2024年4月26日金曜日

ミニ展示 4月26日~5月9日

 センター入り口で、センター蔵書のミニ展示を行っております。

 

子どもの世紀 表現された子どもと家族像

神宮輝夫/髙田賢一/北本正章 編著

ミネルヴァ書房 2013


 展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。

 本書では、本学専任教員・非常勤講師の先生方、児童文学専攻OGの方といった、本学にゆかりのある方々が多数執筆していらっしゃいます。

ムナーリとレオーニ(36)

1951年②

 

 レオーニは1949年から『Fortune』誌の社外アートディレクターを務めていたが、この年、同誌の誌面全体のレイアウトを一新した。図録に収録された森泉文美による解説「『Fortune』での仕事」(pp.55-56)によれば、リニューアルは9月号を境に行われたとのこと。

1冊ごとの流れも、こんなふうに見直したという。

 

雑誌全体の構造に関しては、広告と本文をわけ、目次、約70ページにわたる広告、最新情報と前号の評、特集記事、そして最後にまとめ的なコラム、という流れが作られました。(p.56

 

 記事を読んでいる最中に、本文を広告に分断されたらきっと鬱陶しく感じるはず。広告と本文が分かれているというのは、雑誌の記事をじっくり読みたい読者としては嬉しいことである。また、広告デザインに興味を持つ人からしてみれば、本文から切り離された「約70ページにわたる広告」のゾーンで、多種多様な広告を見比べることができたのではないだろうか。

表紙の「構造」も面白い。

 

表紙タイトル上部にはギリシャ神殿のファサードのような「フリーズ」と呼ばれる帯が設けられ、表紙下部とは違う作家によるコメント的な絵が加えられるようになりました。(p.56

 

 図版には、この「フリーズ」のある表紙2点(19577月号・同年5月号)が掲載されている。タイトルの「FORTUNE」の文字を境界線として、「フリーズ」は表紙全体の上部15パーセントくらいの面積を占めている。ミクロの世界とマクロの世界、あるいは、人々の暮らしと産業といったところだろうか。同じ画面に異なる二つのストーリーを感じさせるものが描かれているのが面白い。

 こんなふうにして『Fortune』をリニューアルした1951年、レオーニは第1回世界デザイン会議の議長に選ばれたそうだ。場所は、コロラド州アスペン。

 え?1951年に第1回世界デザイン会議…? 1960年の東京開催が第1回じゃなかったの?と、頭のなかを「?」でいっぱいにしながら、グーグル検索でキーワードをとっかえひっかえして、ようやくヒントにたどり着いた。「紙の竹尾」のwebサイトの「竹尾の紙とデザインの歴史」という年表のページである。このページに記載された1951年の海外の動向のなかに、「アスペン国際デザイン会議設立」の言葉を見つけた。

この「アスペン国際デザイン会議」を検索語としてさらに検索してみたところ、アートスケープのwebサイトで「世界デザイン会議」を解説するページにたどり着いた。

 このページ自体は1960年の世界デザイン会議を解説するものなのだが、その中に「アスペン会議」という言葉が出てくる。

 

戦後、デザイン界における日本人の活躍を背景として、56年のアスペン会議(アメリカ、コロラド州アスペンで行なわれたデザイナーの集会)において、日本での国際会議の開催が決議された、その結果として、第1回世界デザイン会議が、60年5月11日から16日まで、東京の大手町産経会館で開催された。

打集宣善「世界デザイン会議」

 

 ええと…つまり、1960年の「世界デザイン会議」東京開催を決議した団体ということで、この「アスペン会議」を「(本家)世界デザイン会議」として年譜に記載したということだろうか? 本家などと言うと、なんだか老舗の和菓子屋さんのようである。

 …そんなわけで、レオーニと世界デザイン会議の関係をはっきり教えてくれる資料は、ネットではみつからなかった。今日のところはお饅頭でも食べて、ひとやすみしよう。

 

【書誌情報】

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357

「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし

打集宣善.“世界デザイン会議.”アートスケープ. https://artscape.jp/artword/6190/,(参照2024418日)

紙をめぐる話 竹尾の紙とデザインの歴史.” 竹尾. https://www.takeo.co.jp/reading/others/01_02.html,(参照2024418日)※

※紫牟田伸子編『紙とデザイン——竹尾ファインペーパーの五〇年』(竹尾、2000年)巻末附録を再録したもの。

 

遠藤知恵子(センター助手)

2024年4月18日木曜日

ムナーリとレオーニ(35)

1951年①

 この年、ムナーリは1月と11月に個展を開催している。1月に開催された個展は、その名もずばり「ムナーリ」展(ミラノ、チェントロ・ストゥーディ・グラフィチ)。11月に開催された個展は「ブルーノ・ムナーリのファウンド・オブジェ・コレクション展」(ミラノ、エリコッテロ画廊)。

ファウンド・オブジェって何だろう?と、『岩波西洋美術用語辞典』(2005)で調べてみると、フランス語の「オブジェ・トルヴェ」で載っていた。

 

「見出されたもの」という意味。自然物にせよ人工物にせよ、芸術家によって意図して制作されたのではないにもかかわらず、芸術家が何らかの美的効果や具体的な対象との形態的類似を認めたもの。ダダ、シュルレアリスムなどの芸術家に好んで用いられた。英語で「ファウンド・オブジェクト」ともいう。(p.64

