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2026年4月16日木曜日

5の倍数と「児童憲章」

過去のブログ記事から


 今年の1月、こちらのブログで、ケストナーとトリヤー(トリアー)の『どうぶつ会議』(原著出版1949年)について、ミニ展示の報告記事を作成しました。そのとき、
 
1924年 「児童の権利に関する宣言(ジュネーブ宣言)」、国際連盟総会にて採択
 ↓25年
1949年 『どうぶつ会議』原著出版
 ↓10年
1959年 「児童の権利宣言」、国際連合総会にて採択
 ↓20年
1979年 「国際児童年」
 ↓10年
1989年 「子どもの権利条約(児童の権利に関する条約)」、国際連合総会にて採択
 
といったように、5または10の倍数で年を刻みながら、児童に関する国際的な取り決めがなされている、ということに気がつきました(そして、『どうぶつ会議』の原著出版が、ちょうど良い具合に10または5の倍数の列の中に入ってくるということにも気がつきました)。
 1989年に国連総会で採択された「子どもの権利条約」に、日本が批准したのは5年後の1994年。ここでも5の倍数が登場します(月数も計算に入れると約4年半後ですが、批准年を覚えるには5の倍数が便利)。
 国際条約である「子どもの権利条約」は、国内の法律より優先されるほど強い効力をもつものですが、1959年の「児童の権利宣言」には法的拘束力がありません。とはいえ、「児童の権利に関する宣言(ジュネーブ宣言)」の内容を引き継ぎ、1989年に採択される「子どもの権利条約」の基礎にもなっています。1959年の「児童の権利宣言」もやはり、私たちの現在に繋がる、重要な宣言であることは間違いありません。

「児童憲章」


 「児童の権利宣言」が国連総会で採択されるより遡ること8年、日本では1951年に「児童憲章」が制定されます。文部科学省のウェブサイトで全文を確認することができます。
 
われらは、日本国憲法の精神にしたがい、児童に対する正しい観念を確立し、すべての児童の幸福をはかるために、この憲章を定める。
 
児童は、人として尊ばれる。
 
児童は、社会の一員として重んぜられる。
 
児童は、よい環境の中で育てられる。
 
一 すべての児童は、心身ともに健やかにうまれ、育てられ、その生活を保障される。
二 すべての児童は、家庭で、正しい愛情と知識と技術をもつて育てられ、家庭に恵まれない児童には、これにかわる環境が与えられる。
三 すべての児童は、適当な栄養と住居と被服が与えられ、また、疾病と災害からまもられる。
四 すべての児童は、個性と能力に応じて教育され、社会の一員としての責任を自主的に果たすように、みちびかれる。
五 すべての児童は、自然を愛し、科学と芸術を尊ぶように、みちびかれ、また、道徳的心情がつちかわれる。
六 すべての児童は、就学のみちを確保され、また、十分に整つた教育の施設を用意される。
七 すべての児童は、職業指導を受ける機会が与えられる。
八 すべての児童は、その労働において、心身の発育が阻害されず、教育を受ける機会が失われず、また、児童としての生活がさまたげられないように、十分に保護される。
九 すべての児童は、よい遊び場と文化財を用意され、悪い環境からまもられる。
十 すべての児童は、虐待・酷使・放任その他不当な取扱からまもられる。あやまちをおかした児童は、適切に保護指導される。
十一 すべての児童は、身体が不自由な場合、または精神の機能が不充分な場合に、適切な治療と教育と保護が与えられる。
十二 すべての児童は、愛とまことによつて結ばれ、よい国民として人類の平和と文化に貢献するように、みちびかれる。

 
「児童憲章」文部科学省ウェブサイト
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/004/siryo/attach/1298450.htm
※仮名遣いについて、促音の「っ」のみ歴史的仮名遣い(大きい「つ」)となっていますが、本記事ではそのまま引用しています。
 
 1946年の憲法公布から5年後(5の倍数!)に制定されたこの「児童憲章」は、児童は「人」そして「社会の一員」として尊重され、「よい環境」で育てられるという理念を前文で示し、続く12個の条項でどのように児童が守られ、導かれる存在であるのかということを述べています。
 「児童憲章」もやはり法的拘束力のない宣言文のようなものですが、この時代の児童文学関係者はどう受け止めていたのでしょうか。センター蔵書を通じて、1951年をちょっと覗き見してみましょう。
 

1951年の評論より


 児童文化研究センターには、1946年から1989年までの日本の児童文学評論の中から選りすぐりのものを収録した『現代児童文学論集』という資料があります。全部で5巻あって、1冊1冊がしっかりした厚みのある資料ですが、意外と日常使いもできるのが魅力。「この年の日本児童文学では、何が話題になっていたのかな」と、ふと気になったときなどにパラパラとめくって、キーワードを拾いながら読むのに便利です(「今日は何の日カレンダー」みたいに、楽しく使いたいですね)。
 『現代児童文学論集 1  児童文学の戦後 1946-1954』(日本児童文学者協会編、日本図書センター、2007年)に収録された、1951年の評論をパラパラめくると、そこには、
形ばかりの「児童憲章」(p.112)
と、シビアな言葉が。これは、同書に収録された関英雄の評論「児童文学の現代——ペシミズムからの転換——」(『文学』第19巻第8号、1951年8月)にあったものです。しかし、関は次のようにも書いています。
「児童憲章」が条文の上だけでも、すべての児童に「よい遊び場と文化財」を保証し、それの裏づけででもあるように、児童文学の作品に芸術院賞と文部大臣賞があたえられたということは、それがどういう意味合のものにせよ、児童文学への社会的関心を呼び起さずにはいない。(pp.115-116)
 「良い遊び場と文化財」とは、「児童憲章」の9番目、「すべての児童は、よい遊び場と文化財を用意され、悪い環境からまもられる」という条項に見られる言葉です。そして、「芸術院賞」とは、小川未明がもらった第7回日本芸術院賞のようです。「文部大臣賞」については、現在の文化庁による「芸術選奨」のことを指しているようで、1950年度の第1回で、石井桃子(『ノンちゃん雲に乗る』)と竹山道雄(『ビルマの竪琴』)が文学の部門で受賞。(「芸術選奨」文化庁ウェブサイト https://www.sensho.go.jp/list.html 児童文化についても確認しておくと、幻燈や紙芝居も授賞対象に含まれていた映画部門では、二つの紙芝居、いわさきちひろと稲庭桂子の『お母さんの話』、高橋五山の『こねこのちろちゃん』が受賞しています)。敗戦の痛手から回復しようとしていた復興期、最初の受賞者に子どものための文学・文化の担い手がいたことは確かで、「児童憲章」によって示された理念とそれを反映した文化政策、そして、この動きが社会に与えるインパクトの強さは、関も認めているようです。
 「児童憲章」の条文は現時点で実質を伴わない虚ろな言葉の羅列だが、文化政策と合わさって社会に及ぼす影響力は認める、このような姿勢が、当時の児童文学者たちによって共有されていたようです。
 同じく『現代児童文学論集 1  児童文学の戦後 1946-1954』に収録された、児童文学者協会・年刊第四集編集委員会による「大人の読者へのあとがき(一九五〇-五一・児童文学の展望)」(『日本児童文学選 年刊第四週』桜井書店、1951年11月)には、
五一年五月五日の「子どもの日」に、「児童憲章」が制定され、すべての児童に適切な文化財を保証したことは、それが今のところ空文であるとしても、これを現実のものとして行くために、児童文学者の奮起が要望されているものでありましょう。(太字は原文ママ。pp.138-139)
とあり、やはりここでも「空文」と手厳しい言葉を挟み込む一方で、「児童憲章」に書かれた理念はぜひとも実現していきたいという意志を読み取ることができます。現状では「空文」でも、作品制作や批評の積み重ねによって中身を充填していけば、いずれ「形ばかり」でも「空文」でもなくなる日がきます。現在、私たちの身の回りにある児童書や、その他様々な児童文化財は「空文」を実のあるものにするための努力の結果、あるのですね。
 2026年5月5日、「児童憲章」制定から75年を迎えます(5の倍数!)。先人たちの足取りを、センター蔵書をひもときながら辿ってみませんか?
 
