ(16)

反省会

 ムナーリとレオーニ、それぞれの回顧展で手に入れた図録を同時並行で読み、ブログにエッセイを書く…という取り組みを始めて、今回で16回目になる。ちょうど年も改まったことだし、今回は、これまでに書いたことを踏まえ、反省会をしたいと思う。

 

 ムナーリとレオーニが二人展をするとしたらどんなふうになるだろう。そんなことをふと思いつき、図録の年譜を読んで知ったことや考えたことを書く、このエッセイを始めた。始めてすぐに実感したことは、図録の年譜だけではまとまった文章を書くことができない、情報が足りない、ということだった。

 たとえばレオーニの本名。松岡希代子『レオ・レオーニ 希望の絵本をつくる人』(美術出版社、2013年)によると、「レオナルド・リオンニ(Leonard Lionni)」というそうだが(p.72)、図録ではこのことに触れていない。

また、情報が足りず推測に頼ってしまったことに関しても(おぉ、私は浅はかだった…!)と密かにため息をついたりもした。例えば、第10回目の記事で、レオーニが参加した1932年の未来派の作品展を取り上げた。具体的には、「レオ・レオーニ 年譜」から「サヴォーナで開催された未来派の作品展に油画6点を出品し、「飛行画家」として紹介されるが、未来派との考え方の違いを自覚する。」(森泉文美・松岡希代子『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020 p.216)という箇所を引用し、レオーニが未来派に感じた違和感を「政治的なもの」と推測したのだが、これは一面的な見方だったのかもしれない。

先の松岡氏の著書には、次のように記されている。

 

誘われたレオは、19328月にサヴォーナのギャラリー・ドゥランテでの未来派の展覧会に参加する。しかし、飛行機にも乗ったことのない自分の作品を「航空画家」とするマリネッティのレトリックがあまり肌に合わず、深入りすることなく、2年ほどで活動から離れていった。(pp.98-99

 

  ファシズムと縁の深い未来派に、レオーニが一個人として違和感を覚えたことは確かだろう。ただ、レオーニは表現者である。マリネッティは表現の内実を置き去りにして、一人のアーティストである「飛行画家」のレッテルを貼ったのである。その「レトリック」が肌に合わないと、レオーニは感じていた。このことは、レオーニの表現者としてのあり方を物語る、重要なエピソードだったはずだ。

 さらにもう一つ、1930年代前半にムナーリとレオーニが未来派の活動を通じて知り合っていたということも、同書には記されていた(p.99)。これも、図録を読んだだけでは分からなかったことだ。

 ひとつ(または複数)のテーマに基づいて展覧会は企画されるのだから、企画者側は、そのテーマをより鮮明に浮き上がらせるには、ある程度、情報をそぎ落とさなければならないのだろう。図録や、図録に収録されている年譜にも同じことが言えるはず。読む側である私がいろいろと補いながら読めば良いのではあるけれど、それが、けっこう大変なのである。

 

 …そんなわけで、資料を正確に読み解いていくのは大変なことだということを、改めて実感してしまったのだった。でも、それまで知らなかったことに触れられる嬉しさと比べたら、やはり嬉しさの方が、大変さよりずっと大きい。次回からまた1935年以降の年譜を読み進めていくのだけれど、こうしてときどき過去の記事を振り返る機会をもうけながら、続けていきたいと思う。


【書誌情報】

松岡希代子『レオ・レオーニ 希望の絵本をつくる人』美術出版社、2013

森泉文美・松岡希代子『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020


遠藤知恵子(センター助手)