東京国立近代美術館 Room7-Room8 2019年6月4日-10月20日
東京国立近代美術館の常設展示室Room7で、小さな冊子を手に取った。「ご自由にお持ちください」の台に置かれた、簡素なホチキスどめの冊子である。
B5サイズの変形。表紙には横書きのタイトルが、下から上へ向かって読めるよう、印字されている。
The Essence of Japan Unearthed?
Unearthing the Past, Constructing the Future
「土」のなかに「日本」はあった?/掘り起こしたあとに、何が建ったか
英文和文併記の長いタイトルの下に、所蔵作品の一つである猪熊弦一郎(1902-1993)の《驚く可き風景(B)》(1969年、油彩・キャンバス、文化庁管理換)がプリントされている。
タイトルの文字と天地が同じ向きになるよう配置されたこの絵には、地中から地上に向って突き出た縦長の構造体(たぶん、高層のビルディング)と、地中に埋まっている横長の構造体(古代社会の遺構?)がリズミカルに配置されている。地上の世界は白い空、地中の世界は赤い土と塗り分けられており、構造体は黒・茶・ピンク・赤・白などで描かれる。地上の景と地中の景、いずれにしても、土地の景色がこの絵のモチーフである。
日本語では屋外の景色を風の景と書いて「風景」と呼ぶが、英語ではlandscape、地の景と呼ぶ。どちらかというと英語のlandscape(敢えて言うなら「地景」)ということばの方が、この絵に描かれているものに近い。
そして、この表紙絵、《驚く可き風景(B)》は、真ん中よりやや上のところで、タイトルと水平方向に山折りされている。描かれた「地景」のうち地下深くの様子は、冊子を手に取って折り目を開かないと見えないようになっているのである。表紙の折り返しは補強や見た目の美しさのためだけではなく、手に取った人に“折り目を開く”という小さな行動を起こさせる仕掛けでもある。それは一つのメッセージとなる――表面ばかり眺めていないで、ちょっとひと手間かけて、より深いところに意識を向けてみようよ、と。
この冊子と今回の展示は過ぎ去った過去の時間と現在の私たちが生きる時間を地層に譬える。1964年の東京オリンピックに象徴される戦後の復興の層と、東日本大震災からの復興五輪と位置付けられる2020年の東京オリンピックを間近に控えた、現在の私たちの時代の層。1964年の東京オリンピックの時代を振り返る作業を通じて、2020年の東京オリンピック後の時間を想像するよう鑑賞者を導く、といったところが、この冊子の主な製作意図なのだろう。
そうしたメッセージを担っているからだろうか、この冊子のテクストには、異なる時代や異なる地域といった異質なものどうしを重ね合わせて楽しみ、重ね合わせることによって発見する、という思考方法、「見立て」が満ちていた。
たとえば、子ども向けの美術書である久野健『みづゑ文庫 土器とはにわ』(美術出版社、1951年)の、埴輪の造形美についての解説から、冊子はこんな記述を引用している。孫引きになってしまうのだが、ここにもそれを引いておく。
すべてのものを、円筒形の中に、たくみに形づくり、それに物それ自身が持っているいのちを、いきいきと吹き込んでいるその巧みさは、ほんとうに、おどろくべきものがあります。ところが、これはピカソが主張している近代芸術の一派である立体派(キュービズム)の精神に通じるのです。立体派の根本的な理論になっている有名な言葉は、セザンヌが1904年にエミール・ベルナールに宛てた手紙の中に書かれています。
「自然は、球体、円錐体、円筒体として取り扱わねばならない…」
はにわは、今からおよそ千数百年前に、すべてのものを、円筒体として、取り扱った彫刻なのです。はにわが、今日もなお活き活きとした彫刻として、その生命を持ちつづけているのは、少しも不思議ではありません。
花井久穂企画・執筆『MOMATコレクション 1950s-1960s 「土」のなかに「日本」はあった?/掘り起こしたあとに、何が建ったか』(東京国立近代美術館、2019年)7ページより、久野健『みづゑ文庫 土器とはにわ』(美術出版社、1951年、49ページ)
すべてのものの形を円筒形へと還元してのける埴輪と、自然を球体や円錐体や円筒体として表現しようとするキュビスムを重ね合わせ、千数百年前の日本列島に住んでいた人たちが、「立体派(キュービズム)の精神」に通じる造形感覚を有していた、と、“西洋の進んだ美術”に“日本の埴輪”を重ね合わせ、現在も保ちつづけられている埴輪の「彫刻」としての美を発見する。
