2011年11月21日月曜日

【書評】ふしぎでない、ふしぎのふしぎ――染谷果子『あわい』を読む

ふしぎな話だ。 
というのは、つい先日刊行されたばかりの、
染谷果子『あわい』(小峰書店、2011年)のことである。
それは、本書が、猫又・むじな・百鬼夜行といった、
昔話などではおなじみの妖怪変化で満たされているからではない。
なにがふしぎかといって、そのふしぎが、大してふしぎでもないからなのだ。

主人公は、十二歳の「あわい」。
両親が経営するコンビニの二階で暮らす、不登校になりたての少女である。
コンビニは、今はさびれた商店街の片隅の、四つ辻の角に建っている。
この辻、実はちょっとばかりいわくつきで、いろいろなあやかしが棲むらしい。
しかし、二十四時間ぴかぴかしているコンビニの看板のせいで
夜の闇を失った彼らは、いま、存続の危機にある。
猫又の漆黒と、「むじなそば屋」の山吉は、
百鬼夜行を復活させんがため、邪魔なコンビニの明かりを消そうと
あわいたち辻の住人に協力を持ちかける。
はたして作戦はうまくいくか――と、いうのが、およそのあらすじ。

あわい、という名前は「間」という意味で、
かつて「辻守」だったという亡きおばあちゃんがつけた。
その名の通り、あの世とこの世、光と闇、あやかしと人間とをつなぐ役割を
彼女は生まれながらに持っている、らしい。
そのためか、あわいは小さい頃からあやかしの存在には慣れっこで、
はじめて漆黒に出会ったときも、何ごともなそさうにこういうのだ。
「なんだ、また、あやかしかぁ」(P.18)、と。
 
主人公が、他の人には見えないものを見る力を持っている、という設定は、
すっかり児童文学の定番と化している。
しかし、その特異というべき性質が、
この物語ではことさらに強調されていないのが面白い。
あわいは一応、不登校になっているわけだが、
それは、死んだヘラクレスオオカブトのヘラくんを
標本にしようというクラスの決定に気が進まず、
学校に棲むあやかし「やまわろ」に乗せられるまま
ヘラくんを勝手に埋葬してしまったから。
でも、あわいはそこまで悶々としている様子はなくて
「六年生が卒業しちゃうまで休むのもありかなって。
そんで、あたしは新しい六年生とやりなおすの。
こんどは、うまく混ざって」(P.63)とさらりと言ってのけたりする。
そう、彼女は別段、サツバツとした学校社会で生きていくには
繊細すぎる感受性を持てあましている……というほどの子ではないのだ。
だからといって、優越感を抱いているわけでもさらさらなく、
どちらかといえば面倒な性分だ、という程度に思っている。
たぶん、ピアノが得意とか、走るのが苦手とか、
誰しも能力に多少のデコボコがあるのと同じような感覚で、
あわいは<あやかしを見てしまう>だけなのだろう。

同様に、あやかしたち自身も、
今や取りたてて驚異的な力を持っているわけではない。
漆黒は、猫又といいつつ生態は普通の猫とあまり変わらないし
(この普通の猫っぽい描写が、また妙にリアルなのだが)
むじなの山吉は、化かしの術というよりは
口八丁と泣き落としによって、あわいたちを作戦に巻き込もうとする。
つまるところ、本来ふしぎといっていいものたちが、
べつにふしぎでもなんでもない顔をして
すまして同居しているのが、この物語なのだ。
 
そして、そんなあわいや、あやかしたちを取り巻くのが、
「辻」の四つ角に暮らす、その他の住人たちである。
和菓子屋の娘「きなこネェ」、はんこ屋の老人「つげさん」、
それから、雑貨屋の息子「モトくん」の三人。
作戦に協力してくれるきなこネェやつげさんは、
あわいと血のつながった家族ではないのだが、
だからこそ、あわいの不登校にも何ら深刻ぶらず、
気やすくつきあってくれる人たちである。
また、モトくんは、ここではみなまで言えないが、
本人も多分それと気付かないうちに
彼らの作戦にとって重要な役目を果たすことになる。

彼らが住む「辻」というのもまた、「あわい」と同様、
あの世とこの世、光と闇、あやかしと人間とをつなぐ性質を持つ。
だけでなく、宮田登によれば、この「辻」というのは
「もう一つ別の世界が見える」ような場でもあるという(※1)。
これをよく示す例に、「夕占」(ゆうけ)という
いわゆる「辻占い」のルーツとなるものがあるそうだ。
いわく、何か迷っていることや、考えていることがある場合、
黄昏時の辻に出て、往来の話し声に耳をすませる。
すると、まったく関係のない人が発する何気ない言葉が、
ふと、何かのヒントのように聞こえてくるのだ、という(※2)。