【書誌情報】
『現代児童文学論集 1 児童文学の戦後 1946-1954』日本児童文学者協会編、日本図書センター、2007年

2025年10月30日木曜日

ミニ展示 2025年10月31日~11月12日

昭和50年の雑誌


展示中の資料

『子どもの文化』第7巻第4号、1975年4月

〈特集〉漫画のなかの子ども50年


2025年は昭和元年から数えて100年目の節目の年です。ひとつ前の節目となっていた50年前、すなわち昭和50年=1975年発行のこの雑誌で、マンガ(漫画)に描かれた子ども像を振り返り、その変遷を追いかけてみましょう。

センター所蔵の雑誌『子どもの文化』第7巻第4号(1975年4月)では、「漫画のなかの子ども50年」という特集を組んでいます。特集は、「漫画のなかの子ども50年 主人公にみる、子ども像の変遷」と、「私が見てきた子ども漫画の50年」(漫画評論家、石子順氏が漫画博士の須山計一氏にインタビューする対談記事)の二つの記事で構成されています。

本特集の前半部分である、「漫画のなかの子ども50年 主人公にみる、子ども像の変遷」では、石子氏提供による子ども向け漫画34作が紹介され、それぞれの作品に登場する子ども主人公の姿を年代順に見ることができます。

北澤楽天「とんだはね子」に始まり、関谷ひさし「ブンちゃん」に終わる、この子ども像変遷史。もしも、これをさらにもう50年分続けて、私たちの時代につなぐとしたら、あなたならどんなマンガの主人公を選びますか?

 

センター所蔵の雑誌で、マンガと言えばこれ!:『ビランジ』全50号

本センター所長、浅岡靖央先生のご寄贈により、竹内オサム氏が個人で発行していた雑誌『ビランジ』が、ここ児童文化研究センターに全号揃っています。センターのライブラリーを担当する助手は、この雑誌のご寄贈を受けたとき、(えっ、いいんですか?)と、内心、うろたえてしまったとか。それくらい、あると嬉しい雑誌なのです。受け入れ作業が済んで利用可能な状態になったときは、この助手、浮かれて小躍りしていましたよ。

『ビランジ』の前に発行されていた『ポラーノ』(大阪国際女子大学人間科学部 コミュニケーション学科)も、やはり浅岡先生のご寄贈で、第3号から第8号まで所蔵しています(所長、ありがとうございます!)。

2025年10月23日木曜日

ムナーリとレオーニ(52)

1963年

 1963年のレオーニは、1950年から制作していた「想像肖像」シリーズの作品を、ミラノのナヴィリオ・ギャラリーで展示。実在する人も、実在しない人もモデルになっているという面白いシリーズである。また、この年、レオーニの代表作中の代表作が出版される。『スイミー』である。レオーニにとって4冊目となるこの絵本は、1964年のコルデコット賞次点に、そして、1967年第1回プラスチラバ世界絵本原画展で「金のりんご賞」を受賞する。日本では、谷川俊太郎訳で1969年に好学社から刊行されている。小学校の国語教科書に掲載されたり、是枝裕和監督の映画『万引き家族』(2018年)に登場したり、『スイミー』ほどたくさんの人に親しまれている作品はないのではないだろうか。

しかし、「だれも知らないレオ・レオーニ」展図録によると、『スイミー』の原画は行方不明だそうだ。会場で「原画」として展示されていたのは、レオーニが制作した別ヴァージョンのものである。レオーニは『スイミー』制作にあたって、モノタイプという、偶然を活かした版画技法を用いており、同展開催前に行われた調査で、関連作品が大量に発見されている(松岡希代子「『スイミー』原画の謎」p.185)。それにしても、本物の原画はどこにあるのだろう。探し物の常として、忘れかけた頃に思いがけないところからひょっこり出てくるのかもしれない。見つかったら、それは絵本史に残る大発見になる。

さて、1963年のムナーリはと言えば、相変わらず精力的に作品発表をしている。個展を1回と、グループ展を5回。

ところで、前回、1962年にオリヴェッティ店舗で開催されたグループ展について、ウンベルト・エーコの『開かれた作品』についてのリポートを熊沢健児氏にお願いしようと書いた。しかし、「頼めば3~4週間で書いてくれるはずだ」という私の言葉が熊沢氏の気に障ったらしく「そんな簡単に書けないよ!」と叱られてしまった。あれからもう数か月も経つのに、会うたびにご機嫌斜めである。自分で読んでリポートするしかないのか…困った。

ご機嫌斜めで、背を向けて寝っ転がる熊沢氏。
普段は、下の画像に見る通りの紳士です。

熊沢健児(くまざわ・けんじ)
児童文化研究センター名誉研究員(ぬいぐるみ)。
センター入り口のミニ展示の隣で皆さまをお迎えします。

【書誌情報】

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357

「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし

遠藤知恵子(センター助手)

2025年5月29日木曜日

ムナーリとレオーニ(51)

1962年


 毎日の慌ただしさに負けて、ムナーリとレオーニの年譜をひたすら読み続け、書く、というこの連載も、しばらくお休みしてしまっていた。前回は昨年11月末頃に投稿した第50回。半年ぶりに再開したい。

 1962年5月、ムナーリはモスクワへ旅行している。5月から6月にかけて、モスクワのソコーリニキ公園で開催された「イタリア工業の実現物展」の展示プランを監修したとのこと。国際的な活躍をみると気になってしまうのが国際情勢だが、この旅行から約5か月後の10月にキューバ危機が起きている。2024年にアメリカで製作されたA Complete Unknown(ジェームズ・マンゴールド監督、邦題:名もなき者)にも、当時のアメリカ国内に広がる核戦争への恐怖が生々しく映し出されていた。ムナーリはどんな気持ちでキューバ危機のニュースに接していたのだろう。あるいは、もしかして、芸術運動に忙しくて、ニュースなど気にする暇もなかったのだろうか。年譜だけでは分からないことが、たくさんある。
 まあ、それはとにかくとして、この年もムナーリは忙しい。1回の個展と4回のグループ展を行なっているのだが、グループ展のうちの1つ、「アルテ・プログランマータ、キネティック・アート、マルチプル、開かれた作品」展は、アルテ・プログランマータ運動のきっかけと位置づけられるものだ。ジョルジョ・ソアーヴィとともに企画した作品展示で、5月15日からミラノのオリヴェッティ店舗で開始し、7月から8月にかけてはヴェネツィアで、10月にはローマ、翌年6月15日から7月14日にはドイツのデュッセルドルフでも開催している。
この展示に関して、ムナーリはマルチェッロ・ピッカルドとともに記録映像『アルテ・プログランマータ』を製作している。ピッカルドとはその後、1969年の『余波』まで、様々な短編フィルムを共同制作したとのこと。ピッカルドとの製作物は実験映像や広告映像など。年譜に「各地の映画祭などにも参加する」(p.348)とあるので、その後の出来事を少し読んでみたのだけれど、「各地の映画祭」って、どれのことだろう?(わからない。)
 個人的には、オリヴェッティで開催されたグループ展のタイトルにある「開かれた作品」という言葉が気になる。『開かれた作品』と言えば、同年刊行されたウンベルト・エーコの著書である。この辺のことは熊沢健児氏の関心領域なので、彼にこの本についてのリポートを頼もう。最近、体調が思わしくないそうだが、読書や執筆活動が大好きな彼にとって、研究生活を充実させることが一番の薬である。頼めば3~4週間で書いてくれるはずだ。
 なお、この年のレオーニは、タイム・ライフとモンダドーリが共同出版する月刊誌『Panorama』の編集コンサルタントとなっている。役職については、1962年から1963年は編集コンサルタント、1964年から1965年は編集長とある。モンダドーリはミラノの出版社で、1945年にムナーリが子どものための絵本を7冊刊行していた。

【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357
「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし

遠藤知恵子(センター助手)

2024年11月29日金曜日

ムナーリとレオーニ(50)

1961年② 動くもの

 この年、ムナーリはパドヴァで個展を催し、その会期中に〈偏光の映写〉上映会も開催される。〈偏光の映写〉は、偏光板を利用してつくる映像作品のこと。しばらくぶりなので、図録のなかの解説で〈偏光の映写〉のことを簡単に振り返っておきたい。

 

偏光板とは、ある特定の方向に振動する光だけを通す性質をもったシートで、作品はこれを透明な素材とともにスライドに挟み込んで映写し、プロジェクターのレンズの前で、別の偏光板をかざし動かすと、スクリーンに現れた鮮やかな色彩が次々と変化していくという仕組み。

p.135 執筆担当:盛本直美

 

 喩えるならば、「科学技術を応用し、光の刷毛で描く抽象絵画」といったところだろうか。

物体に備わる特有の性質を利用して得られる像や色彩だから、この〈偏光の映写〉は、実際には「具象(というか、具体)」を極端に突き詰めることによってできる映像なわけだし、「抽象」という言い方はおかしいかもしれない。ただ、なんとなく、版画家の恩地孝四郎の「抽象」と通じるものがあるような気がして、「抽象絵画」に喩えてしまった。私個人の偏った見方に過ぎないのだけれども、いろいろ連想しながら言葉に表してみるのは楽しい。そして、図録に収録された図版はどれも美しい。

