2019年8月22日木曜日


書評コンクール
応募作品(書評)公開のお知らせ

この度、書評コンクールにご応募いただいた全8作品を、ブログにて公開いたしました。
書評を執筆してくださった皆様に、心より御礼を申し上げます。

つきましては、構成員の皆様に審査員となっていただき、「紹介された本を読みたくなった書評」に11票ずつのメール投票をお願いしたく存じます。

投票方法
  投票資格:白百合女子大学児童文化研究センターの構成員であること。
  「紹介された本を読みたくなったかどうか」を主な審査基準としてお選びください。
  投票方法:メールに書評番号を記入して送信してください。(メールという方法をとっているため、記名投票の形になりますが、誰がどの書評に投票したかは公開されません。)
  メール送り先 jido-bun@shirayuri.ac.jp

開票結果と同時に、920、執筆者名もしくは筆名と身分(学生/一般/教員/その他)を公開します。お楽しみに!

皆様の投票を心よりお待ちしております。

書評番号8

 高楼方子の作品には、動物や日用品の性質を活用した作品が少なくない。中でも、『へろりのだいふく』はヤギの特性を見事に活用し、魅力的なキャラクターによってユーモア溢れた物語を紡ぎだすことに成功した作品である。

 動物の村で習字教室を営んでいるヤギマロ先生の日課は、生徒たちが残した書き損じの半紙をこっそり食べることだった。しかし、きまりが悪かったので先生はこのことを生徒たちには秘密にしていた。
そんなある日、ヤギマロ先生は書き損じの中から半紙に似ている「へろりがみ」を見つけ、餡をくるんで大福のようにして食べてみた。その大福は、先生が今までに食べたものの中で一番おいしい味がした。
「へろりがみ」を使った大福をたいそう気に入ったヤギマロ先生は、その特別な紙を手に入れる口実として、生徒たちに「『へろりがみ』のみ使用可」という条件付きの特別な書道コンクールを開催することにする。大量に集まった「へろりがみ」に小躍りする先生だが、「へろりがみ」に思わぬ落とし穴があることを全く知らず、本人にとっても予想外の騒動を巻き起こしてしまう。

 そこから先は事態収束に向けて、たたみかけるような描写が続き、思わず早く次のページをめくりたくなる。
 物語の随所に散りばめられたユーモアも、この作品の魅力のひとつである。たとえば、特別コンクールで課題となっている3つの言葉からは、ヤギマロ先生の願望が見え隠れしており、クスリとさせられる。
 ヤギマロ先生は、物語の冒頭では「先生」の威厳が前面に出ているが、物語が進行するにつれて「ヤギ」のユーモラスな特性の方が押し出されていくようになっていく。ヤギマロ先生のありのままがさらけ出されていくことによって、私たちは彼を身近な存在として感じるようになり、共感することができるのである。
ヤギマロ先生が病みつきになった「へろりがみ」の大福は、どれほどまでにおいしいのだろうか。「もし自分もヤギだったら……」と思ったのは、きっと私だけではないと思う。


この書評が紹介している作品

たかどのほうこ作、たかべせいいち絵、『へろりのだいふく』佼成社出版、2003


書評番号7

 マリー・アントワネットなんていう世界的な超有名人ともなると、彼女について書かれた作品は一冊や二冊では収まらない。最も有名なのはツヴァイクの『マリー・アントワネット』だろうか。そんな蓄積のあるジャンルに彗星の如く現れたのが『マリー・アントワネットの日記』だ。
 アントワネット(トワネット)がフランスへの嫁入りを前に書き始めた日記という体で進むこの本だが、タイトルから想像する内容と実際の中身は180度近く違う。やたらと文体がくだけている。最初の一行目からぶっ飛んでいるのだが、始まって数ページで「あたしがフランス王妃とかwww 超ウケるんですけどwwwみたいな」なんて言い出すのである。「その時代にそんな言い回し存在しないだろ!」というツッコミはたぶん、五分も経つ頃にはどうでもよくなっている。
 そんなギャル系天真爛漫女子のトワネットも、嫁ぎ先では完璧にフランス王室に馴染むことを求められる。意味不明な宮廷ルールやしがらみを容赦なく突きつけられる度に「疑問を持ったら不幸になるだけ」と自分に言い聞かせながらも、夜ごと日記に本音を吐き出さずにはいられない。
 フランス王家の面々はもちろん、オーストリアの肉親も彼女の逃げ場にはなってくれない。「圧が鬼(威圧感が鬼のように強いの意)」と評される母マリア・テレジアは、次第に王妃としての本分を蔑ろにし、享楽に耽るようになっていく娘を手紙で叱る。このエピソードは他作品にも登場する。多くの資料を上げ、冷静な書き味を崩さないツヴァイク版では、アントワネットに母の言葉は効果を及ぼさなかったのだと淡々と述べる。『マリー・アントワネットの日記』ではというと、こちらも簡潔に一行だけの反応だ。こんな風に。