技術的な問題をすっ飛ばしていきなり「精神」を論じることの危うさは言うまでもないが、とにかくこうして、異質なもの同士を重ね合わせる想像力によって、土の中から掘り出された「日本」の価値を見いだしていたのだということが分かる。
要するに、埴輪をキュビスムの彫刻に見立てているわけだが、物事を分かりやすく説明する「見立て」は、様々な場面でみられる。いま引用した埴輪についての説明に近いもので、私が真っ先に思い付いたのは、つい最近まで使われていた国語教科書の「生き物は円柱形」という説明文だ。
地球には、たくさんの、さまざまな生き物がいる。生き物の、最も生き物らしいところは、多様だというところだろう。しかし、よく見ると、その中に共通性がある。形のうえでの分かりやすい共通性は、「生き物は円柱形だ」という点だ。
本川達雄「生き物は円柱形」
(『国語 5 銀河』光村図書出版、2011年、40-44ページ)40ページ
生き物の体の形に注目し、「円柱形」がどんな生き物にも共通する基本となる形であることを説明する。
ミミズやヘビは、円柱そのものだし、ウナギもそうだ。ネコやイヌのあしや胴体も、丸くて長い、つまり円柱形。植物だって円柱形だ。木の幹や枝、草のくきは円柱形。円柱形が集まって、全体が作られている。
同上
一見、円柱形に見えないものでも、よく見ると円柱形を基本として形作られている。そう説明したうえで、円柱形であることのメリットを、外部からかかってくる力に耐えて形を保てる強さと、移動するときの抵抗の少なさ=速さだと説明し、「円柱形は強い。円柱形は速い。だからこそ、生き物の体の基本となっているといっていいだろう」(同、44ページ)とまとめる。
生き物の形が円柱形を基本としているという主張の根拠を、強さや速さといった機能的な側面にのみ見出している点に、生き物の体を機械のようなものとみなしてしまう危うさがないわけではない。だが、この説明文は、「多様なものの中から共通性を見いだし、なぜ同じなのかを考えることも、実におもしろい」(同上)と締めくくられている。ここでの考察の原動力は「おもしろい」という気持ち、つまり好奇心なのだということが分かる。仮説を実証するために強いとか早いとかいった、功利的な事柄を挙げている割には、それを述べる動機は、好奇心を満足させる喜びなのである。
美術館でもらった冊子から国語教科書へ、話はずいぶん遠くまで来てしまった。でも、ついさっき引用した教科書の出版年を見て欲しい。2011年である。2014年度まで使用されていた。
この教科書は東日本大震災が起きる年に出版された。ということは、私たちがあの災害を経験する直前に刊行の準備が進んでいるのである。冊子に書かれている通りに、敗戦からの復興を強く印象付けるイベントだった1964年の東京オリンピックと、東日本大震災からの復興五輪と位置付けられた2020年の東京オリンピックとを、それぞれ一つの層と仮定するならば、「生き物は円柱形」は、1964年の東京オリンピックの層の一番上の部分に位置している。
戦後の復興の途上にあった時期の埴輪の「見立て」と、復興の記憶がほとんど薄れかかっていた時期の生き物の「見立て」。それぞれに「見立て」の動機は異なるけれど、同じ一つの時代の「層」に位置するものではある。どのような時代の「層」にあろうとも、人間の思考の働きは同じように続いていくのだし、経験や記憶も、同じように積みあがっていく。
だが、大きな危機を「層」の移り変わりの時期に見立て、そこに時代の切断面を見出すことにより、見えてくることもあるはずだ。そうやって、自分たちが生きている“いま、この場所”を理解しようと試みるのである。
私が美術館で手にした冊子もやはり、そうした試みの一つだったのだと思う。
遠藤知恵子(児童文化研究センター助手)
〈展覧会情報〉
MOMATコレクション 1950s-1960s
東京国立近代美術館 Room7-Room8 2019年6月4日-10月20日
〈配布冊子〉
花井久穂企画・執筆『MOMATコレクション 1950s-1960s 「土」のなかに「日本」はあった?/掘り起こしたあとに、何が建ったか』(東京国立近代美術館、2019年)
〈参考資料〉
本川達雄「生き物は円柱形」(『国語 5 銀河』光村図書出版、2011年、40-44ページ)