 1961年のムナーリはほかにもう1回個展を開いており、グループ展への参加は4回。また、第39回ミラノ国際見本市に参加し、モンテカティーニ社のパヴィリオンに噴水を2つ、設置したそうだ。どんな噴水かと言えば、「直径4mの円盤が水と風の動力で動くものなど」(p.347)とのこと。〈偏光の映写〉といい、この噴水といい、ムナーリは動いて形の定まらないものが好きだったんだなと、改めて思う。

 

【書誌情報】

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357

遠藤知恵子(センター助手)

2024年11月21日木曜日

ムナーリとレオーニ(49)

1961年① レオーニ、イタリアへ

 

 1975年の『ひとあしひとあし』出版以降、レオーニの絵本の翻訳を数多く手がけた谷川俊太郎さんが、今月13日に亡くなってしまった。メディアにもよく顔を出している詩人だし、少なくとも100歳までは活躍を続けられるに違いないと勝手に思い込んでいた。だから、谷川さん死去のニュースに接したときは、ものすごく驚いてしまった。心よりご冥福をお祈りいたします。

 

1961年、レオーニはイタリアに戻った。移り住んだ先はリグーリア州のラヴァーニャという町の、サン・ベルナルド地区である。図録の情報を頼りにネットで調べてみると、ラヴァーニャはジェノヴァ県内に位置する。ジェノヴァはレオーニが15歳の頃、父親の転勤により一家で移り住んだ土地である。ここでイーゼルを購入し、漫画や油絵を描き始めたのだった。

図録に収録された解説「レオの絵本作り——初期の4冊を中心に」(執筆:松岡希代子、pp.188-195)によれば、ここは妻ノーラの実家の別荘ピンクヴィラのあるカーヴィに近く、イタリアでも有数のリゾート地であり、小石の広がる美しい浜辺があるそうだ。そして、結婚前からレオーニはよくピンクヴィラに滞在していたとのこと(p.190)。そういえば、第二次世界大戦終結から2年後の1947年、アメリカに亡命して以来初めてイタリアに戻ったとき、レオーニはカーヴィで絵画制作に打ち込んだと、年譜に書いてあった。アメリカでの生活に区切りをつけるにあたり、若い頃からのなじみ深い土地を選んだのである。

イタリアに再び根を下ろした、この記念すべき年に出版した絵本は『はまべにはいしがいっぱい』(原題:On My Beach There Are Many Pebbles)である。レオーニ3冊目の絵本。先の松岡の解説によると、制作に着手したのは2冊目の『ひとあしひとあし』よりこちらの方が先だったという。移住が直接の制作動機になったわけではないようだが、イタリア移住後第一作がこの絵本だというのは、なんだか素敵だ。

『はまべにはいしがいっぱい』はこれといった事件は起きない、それらしいストーリーのない絵本である。本物のように描かれた小石の群れのなかに虚構が、というか、心のなかで作り出したイメージが混ぜ込まれていて、どのページも長いこと飽きずに眺めていられる。この絵本が1979年に日本で出版されたときの翻訳者はもちろん、谷川俊太郎さんだった。

 

【書誌情報】

「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし

遠藤知恵子(センター助手)

2024年10月31日木曜日

ムナーリとレオーニ(48)

 1960年② ギャップ萌え


 1960年、レオーニは50歳になる。この年の年譜はシンプルである。
 
2冊目の絵本『ひとあしひとあし』を出版(1961年コルデコット賞次点)。(p.218)
 
 前年に初めての絵本『あおくんときいろちゃん』を出版したばかりで、絵本作家としてはまだ「新人」といっても良さそうな人なのに、2作目でいきなりコルデコット賞次点とあって驚いた。だが、こんな驚きも、今まで私がレオーニの絵本作家という側面にばかり目を向けてきたことや、レオーニをひとりの創作者としてきちんと見てこなかった怠慢が原因なのかもしれない。グラフィック・デザインの領域では既に、レオーニは充分すぎるほどの実績を積んでいる。今まで読んできた年譜を通じ、彼の来歴を(その片鱗だけかもしれないけれど、ともかくも)学んできた。本当は、コルデコット賞次点のひとつやふたつ、驚くことでも何でもないのだ。
 『ひとあしひとあし』(原題Inch by Inch)は尺取虫を主人公とした物語の絵本。小さくて弱い者が知恵を使って危ない局面を切り抜ける、魅力的なお話である。日本では15年後の1975年、谷川俊太郎の翻訳で出版されている。図録に収録された論考「レオの絵本作り——初期の4冊を中心に」(文章:松岡希代子)によると、「この作品はレオにとってはじめてテキストとイメージの一貫性や、絵本としての表現に向き合って作った作品」(pp.193-194)とのことで、その制作は難しかったそうだ。絵本からは、そんな苦しみの跡は1ミリも見つからないのだが。
 レオーニはそれまで生きてきたうちのとても長い時間を、サラリーマンとして過ごしてきたし、会社を辞めてフリーランスになってからも、ビジネスの世界を生きてきた。松岡によると、子育ては妻のノーラに任せきりで、「子どもと遊んだりすることにも苦手意識を持っていたよう」(p.188)だったという。
 レオーニにとり、「子ども」は苦手分野だったのか…と、図録を眺めながら苦笑いしてしまう。そして、後年、彼が発表するぴかぴかの作品群との落差を思い、つい、「ギャップ萌え」してしまいそうになるのだった。
 
【書誌情報】
「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし
遠藤知恵子(センター助手)

2024年10月24日木曜日

ムナーリとレオーニ(47)

1960年① 10月24日はムナーリの誕生日

本日、10月24日はブルーノ・ムナーリの117回目の誕生日である。エスプレッソとティラミスでお祝いしたいところだが、まずは年譜を読もう。今回は1960年、ムナーリが53歳になる年である。

1960年のムナーリも、相変わらずイタリアをはじめヨーロッパを中心に精力的に作品展示をしているのだが、ムナーリはこの年に開催された世界デザイン会議(於・産業会館、東京、5月11-16日)に招聘され(※)、《偏光の映写》を上映する。ムナーリ、初めての日本訪問である。同時期(5月10-15日)に開催された「60/ワールド・グラフィック・デザイン展」にも出品している。展示会場は日本橋三越。う~む、やはり日本で展示となると場所は百貨店なのかと、感慨深い。

ところで、1958年にムナーリは瀧口修造の訪問を受けていたが、二人の交流はまず日本での作品上映という形で実を結ぶ。世界デザイン会議に先立ち、東京国立近代美術館の映写室で《偏光の映写》による「ダイレクト・プロジェクション」上映会が開催される(上映期間:1月5-24日)。翌月18日には草月アートセンターでも上映が行なわれる。国立近代美術館での上映会の折には、武満徹のテープ音楽「クワイエット・デザイン」が流されたそうだ。

〈直接の映写〉と〈偏光の映写〉、それぞれのシリーズを、図録で確かめることができる。図版がまとめてプリントされたページには、いくつものスライドに、それぞれ質感の異なる素材をマウントしたものが並んでいる。それらのスライドをプロジェクターで壁に直接映写する。図録では上映風景は分からないが、素材が持つ質感や色彩の断片が輝いている。そういえば、この輝き、日本の写真家の写真集で見たことがある。

今井壽恵(1931-2009)という写真家が手がけた企業広報誌『エナジー』の表紙写真には、ムナーリの《偏光の映写》シリーズとよく似た断片の輝きがある。『Hisae Imai』(戸田昌子監修、赤々舎、2022年)でまとめて〈ENERGY〉シリーズを見ることができる。この写真集を見ていたときに感じた輝きである。あくまでも、私がそういう印象を受けたというだけのことであって、影響関係が云々ということを言うつもりは全くない、というより、残念ながら知らないのである。ムナーリと違って今井の再評価はまだ始まったばかりで、写真の専門家でもない私にとって、今井は魅力的だがなかなか手が出せない写真家なのである。だが、何も知らないなりに、詩心に満ちた初期の作品は特に、文学との親和性が高くて興味深い。