「おせっかいのくそばばあ!!!!!」

 この一言に、思わず共感を覚えるのは私だけだろうか。諌めてくれるのが有難いのは分かっても、上機嫌でいるときに水を差されるとムッとする。それが実の母親なら、甘えもあって尚更素直に受け入れられないし、自分が大事なことから目を逸らしている自覚があればあるほど、正論で来られると「うざい!」と反発してしまう。
 どんな高貴な家柄に生まれようと、それだけで出来た人間になるわけではないのだ。実際のアントワネットがここまでファンキーな言葉遣いだったとは思えないが、似たようなことを思っていたっておかしくもなんともない。
 女性だから、王妃だから、と何重もの枷に縛られるトワネット。彼女から見れば、私たちの生きる現代日本はずっとマシな世界だろう。それでも、性別を筆頭に、自分にはどうしようもない理由で辛酸を舐めさせられることはいくらでもある。トワネットは隣にいたって違和感のない女の子で、感情移入せずにはいられない。
 格調高さをフルスイングで投げ捨てたような歴史物語、全力で推せる。


この書評が紹介している作品

吉川トリコ『マリー・アントワネットの日記』(Rose/Bleu)新潮社(新潮文庫)2018


書評番号6

学者の情熱が生んだ冒険

 もし、誰も自分の学説を信じてくれなかったら? 誰もが話を聞いただけで、論文を読もうともせずに否定してきたら? 味方だと思っていた友達の学者までもが、本当は信じてくれていないのだとわかったら?
 ノルウェー人の若き学者、ハイエルダールはあきらめない。「南太平洋のポリネシア人の起源は、およそ千五百年前にいかだで南米から太平洋を渡ってきたインカ=インディアンである」という自説が正しいことを証明するために、当時のいかだを再現し、その小さな帆走のいかだで、五人の仲間と共に広大な太平洋を横断するのだ。本書は、第二次大戦後間もない一九四七年に行われた航海の計画から結末までを記した、記録文学である。
 ハイエルダールは、決して命知らずに無謀な試みをしたのではない。その準備は周到で、人脈を最大限に活用し、ときには強引とも思えるやり方で、必要なものを手に入れていく。驚くのは、ハイエルダールの友人の幅広さと、相手の身分や国籍にかかわらず、臆せずに語りかけ、協力を引き出す能力だ。彼の率直さ、自説を実証したいという情熱、勇気――そういった魅力が人々を引きつけるのかもしれない。
 だが、ハイエルダールの一番の魅力は、ユーモアを大切にしている点にある。この体験記が国や時代を超えて多くの人に読み継がれているのは、空想科学小説も顔負けの、海に棲む見たこともない生物との出会いや、荒れ狂う海や何匹ものサメと戦う、手に汗握る冒険のためだけではない。決して大げさでも、面白おかしく書こうとしているわけでもない文章なのに夢中になって読んでしまうのは、ハイエルダールのユーモアがにじみ出ているからだ。自身が前向きでユーモラスな人柄であると同時に、周囲の人々のユーモアを、ほんのささいなことでも見逃さず、記録に残している。人間のユーモアを愛する彼のあたたかなまなざしがあればこそ、苦労や不安の尽きない航海は、驚きや喜びをかみしめて味わう幸せな日々となったのだ。
 計画の初期段階で、彼の身を案じ、誰かが論文を読んでくれるのを待とうと勧める元船長の友人に、ハイエルダールは言う。「読んでももらえない原稿より、探検の方が、人の興味を引くと思うんだ。」研究は本来孤独なものだが、彼は学会で完全に孤立してしまった。それでも絶望に押しつぶされないのは、ユーモア精神と情熱に支えられているからだ。何があっても決してあきらめずに道を探り、手を尽くして前進するハイエルダールの姿に、読者は自分の内にも前に踏み出す勇気が湧いてくるのを感じるだろう。


