2019年11月8日金曜日

創作(お話)

   ごきげんよう

 
 砂浜を、歩いていました。
波打ち際の砂は、波にすっかり(なら)されていて歩きやすく、一歩踏むごとに、しっとりと靴底に吸いつきました。
穏やかな昼下がりです。小さな雲がひとつ、まっさおな空に浮かんでいました。
(あ。しまった)
 空に見とれて、波をよけるのを忘れました。
靴と靴下を、海の水がじんわりと冷やしました。
波は、私の立っているところよりもう少し進んでから、さーっとひいていきました。
(まあ、いいか。きょうは暖かいから)
 私は、波が帰って行ったところ、つまり、水平線の向こうを見やりました。

 波が、また来ました。
「ごきげんよう、石ころさん」
 水の中で泡ができる音や、できた泡がはじける音にまぎれて、子どものような、甲高い声が聞こえました。
「はい、ごきげんよう。砂粒ちゃん」
 低い声が、ゆったりと答えました。
 波が、さーっとひいていきました。
 波が行ってからほんの少しだけ間をおいて、砂粒と砂粒の間から、しゅうう、と、波打ち際に残っていた水が抜けました。あたりは静まり、遠くから波の音だけ響いてきました。
(石ころさんに、砂粒ちゃん、か)
 私は、腰をちょっとかがめて、足元をよく見てみました。
 湿った砂の上には、割れた貝殻、海草のきれはし、ヤドカリ、それに、石ころ。
 波が来ました。
 水のうねりに乗って、新しい砂粒たちが、タイヤのようにくるくると回りながら、ゆるやかな砂の坂をのぼりました。
「ごきげんよう、石ころさん」
 石ころは、砂粒がぶつかってくるのをゆったりと受け止めました。
「はい、ごきげんよう。砂粒ちゃん」
 波が、さーっとひいていきました。
 また、静かになりました。波の音だけが、遠くから響いてきます。
 ヤドカリが、のろのろと石ころのほうへ歩きます。
 私は、腰をまっすぐに伸ばし、水平線の向こうを見やりました。
 波が来ます。
「ごきげんよう、石ころさん」
 砂粒の挨拶。
「はい、ごきげんよう。砂粒ちゃん」
 石ころの挨拶。
 波が、さーっとひいていきます。
 ヤドカリは少しずつ、石ころに近づきます。
 私は、眠たくなって、大きな欠伸をしました。
 石ころは私が欠伸をしたことに気がついたようでした。
「こらこら、きみ、こんなところで眠る気かい?」
 石ころの声は優しく、少し、笑いを含んでいました。
「いえ・・・そろそろ、帰ろうかな」
 私はもう一度、海を見ました。
「そうかい。じゃあ、帰る前に、砂粒ちゃんたちに挨拶なさい」
「ええ」
 私たちは、次の波が来るのを待ちました。
 のろのろと歩いていたヤドカリが、ようやく石ころのあるところまで来ました。
 ヤドカリは歩みを止め、ぼそぼそと呟きました。
「おれは知っているぞ。あんたの腹のどまんなかに、大きなひびが入っていることを。あんたはもうすぐ――」
 私はとっさに、ヤドカリをつまみ上げ、海に投げました。
 ヤドカリは、宙にゆるやかな弧を描いて、音もなく水の中に沈んでいきました。
 私は、石ころになにか話しかけようとしました。
「石ころさん」
 石ころは、返事をしませんでした。返事をする代わりに、泣き出しました。
「うおおおおん、うおおおおん、うおおおおん、うおおおおん・・・」
 私は、両方の掌で包むように、石ころを拾い上げました。
 石ころはあたたかでした。
(お日さまの熱だ)
 私は思いました。
 近くで見ると、ヤドカリが言ったように、石ころのまんなかに大きなひびが走っているのが分かりました。
 石ころは吠えるように泣きました。
(波の音みたい)
 私は石ころを撫でました。
 石ころの声はどんどん大きくなっていきました。大きくなればなるほど、遠くから響いてくる波の音に紛れて、どれが石ころの叫び声で、どれが波の音なのか、分からなくなりました。
 石ころはぶるぶると震えだしました。
「石ころさん」
 私が呼びかけた、ちょうどそのときに、石ころは、ぱかん、と、ふたつに割れました。
震えが止まりました。
ふたつに割れると、そのまま、石ころは崩れ、砂になって、私の手から砂浜へ、さらさらと落ちていきました。
こぼれ落ちた砂は、すぐにまわりの砂の水けを吸い込みました。ほかの砂粒と見分けることは、もう、できません。

波が来ました。
やって来た砂粒たちは、石ころがいないので戸惑ったようでした。けれども、やはり、言いました。
「ごきげんよう」
私も、答えました。
「ごきげんよう、砂粒ちゃん」
 波が、さーっとひいていきました。


児童文化研究センター助手 遠藤知恵子