ちなみに、何となく思いつきで「今井壽恵」「草月アートセンター」というキーワードを入れてGoogle検索してみたところ、「ジャズ」という言葉がパソコンの画面上に散見される。「えっ、ジャズ?」と意外さに打たれつつも、今度は「今井壽恵」「ジャズ」で検索しなおしたところ、渡邊未帆「日本のモダンジャズ、現代音楽、フリージャズの接点 ——草月アートセンターと新世紀音楽研究所の活動を例に——」(『東京芸術大学音楽部 紀要 第34号』2009年3月、pp.189-202)と出会った。ムナーリの活動の幅はとても広いけれど、この幅広さはこの時代、表現の最先端で活躍していた人たちみんなに共通するものであるらしい。ジャズか…私、ジャズのこともよく分からないなあ…ムナーリのお誕生日だからって、ティラミス食べてる場合じゃないかもしれない…と、胃袋がキュッと引き締まるのを感じるのだった(でも、やはりティラミスは食べたい)。

※ムナーリの日本での動向については、有福一昭「日本におけるブルーノ・ムナーリ」(『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.316-323)を参照した。

 

【書誌情報】

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357

遠藤知恵子(センター助手)

2024年10月4日金曜日

ムナーリとレオーニ(46)

1959年② ムナーリ

1959年、ムナーリは52歳。この年の年譜には、個展とグループ展が3つずつ記されている。全部で6回の展示を行なっているが、そのうちの4回(個展3回とグループ展1回)はダネーゼ・ショールームが会場になっている。

図録の解説(p.209 執筆担当:髙嶋雄一郎)によれば、ダネーゼ社は1957年、ブルーノ・ダネーゼとジャックリーン・ヴォドツ夫妻によってミラノで設立されたとのこと。1960年代イタリアのインダストリアル・デザインを語る上で、また、この時期のムナーリの仕事を語る上で、非常に大きな存在であるらしい。この解説のなかに、ムナーリの主張が次のように記されている。

「芸術は、一点もの、であるべきではない。そうでなくて、シリーズ化を目指す必要がある。そうすればより多くの人々に、たとえそれが複製品であっても、芸術を所有する可能性を与えるものだから」

これを読んで、ムナーリの心意気にうっかり感動してしまいそうになったのだが、検索して見つけたムナーリによるデザインのダストボックス(なんと、現在も販売中である)は、税込価格で9万円を超える値段だった。

9万円のゴミ箱を買える人って、どんな人だろう? シリーズ化され、複製されることによって、確かに「芸術を所有する可能性」は与えられるけれど、可能性を与えられたからといって、実際に手に入るかどうかはまた別の話。つましく暮らす庶民からしてみれば、複製芸術ですら絵に描いた餅なんだ…などと考えてしまったら、もう元気が出ないのだけれど(あぁ、検索なんかするんじゃなかった!)、気を取り直していこう。

解説によると、1959年からムナーリが企画していた11点の遊具がダネーゼ社から発表された。「うち7点は教育学者ジョヴァンニ・ベルグラーノとの共作で、各々に対象年齢が設定され、子どもの発育に合わせつつ遊びを通じてその創造性を刺激する巧みな仕掛けが込められ」たものとのことで、1985年に来日してこどもの城でワークショップを開いた、78歳のムナーリの姿と重なる。

ムナーリが遠い日本の地で子どものためのワークショップを試み始めるのはもっとずっと先のことだけれど、長い年月をかけて、新たな活動に向けた種蒔きをしているように見える。

 

【書誌情報】

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357

遠藤知恵子(センター助手)

2024年9月20日金曜日

ムナーリとレオーニ(45)

1959年① レオーニ 初めての絵本Little Blue and Little Yellow

 夏休みが終わったので、ブルーノ・ムナーリとレオ・レオーニの年譜を読むこの不定期連載も再開しよう。

1959年、レオーニは初めての絵本Little Blue and Little Yellow(日本語タイトル:あおくんときいろちゃん)を出版する。この本ができるきっかけをつくったのは、レオーニの孫たちだった。

家族でデパートに行ったレオーニは、孫のピッポとアニーを連れて一足先に帰ることになった。列車に乗っているうちにじっとしていられなくなった2人を静かにさせるために、そのとき偶然持っていた『LIFE』の校正紙を取り出したのが始まりだった。青色、黄色、緑色のページをちぎって丸い形を作り、「膝の上のブリーフケースを舞台に低い声で語りはじめた」(p.168)のが、リトル・ブルーとリトル・イエローのお話。『あおくんときいろちゃん』の誕生である。

家族との買い物だったにもかかわらず『LIFE』誌の校正紙を「偶然」持っていた、とか、「膝の上のブリーフケース」、すなわち仕事用の書類鞄がお話の舞台になった、とか、当時のレオーニは本当に、ビジネスの世界に生きるアートディレクターだったのである。

『だれも知らないレオ・レオーニ』に収録された松岡希代子の論考「絵本作家レオ・レオーニの誕生と『あおくんときいろちゃん』」では、Little Blue and Little Yellowの誕生に立ち会った孫の1人、アニーの、アメリカの週刊誌Publishers Weeklyに発表されたエッセイに言及している。1958年のブリュッセル万国博覧会で、レオーニが企画・デザインを担当したパヴィリオンが政治的圧力によって閉鎖に追い込まれるという出来事があった。アニーのエッセイは、このとき“問題視”された写真の構図が、完成した絵本の一場面によく似ていることに着目したもので、パヴィリオン閉鎖と絵本Little Blue and Little Yellow誕生との関係を考察するというものだそうだ。

ところで、同じく『だれも知らないレオ・レオーニ』に収録された森泉文美の論考「だれも知らなかったレオ・レオーニ」では、1955年にレオーニがデザインを担当したThe Family of Man展図録を取り上げている。この論考で「左右非対称性、不規則性、大小のコントラスト、大胆な裁ち落とし」などを用いた「レオらしいレイアウト」を紹介するための例として、The Family of Man展図録のなかから、人々が輪になって遊ぶ(踊る?)写真を、見開きいっぱい大きな輪のかたちに並べたページを紹介している。

アニーの説とこの図録のレイアウトを併せて考えてみると、もしかしたら、第二次世界大戦終結後のレオーニにとって、平和な未来のイメージは、人間らしい不完全さを含んだ輪のかたちに象徴されるものだったのかな…などということを思いつく。

『だれも知らないレオ・レオーニ』でMoMAとの仕事でレオーニが最も気に入っていたと紹介されるThe Family of Man展図録の表紙も、いびつな四角形に切られた大小さまざまの色紙のモザイクが、楽しげに笛を吹く人の写真を取り囲んでいるというものである。さまざまな出自をもつ人々が、笛の音(=音楽=芸術)のある所に集まり、仲良く輪になって踊ったり遊んだりするイメージである。かたちは整っていないけれど、おおらかで楽しい。

図録を捲りながら、(そうか、平和ってやつは、輪っかなのだな…)などと考えていたら、なんだかドーナツを食べたくなってしまった。あの甘くておいしい輪を食べるときも、やはり平和な気持ちになる。

 

【書誌情報】

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357

「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし

遠藤知恵子(センター助手)

2024年7月27日土曜日

ムナーリとレオーニ(44)

1958年② レオーニ


今回は、1958年のレオーニ。この年、レオーニは48歳になる。年譜を読もう。

1958年のレオーニは、前年に3か月間滞在していたインドを再び訪れ、さらにアジア各地をまわる。また、アメリカ国内の5都市の美術館で個展を開催し、その個展では実在する人物と想像上の人物が入り混じったシリーズ「想像肖像」の作品や、グラフィックデザインの仕事が紹介されたそうだ。

インドといえば、タラブックス(憧れの出版社です)を生んだ国ではありませんか!私も行ってみたい!などと、レオーニを羨ましく思いながら年譜を読むのだが、この年、後味の悪い出来事が起きている。

レオーニはブリュッセル万国博覧会のアメリカ館特設パヴィリオン「未完成の仕事」の企画・デザインを担当したのだが、会期の途中で閉鎖されてしまった。ことの経緯については、図録に収録された松岡希代子「絵本作家レオ・レオーニの誕生と『あおくんときいろちゃん』」に記されている。

松岡によると、レオーニが担当したパヴィリオンはメインパヴィリオンとは別に、タイム・ライフがスポンサーとなった小規模な特設パヴィリオンだった。そこでは、ソ連によるネガティヴ・プロパガンダに対抗するために、アメリカの国内問題を率直に取り上げる展示がなされた。展示は三部構成で、アメリカの抱える問題を伝える第1部「混沌」、どのような手段により問題解決に向かっているのかを展示する第2部「進捗状況」、そして、第3部の「望まれる未来」。

第3部の最後に展示された1枚の写真が、アメリカ南部の一部議員の間で問題視されることとなり、一般公開から3週間後にパヴィリオンそのものが閉鎖に追い込まれたそうだ。その写真とは、次のようなもの。

 

それは、肌の色もさまざまな7人の子どもたちが手を繋いで輪になり、マザーグースの1つ「Ring-a-Ring-o’ Roses(薔薇の花輪を作ろう)」を歌う様子を捉えた、活き活きとした写真作品でした(p.172)

 

 人種など関係なく、一緒に元気に遊ぶ子どもたちの姿。これこそ、まさに「望まれる未来」そのものなのでは?と言いたくなるが、当時はこうした写真を「問題視」することがまかり通っていたのだ。州によっては、有色人種の人々から人権を剥奪したり、差別を正当化したりするような内容の法律がまだ生きていた。当時のアメリカが公民権運動のただなかにあったことを思うと、この写真を問題視することの背景には、平等が怖くて仕方ない人たちが数多くいたということなのだろう。哀れなものだ。が、そんな人たちによる政治的圧力のせいで、精魂込めた展示が台無しにされてはたまったものではない。

 ところで、マザーグース「Ring-a-Ring-o’ Roses(薔薇の花輪を作ろう)」は、次のようなもの。

 

Ring-a-ring o’ roses,(バラの花輪を作ろう)

A pocket full of posies,(ポケットにいっぱいの花)

  A-tishoo! A-tishoo!(ハックション! ハックション!)