 

 「自然物」と「人工物」の両方だということだから、当てはまりそうな「もの」の範囲が広すぎて、ちょっと想像しづらい。ただ、「ファウンド・アート」という言葉が、ダダやシュルレアリスムといった芸術運動とご縁のある用語であることは分かった(そう言えば、今年はアンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を発表してから100年目に当たる年ではないか!)。

時代をちょっと先取りすることになるが、50年代後半のムナーリは、折りたたんで持ち運べる〈旅行のための彫刻〉のシリーズに取り組んでいる。「もの」と「もの」を取り巻く空間との関係性に対する関心を継続して持ち続けているのだろうな、と想像した。

 また、ムナーリは同じ年に4つのグループ展に参加している。そのうちのひとつ、11月から12月にかけて開催された「ベルナスコーニ・コレクション」展のために、手作りの《読めない本》を12種類、各20部制作したそうだ。全部で240部の本を手作り…芸術家って、ほんとうに大変だなぁ。


【書誌情報】

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357

「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし

益田朋幸・喜多崎親編著『岩波西洋美術用語辞典』岩波書店、2005


 遠藤知恵子(センター助手)

2024年4月11日木曜日

ミニ展示 4月11日~25日

 センター入り口で、センター蔵書のミニ展示を行っております。


かっこいいピンクをさがしに

なかむら るみ 文・絵

たくさんのふしぎ 2024年3月号 福音館書店


 展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。

 児童文学専攻OGで本学非常勤講師の柗村裕子先生が登場します。この絵本は、柗村先生がご寄贈くださいました。

2024年3月29日金曜日

新着資料のお知らせ

 児童文化研究センター所長の浅岡靖央先生より『ビランジ』全50号をご寄贈いただきました。排架場所は、センター入り口から見て右奥の引き出しです。全巻揃っているのはとても貴重なことです。みんなで大事に使いましょう。

 『ビランジ』は竹内オサム先生(同志社大学名誉教授、マンガ研究・児童文化研究)の個人誌です。マンガ研究の黎明期からずっと、竹内先生は同誌において基礎資料や貴重なデータを紹介し続けていらっしゃいました。
センター論文集が入っている棚の下にある
引き出しに、『ビランジ』が入っています。
 一刻も早く構成員の皆さまにお目にかけたい!と、春期閉室が明けてから大急ぎで登録しました。貼り紙もまだ仮のもので恐縮ですが、もう使えます。
 せっかくの貴重な資料です。読まないなんて、もったいない!

2024年3月15日金曜日

春期閉室のお知らせ

 児童文化研究センターは、3月16日(土)から24日(日)まで、閉室とさせていただきます。
 ご不便をおかけいたしますが、なにとぞご了承くださいませ。

本日(3月15日)、学位記授与式が行われました。
ご修了、おめでとうございます!


2024年3月14日木曜日

ムナーリとレオーニ(34)

1950年

 この年、レオーニはコネチカット州のグレニッチ(都市の名称、原文ママ。ニューヨークから見て北東に位置するGreenwichのことだろうか)に引っ越しをする。この年に「想像肖像」というシリーズを始めたとある。「想像肖像」シリーズの作品は、1963年の個展で展示されることになる。図録のキャプションには、「このシリーズは記憶の中にある顔とその正面性を追求したもの」(p.115)という説明がある。眼差しの強さは描かれた顔によってまちまちだが、静かに見つめていると、絵の人物から見つめ返されるような厳粛な感覚がある。

 また、1950年の項目には「ニューヨークに移ってからは、ボブ・オズボーン夫妻やアレクサンダー・カルダー夫妻と交流を深め」たとある。1年のうちに2度も引っ越しをしたのだろうか。作品制作や人的交流もさることながら、その引っ越しの多さに驚いてしまう。

 一方、ムナーリは1948年に設立に加わった具体芸術運動に関連する作品制作を続けており、1950年には「読めない本」シリーズと「陰と陽」シリーズの個展をそれぞれ開催。また、第28回ミラノ国際見本市のモッタ社のパビリオンのために設計を……ん? モッタ? え? モッタ? あのMotta

 思わず何度も読み返してしまったのだが、それというのも同じ製菓会社で、レオーニが働いていたことがあったからだ。1934年に就職した製菓会社モッタ社の広告宣伝部門で、レオーニは「モッタレッロ」というキャラクターをデザインしていた。まさか1950年のところでモッタに再会するとは!

モッタ社は戦前、パネットーネ(イタリアで食べられるクリスマス用のケーキ)やコロンバ(やはりイタリアの、イースターのお菓子)で成功していた。年譜によると、ムナーリが設計したのは、モッタ社のパビリオンのため、高さ12メートルの《役に立たない機械》だったそうだ。

生活にワクワク感や潤いを与えてくれるお菓子を作る会社と《役に立たない機械》の組み合わせ、なんだかいいな…などと思いながら、レオーニが若い頃に手がけた広告の図版を再び眺めるのだった。

 

【書誌情報】

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357

「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし

遠藤知恵子(センター助手)