小学一年生の時だったかと思う。
当時私は、東京都国分寺市周辺に暮らしていた。
ちなみにその二年後に、宮城県へと父親の仕事の関係で引っ越すことになるのだが、その頃の私は知る由もない。
幼馴染と言える友人たちと遊び、日々を過ごしていた。
そんなある日、友人たちとの会話の中でバレンタイン・デーの話題が出る。
バレンタイン・デーはヴァレンティヌスという人の処刑された日である。ヴァレンティヌスは、皇帝の許可なく、愛し合う恋人たちを結婚させた聖人だそうだ。
しかし、当時の私も、私の友人たちもそんな知識は一切持ち合わせていなかった。
ただ、女の子が気になる男の子にチョコレートを贈る日だという認識しかなかったのである。
その後、話の流れで、何故か「金田くん」という男の子に皆でチョコレートをあげようということになった。
「金田くんはチョコレートをもらえないかもしれない」という理由で。
ちなみに金田くんは仮名である。
今思えば、大きなお世話だし、大変失礼な話である。
そもそも金田くん以外にも男の子はいたし、その中で、何故、金田くんだけにスポットライトが当たったのかという疑問もある。
兎にも角にも、私は友達と示し合わせ、チョコレートを用意し、金田くんに渡しに行くことになった。固く約束をした後、その日は帰路に着いた。
そして、約束の日。
チョコレートを片手に、集合場所に向かった私は、友人たちの姿を見て仰天した。
私以外誰も、チョコレートを持っていない。
ギョッとしている私に構わず、友人たちは「じゃあ、行こうか」と何気ない顔をして、歩き始める。
私は頭が真っ白になっていた。何が起こったのか、全く分からない。
まず「何故私以外チョコレートを持っていないのか」という疑問が浮かんだ。
次に「何故皆涼し気な顔なのか」という疑問。
そして、「このままいけば、私は金田くんに誤解を受けないだろうか」という疑問も。
このように多くの疑問が頭に浮かびながらも、友人たちの後ろについて歩いた。
たどり着いたのは、小学校に近い、集合住宅地。
男の子たちが、家の前にある道でボール遊びに興じている。
そこには金田くんもいた。彼は、汗を流しながら遊んでいる。
状況は全く違う。
全く違うのだが、金田くんの姿を見た時、私は処刑台の前に立たされたマリー・アントワネットのような気持ちになっていた。
「おーい、金田くん」
固まっている私に構いもせず、友人たちは金田くんをご親切にも呼び出してくれた。
「律子ちゃんが渡したいものがあるんだって」
「余計なことを!」と友人に対して、心の中で叫ぶ。
しかし、小心者の私は何も言えない。
真っ赤な顔で、「こ、これ…あげる…」と蚊の鳴くような声とともに、チョコレートを差し出した。
金田くんは怪訝そうに、私の顔とチョコレートを交互に見ていた。
そして、少し間を空けてからチョコレートを受け取り、再び男の子たちの群れに戻って行った。
「良かったね」
そう言って、金田くんを呆然と見つめる私の肩を叩く友人。
心なしかニヤニヤしていた気がする。
「良かったね」と言えることは何一つ無かった。
むしろ、真っ赤な顔でチョコレートを差し出す構図は、「本当に私が金田くんに惚れている」ように見えないこともない。
いや、むしろ、そうとしか見えないのではないだろうか。
しかし、私はその時は「処刑直後」であったため、魂が抜け出ている状態だった。反論したり、怒り狂ったりする気力さえもなかったのである。
だから、肩を叩いた友人に対しても「う、うん…」と小さく返事を帰すだけに留まった。
そして、この話はその日の夜、急展開を迎える。
なんと金田くんが、チョコレートのお返しにハンカチを携えて私の家にやって来たのである。
チョコレートを渡した日、私は時間が経つに連れて、「恥ずかしさ」がエスカレーターのように徐々に高まっていった。
夕方になって、家に帰った時は「恥ずかしさ」という「恥ずかしさ」が体の中の血管の中を這いまわっている状態にまで陥っていた気がする。
クッションに頭を突っ込み、悶えている私を、母親は笑いながら宥めていた。
そして、夜。
突然、ピンポーンとチャイムを鳴らす音がする。
応答に出た母親が、私を呼んだ。
「金田くんよ」
その日、もっとも聞きたくないワード、第一位「金田くん」。
私はガタガタと震えながら、玄関に向かい、靴を履いて外に出た。
玄関を出ると、外は激しい雨が降っていた。風も強かった気がする。
外には大きな車が止まっていて、その車の前に金田くんがいた。
金田くんは黄色い雨合羽を被り、手には紙のラッピングのされている「何か」があった。
「これ、今日のお礼」
金田くんはどこか照れ臭そうに、その「何か」を差し出した。
私の心の中は、様々な感情の嵐が吹き荒れた。
「やめてくれ」と。「そんなの、受け取る資格ないんだ」と。
しっちゃかめっちゃかの、グチャグチャだった。
「あ、ありがとう」
しかし、ここでも私は何も言えなかった。小さくお礼を述べることしかできない。
私からお礼の言葉を聞くと、金田くんは嬉しそうに笑い、帰って行った。
トボトボと家の中に戻ってから、私は金田くんからの贈り物の包み紙を開ける。
ピンク色の下地に、ウサギの刺繍がある、可愛いハンカチ。
「可愛いじゃない。良かったわね」
お母さんがニコニコしながら、そう声をかけてくる。
しかしまだ私の中には嵐がたけり狂っていた。
「完全に誤解されたのでは」ということから来るいたたまれなさ。
「金田くん、嬉しそうだったな」という金田くんへの罪悪感。
「よくも」という友人たちへの怒り。
「良かったわね」と言えることは何一つなかった。
しかし、感情がないまぜになり、心が虚ろになっていた私は特に何も言わなかった。
ただ小さく「うん…」と頷くことしかできなかった。
今でもそのハンカチは、手元にある。
特にどうということもない。
ないのだが、そのハンカチを見ていると、あの頃の感情の嵐が血管の中を駆け巡る感覚を思い出してしまうのだ。
終わり
鳥飼律子
※青い字で書かれた氏名はペンネームです。
※青い字で書かれた氏名はペンネームです。