(1)「井上肇展 ―何処へ―」(千駄木画廊、2019.9.25~10.2)
良い絵だから、見てくるといいよ――と、この回顧展を薦めてくれる人がいた。千駄木画廊、駅からちょっと歩くけどね、と。
井上肇(1932-2009)の絵は、ずっと前に見たことがあった。集英社から刊行された「コレクション
戦争と文学」の『死者たちの語り』(2011年)の口絵として油彩画のカラー図版が収録されている。図版で見た絵も印象的だったが、実際の絵はそれ以上に、迫ってくるものがあった。
たとえば、『死者たちの語り』の口絵になり、この展示のサブタイトルにもなった〈何処へ〉。布でできた粗末な帽子が宙に浮いていて、帽子の中には蜂の巣がある。でも蜂の姿はない。蜂の巣の真ん中あたりから、帽子の顎ひもが下がっている。不思議な絵だった。帽子が宙を浮いているから不思議なのではない。この絵をじっと見ていると、細い顎ひもが、木の枝のように下から上へ、斜めににゅっと生えているように見えてくるからだ。そうして、地面から生えた顎ひもが、その先にある帽子と蜂の巣の重さを支えているように、錯覚しそうになる。
頭の中で整理し、理解している絵の図柄と、カンヴァスの表面から私の目に入って来て、じわじわと私の中にひろがってくる感覚とが、まるで逆なのだ。浮遊感があってしかるべき図柄なのに、不思議なバランスを保っていて、安定しているようにすら見える。
ちょっと風が吹いたくらいでは崩れそうにない――と、絵に対してなんだかおかしな言い回しをしてしまうのだが、そうなのだ。この帽子が蜂の巣と同居する、奇妙な果実に見えてくる。
カンヴァスに描きこめられた帽子のイメージは、カンヴァスの表面に現れる物質の存在感――薄く塗りつけてある画面は、油絵具に特有のてかてかした質感が抑えられていて、カンヴァス地の凸凹の肌触りが正直に現れている――によって、生々しくこちらに迫ってくる。物に備わっている確かな手ごたえが、現実にはありえないイメージを、こちらの目の奥にまで運んでくる。
井上は、兄の軍服を繰り返し何度も描いた画家だ。画廊の部屋には、同じ軍服を描いたらしい絵がずらりと並んでいた。帽子を描いた絵は会場にもう1枚飾られていて、その帽子からは鳥の脚が生えていた。見た瞬間、付喪神か、と思ってしまったが、たぶん違う。いや、もしかしたらそうなのかもしれない。人に聞かされたり本で読んだりした昔話のイメージや、目にした光景や、そのほかいろんなものの記憶が井上の中に堆積していて、それらのヴィジョンが、薄紙を重ねるようにして折り畳まれ、カンヴァスに描く図柄となった――きっと、そんなところだったのではないだろうか。
イメージの源泉を突き止めてみたい気持ちも湧いてくるが、それ以上に、井上の内部で起きた、イメージの変容のプロセスに心惹かれる。
繰り返し描かれた軍服の絵。イメージの変容は、繰り返し描き、繰り返し何度も新しく見直す、という行為の中に組み込まれていたはずだ。描きたい、という気持ちに従い、どう描くかを考えながら軍服に触れると、見慣れたはずのその軍服が、描くたびに新しく目の前に現れてくる他者――心の中で語りかけることのできる話し相手――となる。
井上は、描き、語りかけるごとに、軍服をふさわしい姿に見立てている。透明人間が軍服を着ているような、人の形をした空っぽの軍服を描くこともあれば、床に無造作に置いて山脈に見立てて描くこともある。描かれるごとに変わっていく軍服の姿に、井上がこの戦争の遺品を見つめてきた、長い時間を思わずにはいられない。
時間をかけて見続けること――見つめる先にあるものが別の何ものかに姿を変え、こちらの眼差しにこたえてくれるそのときまで、じっと。
満潮の時を待つように絵の前に佇み、そんなことを考えていたのだった。
遠藤知恵子(児童文化研究センター助手)
井上肇〈何処へ〉1979年、油彩、カンヴァス、89.4cm×1303cm
※ 〈何処へ〉を口絵として収録している『死者たちの語り』(コレクション
戦争と文学13、集英社、2011年)は白百合女子大学図書館で読むことができます[2階和書 918.6 / Ko79 / 13]。巻末の口絵解説、木下長宏「死者の声に背景はない」(702ページ)および「口絵紹介」(721ページ)に、モデルとなった帽子や画家の井上肇についての説明があります。
※ 井上肇の作品のうち、〈軍服〉が宮城県美術館の「洲之内コレクション」として所蔵されています。