We all fall down.(さあみんな たおれちゃおう)

※       原文は『マザー・グースのうた 第二集 ばらのはなわを つくろうよ』より。( )内は遠藤拙訳。日本語訳のお手本は谷川俊太郎。

 

『マザー・グースのうた 第二集 ばらのはなわを つくろうよ』谷川俊太郎訳、堀内誠一イラストレイション、草思社、1975年、後付4ページ ※Ring-a-ring o’ rosesの、oの前に“-”がないのは、原文ママです。

 

 途中の、くしゃみをするところで笑ってしまう。マザーグース、面白いな。

せっかくだから、日本語訳は谷川俊太郎訳を参考にして自分でつけてみた。かっこでくくったのがそれ。当たり前だけど、難しかった。でも面白い。

 

【書誌情報】

松岡希代子「絵本作家レオ・レオーニの誕生と『あおくんときいろちゃん』」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.170-177

「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし

遠藤知恵子(センター助手)

2024年7月26日金曜日

ムナーリとレオーニ(43)

1958年① ムナーリ

 ブルーノ・ムナーリとレオ・レオーニの年表を読むこの不定期連載、1か月ぶりに再開しよう。

 久しぶりなので、今回と次回はひとりずつ、ゆっくりと読み進めていこう。まずはムナーリの年譜から。

 1958年、ムナーリは51歳になる。グループ展を4回と個展を2回開催し、ムナーリが関わった書籍も3冊出版されている。3冊の本のうちの1冊、『今日の芸術の記録 1958』には、《旅行のための彫刻》のテキストと三次元のオブジェが挿入されていたという。本に立体的なオブジェを挿入?此は如何に?と、図録のページをパラパラと繰って図版を探したが、見当たらなかった。だが、《旅行のための彫刻》ならいくつか載っている。厚紙を折ったり切ったりして立ち上がらせた立体作品である。折りたたんで持ち運ぶことができる。図版で見るムナーリの作品は、持ち運びできるサイズであるにもかかわらず、元気いっぱい、飛び出してくるように見えた。

面白そう、私もやってみたい!旅行のお供に、連れて行きたい!!と、ちょうど、お菓子の空き箱から切り出した厚紙がたくさんあったので、図版を見ながらカッターでキコキコと切れ目を入れ、見よう見まねで折り曲げてみた・・・が、どうにもこうにも、ちまちまとした、真面目くさった感じになってしまい、さまにならない。

(ブルーノ、難しい・・・難しいよ・・・。)心の中で《旅行のための彫刻》の作者に呼びかけながら、いじり過ぎてぐちゃぐちゃになってしまう前に手を止めた。

この年の7月、ムナーリはミラノの自宅で美術評論家の瀧口修造(1903-1979)の訪問を受ける。図録に収録された有福一郎「日本におけるブルーノ・ムナーリ」によると、この訪問で瀧口は《偏光の映写》や《折りたたみのできる彫刻》などの作品と出会ったそうだ(p.317)。それから2年後、先の有福によると、滝口が運営委員を務めていた東京の国立近代美術館、草月アートセンター、そして産経会館国際ホールでムナーリの《偏光の映写》の上映会が開催されることとなる。日本における本格的なブルーノ・ムナーリ受容は、このくらいの時期に始まったようだ。

 

【書誌情報】

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357

有福一郎「日本におけるブルーノ・ムナーリ」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.316-323 ※執筆担当者の表示なし

遠藤知恵子(センター助手)

ムナーリの《旅行のための彫刻》を
真似して作ったオブジェはこちらです。


2024年6月13日木曜日

猫村たたみ、朝ドラ読書会

『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』
井上ひさし 文 いわさきちひろ 絵 講談社 2006年

皆さまは、朝ドラ(NHKの連続テレビ小説)はお好きかにゃ? 私は大好きなのにゃ!

猫村たたみ:
センター三文庫の守り猫(ねこまた)。
書物をこよなく愛する図書館司書であり、
昭和初期にはタイピストとして働いていた
経歴をもつ。趣味は写真と旅行とダンス。

いま放映中の『虎に翼』は女性として日本で初めて弁護士、そして裁判所所長ににゃった三淵嘉子さんをモデルにしたお話なのにゃけど、法律って社会に必要なだけにゃなくて、人々の人生を左右するのにゃね〜。とっても興味深くて、どんなに悲しい展開が続いても観ないではいられないのにゃよ。

 敗戦後、ドラマのヒロイン、寅子ちゃんが日々の生活に追われる姿を見るのはつらかったのにゃ〜。愛する夫の戦病死を知ってもきちんと悲しむこともできないほど疲弊してしまうのにゃよ。戦争って残酷なのにゃ。にゃけど、亡くなった夫君との思い出の焼き鳥を包む新聞紙に新しい憲法が印刷されていて、その新憲法に力を与えられて寅子ちゃんは法曹界に舞い戻るのにゃ。私、それを見て感激したのにゃ!

 あの神回のあと、無性に日本国憲法を読みたくにゃって、うちの本棚にあった『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』を、引っ張り出したのにゃ。

何故にゃらば、この本の末尾には、付録として日本国憲法の全文が収録されているのにゃよ。寅子ちゃんを勇気づけた第一四条【法の下の平等、貴族の禁止、栄典】(58ページを参照にゃ)をじっくり読んで、噛みしめたのにゃ。

今日は、付録だけにゃなくて、本文を読むのにゃ! もしよろしければ、皆さまもご一緒にいかがかにゃ?

 

 この本の前半部分は、作家の井上ひさしさんが憲法の前文と第九条を、それぞれ詩的で易しい言葉に置き換えて表現したものを、いわさきちひろさんの描いたお花や子どもたちや小鳥たちの絵と組み合わせたページにゃ。誰もが戦争に苦しまずに天寿をまっとうできる世の中になるようにという願いを込めて、憲法を日常語に翻訳しているのにゃよ。

後半は「憲法って、つまりこういうこと」という、日本国憲法そのものの説明にゃ。この後半部分では、戦後、新憲法の施行にあたって当時の文部省が子どもたちに配布した「新しい憲法のはなし」のことも紹介されているのにゃ。『虎に翼』の寅子ちゃんは日本国憲法を手で書き写していたのにゃけど、当時は大人も子どもも同じスタートラインに立って、新しい憲法について学んだのにゃね〜。

 もちろん、1947年に新憲法が施行されたからって、その年を境にみんなの暮らしが変わるわけではないのにゃ。その後の復興の過程でだんだん社会が変わって、生活も変わっていくのにゃね。復興までにはたくさんの犠牲が払われるのにゃけど、寅子ちゃん、どうかめげずにお仕事がんばってにゃ~!

