横浜のみなとみらいには、海に面している象の鼻パークと呼ばれる公園がある。
僕はその公園に暮らしている村田だ。鳩である。
ただの鳩だと思ってもらっては困る。白と茶色と桃色の珍しい鳩だ。僕を見た女子高生の言葉を借りれば、「バニラアイス、チョコレートアイス、ストロベリーアイス」みたいな色合いの鳩なのだ。僕を見かけた人間は、彼らの手のひらサイズの硬い板を僕にかざして、なにやらカシャカシャという音を立て、ピカピカという光を発してくる。彼らが言うには、写真というものをとっているらしい。
他にも鳩がいるのだが、その中でも僕は、ダントツで人間に人気がある。
確かに、他の鳩も子どもたちに追いかけられたり、はたまた、ベンチに座っているおじいさんからパンくずをもらったりしている。でも、僕がその近くにやって来ると、もう人間たちは彼らに対する関心をなくしてしまう。そして僕の方に例の板をかざして、カシャカシャピカピカ写真をとったり、ベンチに座っているおじいさんはたくさん僕の方にパンくずを放ってくれる。子どもたちは「きれい、きれい」と言って僕を追いかけてくる。
僕は人気ものなのだ、人間には。
正直言って、僕は同じ鳩にはまったくモテない。同じ公園に暮らしている、同じく鳩の杉田くんには付き合っている彼女がいて、よく船につながっている鎖の上にとまってデートをしている。「村田くんも早く彼女を作ればいいのに」と先週杉田くんに言われた時、僕は思わず頭にきてしまった。あれから杉田くんとは口をきいていない。「杉田も悪気はなかったんだよ」と、赤いレンガの建物の側にある木に暮らしている、同じく鳩の藤田くんは言うが、そんなこと僕にはわかっている。でも、作ろうと思ってできるものなら、僕はもうとっくに彼女がいるはずなのだ。杉田くんはわかっていない。本当に無神経だ。
そんなことを思いながら、僕はトボトボ公園を歩いていた。最近は雨が降り通しで、公園は人がまばらだった。本当に退屈だ。でも晴れたら晴れたで、杉田くんと彼女がデートをしているところに鉢合わせたり、人間に絡まれたりして、煩わしいだけかもしれない。
僕がむしゃくしゃしながら。公園を歩いていると、ふと、あるベンチにポツリと人間の男が1人、座っているのが見えた。こんな雨の日に、何もかぶったりもせず、傘っていうものもささず、びしょ濡れのベンチに座っている。どうしたんだろう。僕は鳩だから、雨が降ろうが、傘なんてささなくても平気だけど、人間は雨に濡れないように、いつも必ずかぶりものをしたり、傘をさしたりしていた。でも、その人間はただ雨に濡れながら、ベンチに座って項垂れていた。雨の日でただでさえ人がまばらなのに、その人間の周りにはまったく人がいなかった。
僕はチョンチョンと歩いて、その人間に近づいた。足もとまで行っても、その人間は僕に気がついた様子を見せなかった。僕はさらに近づいて、その人間の足の間のすき間に頭を差し込み、そっと覗きこむ。すると暗い表情をしたその人間の顔が見えた。僕もその人間も目が合うと、ハッとして固まった。僕は、次の瞬間にはその足もとから離れ、その人間はガバッと顔を上げた。
「お、お前」その人間は声をうわずらせて、そう言った。僕をじろじろと見ている。
「な、なんだよ」と僕は応じた。でもこの人間からしたら「ク、クルックー」としか聞こえなかったかもしれないけれど。
そして僕も、この人間をじろじろと見た。雨の日の公園で1人の人間と1匹の鳩がじろじろとお互いを観察し合っている。かなりシュールな状況だ。
こんな状況の中、僕はあることに気がついた。
僕はこいつを見たことがあるぞ。そう僕が思ったのとほぼ同時に、この人間は「あの時の凶暴な鳩か」と言った。どういう覚え方をしていたのか知らないが、どうやらこいつも僕のことを覚えていたらしい。
この人間はこの前の夏に、確か、彼女連れでこの公園に来ていた男だった。別に人間のカップルが来るのは珍しいことではない。むしろ赤いレンガの建物へと向かって、ゾロゾロと年がら年中この公園を通り抜けていた。カップルは鳩だろうが、人間だろうが、ベタベタと暑苦しい。僕は別に妬んじゃいないが、見ているとどうしようもなくむしゃくしゃしてしまうので嫌いだった。1度翼でひっぱたいてやろうと、1組のカップルに飛びかかったことがあるが、あえなく撃退されてしまった。その時、彼女を背にかばい、僕を叩いて追い払った人間、それが目の前にいるこいつだった。撃退された時、僕はあまりに頭にきたので、「次会ったら覚えとけよ!」と思いながら、その場を飛び去ったことを覚えている。
「お前、まだここにいたのか」と少しの間を空けて、その男は僕に声をかけた。ここにいるも何も、この公園は僕の住処なのだが。僕が首を傾げていると、再び男は口を開いた。「それとも、ここに住んでいるのか?」僕が「クルッポー」と鳴くと、男は笑った。その表情は弱々しく、雨に濡れているためか、泣いているように僕には見えた。
「あの時は、直子も一緒だったな」男はそう言った途端、すぐにその顔から笑顔を消した。そして僕から顔を逸らして、どんよりとした空と同じくらい、暗く重たい色をした海を見つめた。僕は何となく、「直子」というのが前にこいつと一緒に来ていた、こいつの彼女のことだろうな、と思った。
「直子にはもう、会えないんだ」僕が黙っていると、男はポツリとそう呟いた。それは僕に話しているというよりも、ひとり言を話しているように感じられた。「俺、さびしくてさ。今日も何かをする気にはなれなくて。大学も休講だし、ここに来たんだ。前に直子と一緒に来たところだったから」と、そう言う男の声は震えていた。
まだ雨は降り続いている。男の頭の上からつま先にかけて、何度も何度も、濡らしに濡らしている。まるで何回も何回も、この男を泣かせているように思えた。僕は雨に濡れることは全然気にならないが、今は何となく、早く雨がやんでくれないかなあ、と思った。もう男も口を閉じてしまって、ただじっと黙って海の方を見つめている。僕も「クルックー」とも「クルッポー」とも鳴かなかった。
どのくらい、時間が経ったのかはわからない。だけど、雨も次第に弱まってきた。そして僕らから見て、海の向こうの方の空に、雲の切れ間が見えてくると、男はベンチから立ちあがった。「もう帰るよ」そう言って、男は僕の方に目をやると、「お前にまた会えてよかった。直子のこと、思い出せたし。前は何だこいつって思ったけどさ。話、聞いてくれてありがとうな」と言った。そして笑ったその男の顔は、まだ弱々しかったけれど、僕には少しだけ、穏やかなものになっているように見えた。
男が去った後、僕はまだベンチの傍で立ち尽くしたまま、海の向こうの雲の切れ間を見つめていた。
雨はまだやまない。だけどあの雲の切れ間がどんどん広がっていけば、きっと太陽が見えるだろう。
雨がやんだら、太陽が見えたら、あの男はまた笑えるだろうか。
そうだといいなあ、と思いながら、僕はベンチに飛び乗った。そしてじっと雲の切れ間が広がっていく様子を眺めていた。
終わり
鳥飼律子
※青い字で書かれた氏名はペンネームです。