1930年② ムナーリとレオーニが出会った未来派
前回に書いた、この部分から始めたいと思う。
さて、この1930年という年だが、ムナーリはほかに、アレッサンドリアのチルコロ・ウニヴェルシターリ・ファシスティで3月に開催された「未来派芸術展」、ミラノのミケーリ画廊で5月から6月にかけて開催された「第55回協会展」、ミラノのペーザロ画廊で10月から11月にかけて開催された「建築家サンテリアと未来派画家22人」展などに参加している。
ここにある3つの展覧会のうち、3つめの展覧会のタイトルに見られる「建築家サンテリア」だが、未来派に参加していた建築家のアントニオ・サンテリア(1888-1916)は、第一次世界大戦に従軍し、戦死してしまった。
未来派について語るときには、第一次世界大戦の前後で第一世代と第二世代に分けて論じるのが通例だそうなので、サンテリアは第一世代の人物ということになる。ムナーリはダルビゾーラの工房で陶芸作品を製作していたが、そのダルビゾーラ(トゥーリオ・マッツォッティ)もムナーリも、第一次世界大戦後のメンバー(第二世代)である。
「ブルーノ・ムナーリ」展図録の解説に、ムナーリが出会った時期の未来派についてこんなことが書いてある。長くなるが、引用したい。
1915年、ジャコモ・バッラとフォルトゥナート・デペロは、「未来派における宇宙の再構築宣言」を発表し、これまでの未来派の単なるダイナミズムや速度とは異なった、抽象的で総合的な形態への方向性を示した。この未来派の第2世代と言うべき動きには、エンリコ・プランポリーニら若い作家たちが加わり、続く20年代末から30年代にかけて、飛行の驚異的なスピードや、遥か上空から見下ろす視点による新しいビジョンを求めた「航空絵画」へと至る。同時にその活動領域は、建築、ファッション、エディトリアル・デザイン、写真や映画、演劇にまで広がっていった。(p.30 執筆者:盛本直美)
20世紀初頭における「飛行の驚異的なスピードや、遥か上空から見下ろす視点による新しいビジョン」を現代に置き換えるなら、ドローンを使って撮影した映像のようなものだろうか。新しい視覚体験による「航空絵画」を追及していったこの時期、未来派の活動領域が広がっていったという。
ところで、今年、多木浩二の『未来派 百年後を羨望した芸術家たち』(コトニ社、2021年)が刊行された。今回はこの本も参照したい。
多木はこんなふうに書いている。
一九〇九年(マリネッティの最初の宣言が出た年)から第一次世界大戦の終末までが、未来派の盛期であった。(p.97)
1909年から1918年頃までが「未来派の盛期」だとしたら、ムナーリが未来派の展覧会に初参加した1927年、この頃には旬が過ぎていたという見方がここにある。第一次世界大戦によって亡くなったメンバーはサンテリアの他にもおり、これらの芸術家たちを失ったことは、取り返しのつかない痛手だったということなのだろう。
話は変わるが、ムナーリが初期の代表作のひとつ、《役に立たない機械》を制作する前年の1929年に、マリネッティは『ムッソリーニの肖像』という本を書いている。1919年1月のスカラ座事件の打ち壊しに未来派グループが参加するなど、未来派はファシズムとの関連を無視しては語れない。多木は同じ本の中で、「とくにマリネッティはムッソリーニが殺されファシズムが終わるまで、ファシズムに忠実だったことは紛れもない事実である」(p.133)と書いている。ムナーリやレオーニが創作活動の第一歩として接近した未来派およびマリネッティは、そんな、第一次世界大戦後の未来派であり、マリネッティだったのである。
…歴史の重さを感じ、ちょっと震えてしまった。
【書誌情報】
l 『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年
l 多木浩二『未来派 百年後を羨望した芸術家たち』コトニ社、2021年
遠藤知恵子(児童文化研究センター助手)