猫村たたみ

2024年6月6日木曜日

ムナーリとレオーニ(42)

1957年


 今回も、年譜を読んでいこう。まずは、レオーニから。
 1957年、レオーニは妻ノーラとともにインドへ。3か月滞在し、『Fortune』1957年5月号にインドの産業についての写真ルポルタージュを寄稿した。同号の表紙には、レオーニが撮影した西ベンガル州ドゥルガプル・ダムの写真が使用されており、図録で図版を確認することができる。こうした、いかにもビジネス誌らしい記事や表紙についての記載を読んでいると、後年の絵本の仕事とのギャップを感じてしまう。でも、本当は、これは驚くようなことではない。レオーニはヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世商業技術高等学校卒業、税理士の資格を持ち、ジェノヴァ大学経済商業学部を卒業するときにはダイヤモンド産業に関する論文を書いていたのだった(「レオ・レオーニ 年譜」1930年の事項、および森泉文美「『Fortune』での仕事」55ページを参照)。レオーニは学生の頃に学んだことを、20年以上の歳月を経て、アートの仕事に活かしている。
 一方、1957年のムナーリは、個展を2回開催している。1月にパリのクリストフル画廊でおこなった「直接の映写」の展示と、9月にミラノのサン・バビラ書店でおこなった展示である。また、この年に開催された第11回ミラノ・トリエンナーレでは、〈読めない本〉で金メダルを受賞。MACのグループ展も健在である。
 ところで、連載42回目にして気づいたことがある。このところ、ムナーリは毎年のように個展を開いているけれど、基本的に画廊か書店を会場としていて、百貨店を会場とする展示は年譜に一つも書かれていない。日本では明治の終わりごろから三越や高島屋といった百貨店が展覧会を開催するようになっており、歴史的に見ても、日本の美術展覧会に百貨店は欠かせない存在と言えるのだが、海外ではそうでもないのかもしれない。
 話をムナーリに戻そう。この年、ムナーリがデザインした《灰皿:クーボ》が発売されたり、パリで開催された「イタリア・インダストリアル・デザイン」展図録のグラフィック・デザインを監修したり、デザインの分野でも引き続き華々しく活動している。でも、私個人としては、『ドムス』誌332号に掲載されたという〈おしゃべりフォーク〉が一番気になる。おそらく既製品であろう、何の変哲もないフォークの歯を曲げるだけで(図録の249ページ、塚田美紀氏のコラムによると柄も曲げているらしいが、正直なところ、ちょっと見ただけだとよく分からない)、フォークがヒッチハイクしたり、煙草をくゆらせてみたり、乙に澄まして鑑賞者に背を向けてみたり(背中で語るフォークである)、人間の手のように表情豊かなものになる。ちなみに、図録の掲載図版をよく見てみると、ヒッチハイクのときのフォークは右手を、煙草を持つときのフォークは左手を演じている。ムナーリの〈おしゃべりフォーク〉は右利きだったのだろうか、それとも左利きだったのだろうか。

【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357
「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし
遠藤知恵子(センター助手)

2024年5月30日木曜日

ムナーリとレオーニ(41)

1956年

 前回の補足になるが、「ブルーノ・ムナーリ年譜」によると、『闇の夜に』は1955年に出版されているが、図録に図版が収録された初版本の出版年は1956年と表示されている。また、同じ『闇の夜に』がもとになっているらしい、白い正方形のフレームに収められたコラージュ作品の図版も、4点収録されている。

 これら4点のコラージュ作品は、1967年のものである。個展から12年も経ってから作られたものだから、当時のものとは別の作品なのだろうなと思うけれど、真っ白な背景に、貼り込まれた黒や茶色の紙がよく映える。黒い紙の部分には梯子を担ぐ人や猫の姿が青いシルエットで描かれていて、暗闇のなかをとことこ歩いたり、猫どうしベンチに座って頬を寄せ合ったり。図版4点のうち2点は、吹き出しに台詞が一言入っているけれど、真黒な背景に青い文字で書かれた言葉が何やら秘密めいているように見えてしまう。絵柄の興味深さはもちろんのこと、鋏かカッターで切った直線と手でちぎった曲線、くしゃくしゃっと丸めてできたしわなど、紙の質感が存分に活かされているのもこれらのコラージュ作品の魅力である。この『闇の夜に』は雑誌『アイデア』17号に取り上げられた。『アイデア』は、1954年に《凹凸》などの作品を紹介していた日本の雑誌である。

 1956年の年譜を読んでいくと、まず、2月2日、動画作家のマルチェッロ・ピッカルドと共に企画した「工作は簡単」というテレビ番組の初回が放送される。作品展示は個展を一回開催。展覧会名は「空想のオブジェの理論的再構成」、場所はミラノのサレッタ・デッラルテ・サン・バビラである。また、エンツォ・マーリとともにデザインしたエスプレッソ・マシン《ディアマンテ》がデザイン・コンペで優勝する。テレビ番組の企画とか、コンペで優勝とか、ムナーリの活躍ぶりがすごすぎて、このあたりの事項については、読んで意味を理解することはできても、想像することができない…。

 同じ年、レオーニも賞をもらっている。オリヴェッティ・サンフランシスコ店のデザインを建築家のジョルジョ・カヴァリエーリと一緒に前年の1955年におこなっていたのだが、それがArchitectural Leagueの金賞を受賞したそうだ。オリヴェッティはタイプライターの製造・販売会社であるが、レオーニはサンフランシスコ店のほかにシカゴ店のデザインも担当した。森泉文美「オリヴェッティ・アメリカ支店との仕事」(p.76)によると、「当時オリヴェッティのショールームは現在のアップルストアのように製品と展示空間の両方を体験できる場として捉えられて」いたそうだ。森泉によると、サンフランシスコ店が評価されたポイントは「展示の組み換えが可能な流動性」と「愉快さをともなった秩序」。「愉快さをともなった秩序」には、森泉のテキストに鍵括弧がついていてArchitectural Forum1954年7月号や1956年3月1日付のNew York Timesといった参照文献を、註で示している。

 レオーニの図録を読んでいて、オリヴェッティのショールームはアップルストアのような場所、という森泉さんの形容があまりにも分かりやすくて思わず笑ってしまった。もちろん、1956年当時、アップルストアはまだ登場していない。初代Macintoshが発売されたのは1984年、Windows OSの登場は1985年と、ずっと後のことである。レオーニとムナーリの壮年期はコンピュータがまだ遠い存在だった時代で、タイプライターが当たり前に使われていた。そういえば、1960年代のミシシッピを舞台とした映画『ヘルプ 心がつなぐストーリー』(2011年、アメリカ)でも、主役のゲイリー・オールドマンがチャーチル元首相そっくりでびっくりした『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』(2017年、イギリス)でも、原稿を作るときにはタイプライターを使っていた(映画で観るタイプライター、格好良かったな…)。

触れたことすらないタイプライターだが、映画であの、ちょっとうるさいガチャガチャという音を聴くと、郷愁を感じてしまう。

 

【書誌情報】

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357

「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし

遠藤知恵子(センター助手)

2024年5月23日木曜日

ムナーリとレオーニ(40)

1955年 

 1955年のムナーリは、3つのグループ展に参加し、個展も3回開催している。また、前年にアメリカ(ニューヨーク近代美術館とレオ・レオーニの写真スタジオ)で上映した〈直接の映写〉を5月にローマ国立近代美術館で開催しており、この年に開いた3つの個展のうちの一つは、フィレンツェ、ヌーメロ画廊で行われた〈直接の映写〉の展示である。MACでの活動ももちろん続いているし、ニューヨーク近代美術館ではアルヴィン・ラスティグ(1915-1955)との二人展を開催している。コンパッソ・ドーロ賞も2年連続で受賞した。ものすごく活躍していて、評価もされている。しかし、個人的には、そうした業界からの評価よりもずっと、ミラノのモンテナポレオーネ6A画廊で開催された「闇の夜に」展が気になる。この個展は、同年に出版された絵本『闇の夜に』の展覧会だという。年譜では「本を素材にした、子供部屋に飾るコラージュも展示する」(p.346)と説明されているのだが、本が素材になるとは、一体、どういうことだろうか。どんな展示だったのだろう。年譜に書かれるくらいだから、ネット上のどこかに写真画像くらいあってもおかしくないのだが、見つからない。…仕方ない、今回はペンディングということにしておこう(展示風景の画像よ、いつかきっと、この手で見つけ出してやるからな!)。

 ムナーリが1945年から子どものための絵本を制作していたのに対し、レオーニが子どもに向けた絵本を作るのはもう少し後になってからである。

1955年のレオーニは、MoMAで開催された「The Family of Man(人間家族)」展のポスターと図録をデザインした。当時の写真部門のディレクターだったエドワード・スタイケン(1879-1973)が企画したこの展示は、MoMAのウェブサイトで検索すると、“the exhibition took the form of a photo essay” (*)、すなわち、この企画展はフォト・エッセイの形式を取ったとのことである。会場での展示は、人の誕生から死までの普遍的な営み(衣・食・住、遊び、労働、戦争と平和など)を表す写真を通じて、人類の連帯をストレートに呼びかける内容だった。MoMAのサイトで展示風景を見ることができるが、いかんせんキャプションの文字が小さすぎて読めない。こんなふうに過去の展示について知りたくてもどかしい思いをするとき、図録というものがいかに貴重な資料であるかを身にしみて感じるのである。

