1926年-1929年 ①未来派との出会い
ムナーリは1926年、フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ(1876-1944)に出会う。マリネッティと初めて会った年については、1927年という説もあるそうだが、ともかくも10代の終わりか20代の初めくらいの年頃でマリネッティと出会い、1927年11月から12月にミラノのペーザロ画廊で開かれた「未来派画家34人」展に参加している。ムナーリが未来派に加わった経緯について、年譜には次のように書いてある。
フランコ・ランパ・ロッシに、未来派に推挙された後、トゥッリオ・ダルビゾラと知りあう。のち、ダルビゾラの工房で、他の未来派の芸術家とおなじように、陶芸作品を制作するようになる。(p. 342)
2018年の「ブルーノ・ムナーリ展」では、残念ながらこの時期のムナーリの陶芸作品は見られなかったのだが、未来派の仲間に加わり、創作活動を開始したようだ。
さて、どんな活動だったのだろうか…と、同展図録の、年譜以外のページを見てみる。論文がいくつか収録されているのだが、そのうちのひとつを書いた世田谷美術館学芸員の野田尚稔は「ブルーノ・ムナーリの理論的再構成」(pp.325-339)の中で、アレッサンドロ・コリッツィの博士論文(Bruno Munari and the invention of modern graphic
design in Italy, 1928-1945. Doctral Thesis, Leiden
University, 2011)を参照しながら、未来派に加わる直前のムナーリは、「製図を描く仕事に就きつつミラノでの生活を始め、次第に広告デザインを手掛けていった」(p.328)と記している。若い頃のムナーリは、製 “図”、そして、デザイン(=“図”案)というように、“図”を描く仕事をしていた。絵画作品(タブロー)に比べ、それらの図は、画面に描き込まれたものの形や色が記号により近いことや、経済活動へとダイレクトにつながっていることがおおよその傾向として言えると思うのだが、ムナーリの仕事は、そうした“図”に近いところから始まっていたことがわかる。
年譜に戻ると、未来派のグループ展に初めて参加した翌年にあたる1928年3月31日には、「サッスとともに「ダイナミズムと筋肉改革」絵画宣言に署名」(p.342)し、同年12月23日から翌年の1月15日にはマントヴァのシエンティフィコ劇場で開催の「未来派、ノヴェチェント、郷土派芸術」に参加している。未来派に加わってすぐに、どんどん発信を始めている。
ふぅん…ムナーリってすごいなぁ…などと思いながらさらに年譜を読み進めていくと、1929年ヴァレーゼ市立図書館で、ムナーリを中心とするグループ展が開催されている。この年の展覧会データによると、6月10日から25日の「未来派芸術展 ロンバルディアのラジオ未来派グループ」というものだ。また、同じ年の10月にミラノで、12月から翌年1月にかけてはパリで、作品展示に参加。
1929年は作品展示に加え、12月12日にローマで上演された、マリネッティの「裸のプロンプター」で舞台装置と衣装を担当。戯曲「裸のプロンプター」が雑誌『コモエディア』に掲載されるときには、挿絵をムナーリが描いている。また、ジュゼッペ・ロメオ=トスカーノ著『羽のない鷲』で、表紙と挿絵を担当している。
こんなふうにして、ムナーリが活躍を始めた頃、レオーニはまだ高等学校の生徒だった。「レオ・レオーニ 年譜」によると、1926年にヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世商業技術高等学校に入学。年譜には、次のように書いてある。
クラスメイトのアッダ・マッフィとその兄妹たちと交流。彼らの父ファブリーツィオは医師であると共に共産党員で、ファシスト政権の弾圧で一時投獄されていた。こうした環境下でレオも自ら共産主義を自任するようになる。(p. 216)
第一次世界大戦後のイタリアでは、1922年にムッソリーニの結成したファシスタ党が政権を獲得し、この時期のイタリアは、独裁体制が敷かれていた。後年の楽しい絵本作品からはちょっと想像しづらいのだが、2020年の「だれも知らないレオ・レオーニ」展は、1940年代・50年代制作の諷刺画を見せてくれて、当時の社会に対するシビアな眼差しが感じられたことが印象的だった。
1929年頃から広告デザインに興味を持つようになり、カンパリに作品を持ち込んでいる(しかし不採用)。作品の持ち込みだけではない。年譜を見ていると、1年の間によくぞそこまで、と感心してしまうほど、活発にトライ&エラーを繰り返している。
チューリッヒ大学経済学部の聴講生となり、スイスで下宿生活を送る。映画に強い関心を抱き、ローマの国立映画学校へ入学を希望するが、父に諭され1930年にジェノヴァに戻る。アルビソーラのトゥーリオ・マッツォッティの工房で陶芸を学ぶ。(p. 216)
芸術系の大学ではなく、しかも経済学部というのが意外である。映画に興味を持ち、しかし父に反対されてジェノヴァに戻り、だがそれでも未来派の一員であるマッツォッティの工房で陶芸を学んでいる。
ちなみに、トゥーリオ・マッツォッティは通称Tullio d’Albisola。Tullio d’Albisolaのカタカナ表記は筆者によって異なるようだけれども、1927年にムナーリが知り合い、のちにその工房で陶芸作品を制作するようになった、あの「トゥッリオ・ダルビゾラ」のことだろう。ムナーリから2年遅れて、レオーニも同じ工房で学んでいたのか!
年譜の続きが気になるが、もうだいぶ長く書いてしまった。今回は、ここまでとしておこう。
【書誌情報】
奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp. 342-357
「レオ・レオーニ 年譜」森泉文美・松岡希代子著『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp. 216-219 ※執筆担当者の表示なし
ニューヨーク近代美術館(MoMA)ホームページに、Tullio d’Albisola(Tullio Spartaco Mazzotti)の項目がある。オンラインで、彼がレイアウトを担当したマリネッティの詩集(https://www.moma.org/artists/6911)を見ることができた。
遠藤知恵子(センター助手)