おそらく、辻で出会う人々というのは、
窮屈なほど近くはなく、しかし完全に断絶するほど遠くはなく、
気づけばいつのまにか関わっていて、
そこはかとなく影響を及ぼし合う存在なのだろう。
それは、「間」にあって極端に偏ることがない、「淡い」関係
――いわば、「あわい」的な在り方――と、いってもいいかもしれない。
(「間」と「淡い」が、語源を同じくするかはわからないが……)
そんな在り方は、濃密すぎる関係か、無関係か、の二択しか見えず
ときに息苦しい思いをしている今の子どもや大人に、
ふっと、別の世界を見せてくれるのかもしれない。

あわいと、あやかしたちは、「むじな火」を灯すことによって
「辻」に「夜」を取り戻そうとする(※3)。
そのストーリーはごく明快に語られるし、
みんなはそれぞれの思いのもと、一生懸命に作戦を遂行する。
が、あわいやきなこネェは、ひとたび学校に戻れば
それぞれ自分の生活を持っていそうだし、
漆黒だって、あやかし界でのもろもろの差配(?)に
他にも何かとご多忙のようだ。
そのひとつひとつに、語り手は、あえて深くは踏み込まない。
いうなれば、各自のいつもの日々の隙間に生まれ、
あるいはこれからも、ひそかに続いていきそうな物語。
感動、とか、衝撃、とか、そういった形容はあまり似合わない。
ただ、黄昏時、辻で思いがけず耳に飛び込んできた誰かの言葉のように、
どこかなつかしい印象で、ほんのりと心に残る。
『あわい』は、そんなふしぎな一作だ。

(研究員、沢崎友美)

<参考文献>
※1宮田登、「辻と境」、
『妖怪の民俗学 日本の見えない空間』、岩波書店、1990年、P.130
※2同上、PP.132-133。「夕占」の言葉は、すでに『万葉集』に見えるという。
※3 余談だが、宮本常一は、
「神秘」とか「超能力」についての物語である昔話を語るには
本来「夜の暗さが必要」だったが、「今は夜が明るくなりすぎている」と述べた。
(「超能力の話の場と時」、『宮本常一著作集別集2』、未来社、1983年、p.23)
私たちをどきどきさせる「語り」を生み出すのが「夜」だとすれば、
「夜」はあやかしのためにだけ、必要なものではないのかもしれない。

2011年11月8日火曜日

デボラ・エリス氏 講演会! ※終了いたしました。

この講演会は大盛況のうちに終了いたしました。
ありがとうございました。
第44回児童文化研究センター研究会が決定いたしました!

日本カナダ文学会による招聘で来日される
カナダの児童文学作家 デボラ・エリス氏

をお招きし、講演会を開催いたします。

皆さま、お誘い合わせの上、ぜひご参加くださいませ。

日時:2011年11月9日(水)
時間:13:00~14:30(3限)
場所:クララホール(11号館3階)
(当初の予定から場所が変更となりました)

講演者:デボラ・エリス氏(カナダ児童文学作家)
講演題目:“Children, War and Hope”
内容:power of literature to create better world


通訳:田嶋宏子(本学英語英文学科准教授)
コーディネータ:白井澄子(本専攻教授)

この機会に、学部生、院生、OGの方に、ぜひぜひご参加頂きたいです!
(外部の方もご参加いただけます)

参加希望の方は11月7日(月)までに
jido-bunあっとshirayuri.ac.jp
まで、ご連絡ください。
(お手数ですが、「あっと」を@に直してください)

※席に余裕があれば当日参加も可能です。
その他お問い合わせは「児童文化研究センター」までお願い致します。

TRICK OR TREAT !

遅ればせながら、ハロウィンのセンターは、お菓子三昧でした!
まず、院生の皆さまのハロウィンクッキー作りを見学、味見させていただき・・・

こねこね・・・


できあがり!

さらに、院生アルバイトの方から、こんなに素敵なかぼちゃパイをいただきました!

 
BOO!

誰にもいたずらされることなく、おいしくて楽しいハロウィンを過ごすことができました。
院生の皆さま、ありがとうございました!