レオーニがデザインした「The Family of Man(人間家族)」展図録について、森泉文美は「だれも知らなかったレオ・レオーニ」で「左右非対称性、不規則性、大小のコントラスト、大胆な裁ち落としなどが用いられ、レオらしいレイアウト」(p.207)と評する(おっしゃる通り!)。そして、文字の配置も絶妙なバランスである。ページをめくるごとに動きがあって楽しい。上述のMoMAのサイトによると、写真の撮影者は273人、国にすると68か国。写真とともに組まれている言葉もまた、さまざまな国や地域の著述家の言葉から選ばれている(旧約聖書、ジェイムズ・ジョイス、プエブロ・インディアンの知恵の言葉、エウリピデス…)。日本からの選出は、岡倉覚三の『茶の本』と空海の『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく。密教の奥義を記した書物)。『茶の本』はもともと英語で書かれた本だが、岡倉の『茶の本』に見られる『秘蔵宝鑰』からの引用と「The Family of Man(人間家族)」展図録での引用が、まるきり同じ“Flow, flow, flow, the current of life is ever onward”なので少々驚いた。ちなみに、現代語訳を『茶の本』で確認すると、「往く、往く、往く、往く、生命の潮流は停ることがない」で、原文は「生生生生暗生始」(**)。MoMAのキャプションは『茶の本』からの孫引きなのだろうか? それとも、フェノロサのような仏教徒となった人たちか、欧米の研究者のうちの誰かが先に英訳していて、岡倉もその訳に倣ったのだろうか?

今回は、時間をかけて調べたくなるような疑問が二つも出てきた。1955年は、面白い年である。

 

【書誌情報】

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357

「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし

The Family of Man. Museum of Modern Art, New York, 1983(30th anniversary ed).

*“The Family of Man.” MoMA.

https://www.moma.org/calendar/exhibitions/2429 (参照2024年5月16日)。

**岡倉天心『英文収録 茶の本』桶谷秀昭訳、講談社学術文庫、1994年。英文・現代語訳・原文の引用はそれぞれ、p.149、p.84、p.104。

遠藤知恵子(センター助手)

2024年5月16日木曜日

ムナーリとレオーニ(39)

1954年

 1954年、レオーニはMoMAの展覧会「アメリカのグラフィックデザイナー4人展」(Four American Graphic Designers 2月9日-4月4日)に参加した(*)。参加したデザイナーはレオーニのほか、ベン・シャーン(1898-1969)、ノエル・マーティン(1922-2009)、ハーバート・マター(1907-1984)。この展示について、図録に収録された森文美「グラフィックデザイン:アメリカ時代」ではこんなふうに解説している。


1954年MoMAで当時もっとも実験的なグラフィックデザイナーの広告デザイン展が開催された際にも、社会的な事件を扱った作品で知られるベン・シャーン、フォトモンタージュの先駆者ハーバート・マター、美術館の図録デザインを一新したノエル・マーティンと共に取り上げられました。(p.38)

 

私がいま年譜を読んでいる図録『だれも知らないレオ・レオーニ』には、『Fortune』1954年6月号の記事レイアウト「7人の画家と1つのマシン」が掲載されている。ベン・シャーンもこの企画に参加しているのだが、最新の石炭採掘マシンを7人の画家が描くという面白い試みで、図録で確認できる4点の絵を見ただけでも、とても同じ機械を描いたとは思えないくらい個性豊かだ。図録ではこれを、レオーニが『Fortune』誌上で行なった「実験的な企画」(森泉文美「だれも知らなかったレオ・レオーニ」p.209)の例として紹介しているのだが、間違いなく、実験は大成功!である。

 この年のレオーニは、『Sports Illustrated』のデザインを手がけたほか、ニューヨークのパーソンズ・デザイン学校のグラフィック・広告デザイン学部長を務める。また、三越の展覧会のため来日した。

 一方のムナーリは、この年、ピゴンマ社の玩具《子ざるのジジ》で第1回コンパッソ・ドーロ賞(工業製品を対象とするデザインの賞)を受賞する。そして、思わず叫びそうになったのが、次の一文。

 

ニューヨーク近代美術館とレオ・レオーニの写真スタジオで〈直接の映写〉を上映する。(p.346)

 

 レオーニの年譜では、一言も触れられていなかった(とはいえ、レオーニの図録はムナーリのそれと比べて小さいし、ページ数もやや少ないから、致し方ないことではある)。それにしても、年譜を読むようになって初めて、二人の接点に直接触れる文を見た。

 《直接の映写》はスライドにさまざまな素材をはめ込み、プロジェクターで白い壁に直接映写する。羽・糸・色付きセロファン・紙・布・植物の一部といった素材を透った光でえがく、重さのない絵だ(**)。映写機とスライドとちょっとした素材があれば、誰でも好きなときに、好きなところに、光の絵を表現することができる。カンバスや板などの支持体からも解放され、どこまでも身軽な創作活動である。

光でえがくというと、現在のプロジェクションマッピングを連想しそうになるけれど、《直接の映写》は最小限の手仕事を伴う、手作りの光である。ものを作るということを軽やかに楽しむことができるという点で、《直接の映写》は人間の創造の喜びに寄り添ってくれる装置だと言うことができそうだ。出来上がった光の絵を楽しむのはもちろんだが、それと同じくらい、過程が大事なのだろう。

1954年のムナーリはこの《直接の映写》の上映のほか、3つのグループ展に参加し、1つの個展を開いている。また、日本で出版されている『アイデア』第4号にムナーリの《凹凸》などの作品が紹介される。『アイデア』は1953年に創刊された誠文堂新光社の広告美術を扱う雑誌(***)だが、それに掲載されたという《凹凸》は吊り下げ式の動く彫刻、モビルにしか見えない。広告美術と一体どんなかかわりがあるのだろうかと図録をパラパラめくって眺めていたら、ルカ・ザッファラーノの「ブルーノ・ムナーリ:変容し続けるかたちのクリエーター」という論考に「工業製品であるメッシュという物体は」(p.302)という文言があるのを発見した。この作品について言及するなかで出てきたフレーズである。

…なるほど、そういうことか!

作品の素材は、その作品が成立する背景や、作品そのものが意味する何事かを暗示するメタファーになることがある(その点、架空の空間を巧みな筆遣いによって虚構するたぐいの、写実的な絵画作品とは大きく異なっている。その種の絵画作品を見るとき、鑑賞者はその筆致のすばらしさに感動することもあるけれど、基本的には絵の具やカンバスといった物質の存在は無視して作品に描かれた空間を思いながら画面を見つめる)。ムナーリはグラフィックデザインや工業デザインなど、経済という大きな機械を回す歯車となるデザインと深いかかわりを保ちつつ、作品づくりをしている。だから、経済活動を視覚的に支える広告美術を扱う雑誌と、工業製品を素材とする《凹凸》という作品はとても近しい間柄にあるのだ。この点においては、レオーニの作品づくりについても、同じことが言える。ムナーリもレオーニも、経済の歯車をくるくると忙しく回し、同時に自分自身も社会を回す歯車となりながら、楽しげなデザインの仕事を続けているのである。

 

【書誌情報】

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357

「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし

ルカ・ザッファラーノ執筆、田丸公美子訳「ブルーノ・ムナーリ:変容し続けるかたちのクリエーター」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.299-306

*“Four American Graphic Designers.” MoMA.

https://www.moma.org/calendar/exhibitions/3313, (参照2024年5月9日)

** 盛本直美「直接の映写」(p.135)およびスライドの図版《直接の映写》(1951年、pp.134-135)を参照。

***小野英志“『アイデア』.”アートスケープ.https://artscape.jp/artword/5468/, (参照2024年5月9日)

遠藤知恵子(センター助手)

2024年5月9日木曜日

ムナーリとレオーニ(38)

 1953年

 今回も、ムナーリの年譜を見ていきたい。

 1953年のムナーリは、6つのグループ展に参加し、個展を1回、開催している。年譜からはムナーリの活動の中心地はヨーロッパだったことがうかがえるが、この年はニューヨークでも、個展とグループ展を1回ずつ開催している。この年は展覧会だけでなく、映像の上映(《直接の映写》10月13日、ミラノ、ストゥディオB24)も行なった。さらに、この年から1954年まで、MACの会長を務めることになるなど、ムナーリの年譜はどの年を見ても盛りだくさんである。

 個展はイタリアン・ブック・アンド・クラフトで5月14日に開催された「読めない本——ブルーノ・ムナーリの読めない本とコラージュ」というタイトルのもので、ムナーリは『読めない本No.20』を制作したそうだ。グループ展は「建築・デザイン部門 1946-1953年新収蔵品展」(12月23日-翌年2月22日)というもので、ニューヨーク近代美術館で開催された。同館は1929年に開館し、建築・デザイン部門は1932年に設置された(ちなみに、1932年のムナーリはといえば、未来派の一員であると同時に新進気鋭のデザイナーでもあり、『カンパリの吟遊詩人』第5集の挿絵を手がけていた)。