この書評が紹介している作品

ハイエルダール『コンチキ号漂流記』神宮輝夫訳、偕成社(偕成社文庫)、1976


書評番号5

いつからだろう、がむしゃらに生きることを躊躇い、今日はまあいいやといい加減に生きるようになったのは。困難に立ち向かい、どうしようもない現実の中で、それでも「せっかく生きているんだから、なんでもやってみたい」と貪欲に、精一杯に毎日を生きようとする彼女の姿がまぶしくて、だけどもその背に手を伸ばせど届かない、その距離が苦しく、切なく、そして疎ましい。
中学生の転入生「僕」は、誰よりも美しくしたたかな、そして周囲を拒絶するかのような同級生キヨコに魅かれてしまった。貧乏で『裸の大将』の山下清みたいに、いつもお弁当がおにぎりだからキヨコ。それなのに高級そうなバッグを身に付け、手入れの行き届いた長く綺麗な髪をたなびかせる彼女には良からぬ噂がつきまとっている。ある日、「僕」は噂の真相を突き止めようとキヨコを尾行するのだが早々に見破られてしまう。しかし、その日は特別に金策の一部始終を見せてくれた。彼女はそうやってコツコツとお金を貯め、少しずつ生活の質を上げようと努力をしていたのだ。普通の女の子のようになりたいと、毎日をがむしゃらになんとか生きていこうとしていたのだ。なのに、そんな毎日はある日唐突に終わりを迎えることになる。キヨコにとって、「僕」にとって、どうしようもない現実が訪れたその時、物語は終焉に向けて加速していく。キヨコは知っていた。お金が人を変えてしまうことも、お金を無駄に使うことの愚かしさも。だからこそ高くても上質なものを買って、そして大事にする。時は金なりというけれど、キヨコにとっての時間は、そんなお金よりも貴重だった。いつ何時、この平穏が引き裂かれ、地獄の釜のふたが開くのか、運命の鐘の音が打ち鳴らされるその時を、ただ一人待ち構える。キヨコは言う、「私を知らないで」と。その意味について、本書を読み終えた後にもう一度反芻してみると新たなキヨコの姿が浮かび上がるだろう。
実は、この本の時系列には物語の核となる中学生時代と、プロローグとエピローグを担う「僕」やキヨコが大人になってからの時間軸がある。大人になった「僕」は、キヨコと自分の今の関係についてどう思っているのだろうか。ハッピーエンドにみえてどこか心にトゲが引っかかったようなこの結末も実に切ない。そして、生きることに誠実であることは想像以上に難しい、だからこそ、キヨコ達が生きることに向き合うその前向きな強さと柔軟さを尊敬せずにはいられないのだろう。いつかキヨコのように生きられるだろうか、せめて太陽を追いかける向日葵のように、その背を追っていきたい。

しらかわ・みと:2009年、『プールの底に眠る』でデビュー。著書に『角のないケシゴムはウソを消せない』 (2011年講談社)など。


この書評が紹介している作品

白川三兎『私を知らないで』集英社、2012

書評番号4

天使と植物の種は風にのって、おとうさんをこえてゆく

「みどりのおやゆび」で奇跡をつくりだす、少年チトのお話。「みどりのおやゆび」とは、園芸のすばらしい素質、かくされた才能のこと。庭師ムスターシュじいさんによれば、風によってあらゆるところへ運ばれた「何千、何億という、役にたたない種」でも、その指で触れれば「種はどこにいても、たちどころに花がさく」という。
チト一家の贅沢な暮らしと、ミルポワルの町の財政は、「兵器商人」であるおとうさんの仕事によって支えられている。父の工場を継いで、ミルポワルの支配者になることを期待されていたチトだが、学校教育がどうにも合わない。そこでおとうさんは決断する。「わたしたちは、新しい方法の教育をやってみよう。あれは《ほかの子どもとおなじではない》んだからな! ものごとはじっさいに観察しておぼえるものだということを、あの子におしえてやろう。小石や、庭や、畑のことをその場でおしえる。町や、工場が、どんなふうにはたらいているか説明する。こうしたことがすべて、チトが一人前のおとなになる助けになるわけだ。つまり人生とは、いちばんいい学校なのだ。論より証拠だよ」。
こうして自宅学習の課外授業がはじまる。チトが訪ねた先は、庭、刑務所、貧民街、病院、動物園、兵器工場。現状を見聞きするなかでわきだす疑問に対し、チトは「みどりのおやゆび」を使って自分にできることを考え、行動に移してゆく。たとえば、鉄格子、鉄条網、こわれかかったぼろ家、無機質な天井、檻、機関銃、大砲、戦車……に美しい花を咲かせることで、結果、人権を守り、貧困を救い、人びとに「生きるのぞみ」を与え、動物たちを解放し、戦争を阻止するのである。こうした奇跡をおこせるチトとは何者なのか。

