出生から1925年まで① ムナーリとレオーニ
ここからは、「ブルーノ・ムナーリ」展(2018-2019年)と、「だれも知らないレオ・レオーニ」展(2020年)の、二つの展覧会図録の年譜を順に読んでいきたい。それぞれ異なる場所とタイミングで作られた年譜なので記述内容も少しずつ異なるのだが、そうした違いもありのままに読み、思ったことを記していこう。
ムナーリは1907年10月24日、イタリアのミラノで生まれた。レオーニはそれから3年後の1910年5月5日、オランダのアムステルダムで生まれた。二人とも、生まれたときは都会っ子だった。
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」(『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp. 342-357)によると、ムナーリは1913年に両親とともにヴェネト州バディア・ポレジネに移住している。ムナーリが6歳頃までを過ごしたミラノとは違い、静かなこの町でムナーリの両親はホテル経営をしていたという。そのホテルというのは、「エステ公爵家の旧邸のひとつ、パラッツォ・グラデニゴを改装したホテル」(p.342)だったそうだ。いま私の手元にある電子辞書の『ブリタニカ国際大百科事典』で「エステ家」を引いてみると、中世から近代まで中部イタリアのフェララ、モデナ、レッジョエミリアなどの地域を支配していた家系だった、ということがわかる。モデナ公国という国を領有していたが、1860年にサルジニア王国に併合され、エステ家による支配が終わったそうだ。サルジニア王国はリソルジメント運動(イタリア統一運動)の中心地であり、第二次イタリア独立戦争を経て、1861年にイタリア王国に転換した。イタリアには、古代の遺産を引き継いだ古い国というイメージがあるけれど、国家としては若いのだ。
ムナーリは、1925年(1926年という説もある)に両親から離れて1人でミラノに戻るまで、バディア・ポレジネで過ごした。
一方のレオーニだが、「レオ・レオーニ 年譜」(『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp. 216-219 執筆担当者の表示なし)によると、レオーニの父ルイス・レオーニはスペイン系ユダヤ人セファルディムにルーツを持ち、ダイヤモンドの研磨工を経て会計士となった人である。なんでも、「オランダのユダヤ人はダイヤモンド産業の中心的存在だった」
(p.216)のだそうだ。母エリーザベト・グロソウはオペラ歌手である。芸術を愛する大人が身近にいる環境だったようで、レオーニは「建築家の叔父ピート」からは絵の手ほどきをうけている。また、年譜には「大叔父のヴィレムは前衛芸術の収集家で、そのコレクションのうち数枚」がレオーニの家に置かれたとあり、少年レオーニのお気に入りは、「シャガールの油画」だったという(同上)。
また、後に見る通り、レオーニの年譜は引っ越しに関する記述が多い。1922年、両親がアメリカに移住し、レオーニはブリュッセルに移住した父方の継祖父と祖母の元に預けられている。また、その時期、「母方の叔母ミースの夫ルネがコレクションしたエルンストなど同時代の画家の作品に触れ、大きな影響を受け」たとのことだ(同上)。
1915年にレオーニが入学した当時のオランダの小学校教育は、「モンテッソーリ、フレーベル、ルソーなどの思想が取り入れられ、芸術や自然観察が重視された」(同上)とあり、自宅では小さな生き物を飼ったりテラリウムを作ったりしていたというのが面白い。「のちに自宅近くの国立美術館でデッサンをする許可を得る」(同上)ともあり、家でも、家の外でも、動植物と芸術作品が身近にある少年期を過ごしていたことが分かる。1924年、アメリカのフィラデルフィアにいる両親の元へ。ここでウィリアム・ペン・チャーター中学校に通うことになるが、翌年には父の転勤のためイタリアのジェノヴァに一家で移住する。この頃に漫画を書き始め、油彩画を描き始めたのもこの頃だという。「生涯の友となるイーゼルを購入」(同上)したのもやはり、1925年に移住したジェノヴァだった。
レオーニは15歳までにオランダ、ベルギー、アメリカ、イタリアの4か国に暮らし、それぞれの国の言語を身につける。ムナーリも引っ越しはしているものの、あくまでもイタリア国内での移動だったことを考えると、既に二人の違いが見えてきたようで、ちょっと面白いと思った。
【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp. 342-357
「レオ・レオーニ 年譜」森泉文美・松岡希代子著『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp. 216-219 ※執筆担当者の表示なし
遠藤知恵子(センター助手)