 MoMAのホームページで公開されている、「建築・デザイン部門 1946-1953年新収蔵品展」の作品リスト(*)には、Graphic Designという分類のもと、ムナーリが寄贈したというレターヘッド(c. 1950)が記載されている。また、MoMA所蔵のムナーリ作品一覧(**)には、1935年制作と推定されるレターヘッドが3点載っている。1953年に展示されたものとは別のレターヘッドのようだが、面白いことに気がついた。3点とも、“Mazzotti Ceramics letterhead(Letter from Tullio Mazzotti to Luigi Scrivio”という名で、建築・デザイン部門の収蔵品と表示されているのである。ここに見られるTullio Mazzottiという名前には、覚えがある。

 MoMAの収蔵品となったレターヘッドを用いて手紙を出したTullio Mazzottiは、「ブルーノ・ムナーリ年譜」では「トゥッリオ・ダルビゾラ」(p.342)、「レオ・レオーニ 年譜」では「アルビソーラのトゥーリオ・マッツォッティ」(p.216)の名で登場する、あのTullio d’Albisolaである。ムナーリは1927年に、レオーニは1929年に、同じTullio Mazzottiのもとでそれぞれ陶芸を学び、制作していた。

 ムナーリとレオーニの年譜を読み比べるこの連載はもともと、「ムナーリとレオーニが、もしも今の日本のどこかの美術館で二人展を催したなら、どんな展示構成になるだろう」という思いつきから始まった。わずかな予備知識しかもたないなかで彼らの年譜を読み比べ、読み進めてきて、ふたりの共通点を初めてはっきりと意識するようになったのは、このTullio Mazzottiがきっかけだった。MoMAのサイトで再びこの名前に、しかもムナーリの作品を通じて出会うことになるとは思いもしなかった。


 ところで、去る5月5日はレオーニの114回目の誕生日だった。ちょっと遅くなってしまったけれど、今度の週末、エスプレッソとマリトッツォで、こっそりお祝いしよう。


【書誌情報】

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357

「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし

*“Recent Acquisitions, 1946–1953: Department of Architecture and Design.” MoMA.

https://www.moma.org/calendar/exhibitions/1796 (参照2024年5月9日)

** “Works.” MoMA. https://www.moma.org/artists/4163#works (参照2024年5月9日)


遠藤知恵子(センター助手)

2024年5月2日木曜日

ムナーリとレオーニ(37)

1952年

 1952年のムナーリは、2つの個展を開催し、8つのグループ展に参加している。個展・グループ展を1年のうちに全部で10回開催。これまで見てきたなかで、一番、展覧会の多い年なのではないだろうか。

2回あった個展のうちのひとつは「彫塑的な四角い絵画と新しい役に立たない機械」(3月15-30日、ミラノ、ベルガミーニ画廊)というもの。1950年のモッタ社のパヴィリオンでもこの〈役に立たない機械〉シリーズは健在だったが、「新しい」という形容のついた1952年の〈役に立たない機械〉はどんなものだったのだろう。《役に立たない機械》を年譜で確認できるのは1930年以降。20年以上ものあいだ、「役に立たない」ことを続けるのは、結構大変だったのではないだろうか。

8回あったグループ展のうち、5つの展覧会タイトルに「具体」や「MAC」といった言葉や文字が見られる。ムナーリは1948年に設立したMAC(具体芸術運動)にも引き続き参加しているのだが、個人的に、ちょっと面白いなと思うのが、この一文である。

 

「機械主義宣言」、「総合芸術宣言」、「解体宣言」、「有機的芸術宣言」が掲載されたMAC会報『具体芸術』10号が出版される。(p.346)

 

 「宣言」が4つもある。この一文を読んで、「宣言と言えば、未来派だよね」などと思いながら年譜を遡っていたら、1938年のところに「「機械主義宣言」をまとめる。(発表は1952年)」(p.344)と書いてあるのを見つけた。ムナーリは第二次世界大戦中に、未来派とは距離を置くようになったそうだが(盛本直美「未来派」p.30)、当時の芸術運動と完全に決別してしまったわけではなく、連続性を保ちながら次の運動に進んでいることが分かる。

なお、レオーニの年譜には、「1952年」と「1953年」がない。その間もレオーニが忙しく活躍していたことは間違いないが、目新しいことを始めるというよりは、前の年や、その前からやっていたことに引き続き取り組んでいた期間だったのかもしれない。

 

【書誌情報】

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357

「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし

 

遠藤知恵子(センター助手)

2024年4月26日金曜日

ムナーリとレオーニ(36)

1951年②

 

 レオーニは1949年から『Fortune』誌の社外アートディレクターを務めていたが、この年、同誌の誌面全体のレイアウトを一新した。図録に収録された森泉文美による解説「『Fortune』での仕事」(pp.55-56)によれば、リニューアルは9月号を境に行われたとのこと。

1冊ごとの流れも、こんなふうに見直したという。

 

雑誌全体の構造に関しては、広告と本文をわけ、目次、約70ページにわたる広告、最新情報と前号の評、特集記事、そして最後にまとめ的なコラム、という流れが作られました。(p.56)

 

 記事を読んでいる最中に、本文を広告に分断されたらきっと鬱陶しく感じるはず。広告と本文が分かれているというのは、雑誌の記事をじっくり読みたい読者としては嬉しいことである。また、広告デザインに興味を持つ人からしてみれば、本文から切り離された「約70ページにわたる広告」のゾーンで、多種多様な広告を見比べることができたのではないだろうか。

表紙の「構造」も面白い。

 

表紙タイトル上部にはギリシャ神殿のファサードのような「フリーズ」と呼ばれる帯が設けられ、表紙下部とは違う作家によるコメント的な絵が加えられるようになりました。(p.56)

 

 図版には、この「フリーズ」のある表紙2点(1957年7月号・同年5月号)が掲載されている。タイトルの「FORTUNE」の文字を境界線として、「フリーズ」は表紙全体の上部15パーセントくらいの面積を占めている。ミクロの世界とマクロの世界、あるいは、人々の暮らしと産業といったところだろうか。同じ画面に異なる二つのストーリーを感じさせるものが描かれているのが面白い。

 こんなふうにして『Fortune』をリニューアルした1951年、レオーニは第1回世界デザイン会議の議長に選ばれたそうだ。場所は、コロラド州アスペン。

 え?1951年に第1回世界デザイン会議…? 1960年の東京開催が第1回じゃなかったの?と、頭のなかを「?」でいっぱいにしながら、グーグル検索でキーワードをとっかえひっかえして、ようやくヒントにたどり着いた。「紙の竹尾」のwebサイトの「竹尾の紙とデザインの歴史」という年表のページである。このページに記載された1951年の海外の動向のなかに、「アスペン国際デザイン会議設立」の言葉を見つけた。

この「アスペン国際デザイン会議」を検索語としてさらに検索してみたところ、アートスケープのwebサイトで「世界デザイン会議」を解説するページにたどり着いた。

 このページ自体は1960年の世界デザイン会議を解説するものなのだが、その中に「アスペン会議」という言葉が出てくる。

 

戦後、デザイン界における日本人の活躍を背景として、56年のアスペン会議(アメリカ、コロラド州アスペンで行なわれたデザイナーの集会)において、日本での国際会議の開催が決議された、その結果として、第1回世界デザイン会議が、60年5月11日から16日まで、東京の大手町産経会館で開催された。

打集宣善「世界デザイン会議」

 

 ええと…つまり、1960年の「世界デザイン会議」東京開催を決議した団体ということで、この「アスペン会議」を「(本家)世界デザイン会議」として年譜に記載したということだろうか? 本家などと言うと、なんだか老舗の和菓子屋さんのようである。

 …そんなわけで、レオーニと世界デザイン会議の関係をはっきり教えてくれる資料は、ネットではみつからなかった。今日のところはお饅頭でも食べて、ひとやすみしよう。

 

【書誌情報】

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357

「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし

打集宣善.“世界デザイン会議.”アートスケープ. https://artscape.jp/artword/6190/,(参照2024年4月18日)

“紙をめぐる話 竹尾の紙とデザインの歴史.” 竹尾. https://www.takeo.co.jp/reading/others/01_02.html,(参照2024年4月18日)※

※紫牟田伸子編『紙とデザイン——竹尾ファインペーパーの五〇年』(竹尾、2000年)巻末附録を再録したもの。

 

遠藤知恵子(センター助手)