『みどりのゆび』がおもしろいのは、植物と天使チトの存在が重ね合わされているところ。植物の種は風にのって垣根や国境をこえる。プネウマ(気息、霊)と同義である天使が「軽やかな翼によって」「教義の枠組み」をこえる存在ならば、チトもまた「古い考え」(規律)から自由であった。かみなりおじさん曰く「規律がなければ、町も、国も、社会も、風とおなじことで、長もちが」しない。つまり、チトは風とおなじで、夭折の象徴なのだ。本田和子の言葉を借りれば、「夭折の系譜」にあるチトは、「存在そのものが境界的で、この世でのありようは、吹き過ぎる風にも似てそこはかとなく、日常的な塵や汗と無縁である。その結果、子どもたちは、あらゆる掟や軛から自由となり、非日常への奉仕者、「聖なる存在」とされた」。聖性を背負わされた天使チトは、「ヤコブの梯子」さながら、「花のはしご」を自らのぼっていってしまう。そこには、三宅美千代がいうように「大人世界の秩序から自由である子どもに、いつまでもなくならない戦争の抑止力を見出そうとする大人たちの欲望」と「祈り」が託されている。一方で、「じぶんの子どもをとてもかわいがっているのに、ほかのひとの子どもたちをみなしごにするために、兵器をこしらえている」おとうさん(おとな)の矛盾と人間味を描いているところも、この作品のさらに深いところ。「いいひとで、しかも兵器商人」。あるあるです。
 最後に、チトのよき友である子馬のジムナスティクの言葉を紹介しておこう。「花をいくらさかせても、消すことのできない悪がひとつだけある、(中略)つまり死さ」。「だから、おたがいに傷つけあうなんてほんとうにばかだよ。しじゅう人間がやっていることだけれどね」。

参考文献
岡田温司『天使とは何か』中公新書、2016
本田和子『異文化としての子ども』ちくま学芸文庫、1992年(引用箇所は144頁)
三宅美千代「3 大冒険(子どもと戦争)」、和田忠彦編「〈子ども〉の文学75選 テーマ別」
『國文學:解釈と教材の研究』學燈社、20088月(引用箇所は110頁)


この書評が紹介している作品

モーリス・ドリュオン作、ジャクリーヌ・デュエーム絵『みどりのゆび』安東次男訳、岩波書店、2009年(愛蔵版)


書評番号3

物語を読むとき、物語の中に自分自身を見出し、「これは私の物語だ」という感覚を経験することは、きっと、誰にでも起こりうることだ。
本書は、奴隷制の残るアメリカ南部に生を享けた元奴隷の黒人女性の手記である。1861年にリンダ・ブレントという筆名で出版された。15歳の奴隷少女が、自らの置かれた境遇と戦い、「自由黒人」(おかしな言葉だが)になるまでの過程を綴る。所有者である医師の不埒な振る舞いから逃れるため、彼女が取った戦法とは、別の白人男性の子どもを妊娠するというもの。医師からの度重なる陥れ作戦や暴言、身体的暴力にも耐えながら、彼女は自分と子どもたちの自由を手に入れるため行動する。彼女の手記には、彼女の祖母や父親、弟、その他の親戚や友人たちについての話が時折差し込まれるが、そうした挿話からわかるのは、彼女の解放は、彼女自身の願いであるだけでなく、親やその前の世代からの願いであり、彼女もまた、自分の子どもたちには自由であって欲しいと切に願っていたということだ。
こうした本書に対し、「これは私の物語だ」と感じる人は少数派かもしれない。だが、黒人少年が白人警察官に射殺されるという事件を扱う、アンジー・トーマスの『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ』が2017年にボストングローブ・ホーンブック賞を、2018年にはウィリアム・C・モリス賞を受賞し、映画化もされたことを思い起こすならば、これは決して遠い時代の話ではないのだということは納得せざるを得ない。現代日本にいる私たちだって、いつ、どのような形で、自分を取り巻く世界と闘わざるをえない状況に追い込まれることになるか、予測できないのだ。ブラック職場、各種ハラスメント、DV、あるいは、結婚や出産・育児に関する周囲からの過剰な圧力など、暴力は様々に形を変え、私たちに襲いかかってくる。
もう一つ特筆すべきことがあるとすれば、この本の出版の経緯だろう。1861年に自費出版により刊行された本書は、当時としてはセンセーショナルな内容だったことも手伝い、フィクションだと誤解されてきた。リンダ・ブレントなる人物が誰だったかも分からないまま、忘れ去られていた。J.F.イエリン教授の研究により、作者の本名がハリエット・アン・ジェイコブズであることと、事実に忠実に書かれたノンフィクション作品だったことがわかったのは、1987年のことである。この再発見を経て、本書は徐々に読者を獲得していく。
本書の訳者、堀越ゆきさんも、再発見後に本書に出会った読者の一人だ。堀越さんは「新しい困難な時代を生きる少女たちには、新しい古典が必要なのではないだろうか」(p329)と述べている。「これは私の物語である」−そんな風に感じている人は、確かに存在する。
だから、私も、こう言いたい。「ハリエット・アン・ジェイコブズ『ある奴隷少女に起こった出来事』。これは、ジェイコブズが書いてくれた、私たちの物語です。」と

この書評が紹介している作品

ハリエット・アン・ジェイコブズ『ある奴隷少女に起こった出来事』堀越ゆき訳、新潮社(新潮文庫)2017