2020年2月28日金曜日

【書評】向山貴彦著・宮山香里絵『童話物語(上) 大きなお話の始まり』、幻冬舎文庫、平成13年7月 向山貴彦著・宮山香里絵『童話物語(下) 大きなお話の終わり』、幻冬舎文庫、平成13年7月

 このお話に出てきた、この料理をどうしても食べてみたい。
 本を読んでいて、そんな風に思ったことがある人は多いのではないだろうか。
 わたしの場合、その料理はオムレツだった。

 オムレツが出てきたのは、向山貴彦による小説『童話物語』だ。『ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本』で注目を集めた著者のデビュー作で、クローシャという架空の世界を舞台にしたハイ・ファンタジーである。
 主人公は十三歳の少女ペチカ。裏表紙のあらすじで「極めて性格の悪い」と称されるように、何に対しても攻撃的。暖を取ろうと寄ってきた子猫を蹴飛ばして追い払い、その死体を家の前で見つけても「あんなとこで死ぬなんて迷惑」と言い放つ。しかし、ペチカを取り巻く環境も過酷だ。父親はおらず、母親も幼い頃に亡くなって、天涯孤独の彼女は町の教会で働いているのだが、雇い主の女性からは暴力を振るわれ、同世代の子ども達からも陰湿な苛めを受けている。
 そんな目を背けたくなるようなペチカの世界に、ある日善良で優しい妖精フィツが現れる。クローシャにおける妖精は初めて会った人間としかコミュニケーションを取ることができず、また、その人間を観察する役割を与えられているので、フィツはペチカのそばを離れることはできない。しかし、人間は妖精のことを疫病を撒き散らす化物だと思っており、ペチカはフィツを手酷く拒絶し、その誤解が解けても厄介者として冷たくあしらう。事実、フィツの存在が原因で、ペチカは故郷から逃げ出す羽目になる。
 辛い状況の中で、ペチカの心の拠り所となっているのは優しかった母の思い出だ。特に、大好物のオムレツを作ってもらった記憶は格別で、夢に見て「食べたいよ」と涙を流すペチカの姿には心が痛む。
 故郷から逃げたペチカは大きな町へ辿り着く。街中のレストランでオムレツを食べている客を見て、どうにかオムレツにありつこうと苦心するが、そのために窮地に陥ってしまう。そんな彼女を助けたのは、旅をしていた盲目の老婆だった。ペチカは最初、老婆を人買いか人食いだと考えて警戒するが、親切な老婆は見返りなしにペチカを助け、うなされているのを聞いてオムレツを作ってくれる。貧しく、色彩の乏しい景色の中で、卵の黄色が鮮やかに光る場面だ。ペチカは喜び、オムレツを独り占めしようとするが、老婆の計らいでフィツもオムレツを食べることができた。
 空腹も心も満たされた二人は、ようやく心を通わせ始める。ペチカにとって、オムレツは母との思い出の味というだけでなく、他者から受けた優しさの象徴となったのだ。
 卵料理からはじまったペチカとフィツの道行きを、ぜひ見届けてほしい。

 ちなみに、わたしは小さい頃卵アレルギーで、成長して耐性がついてから、やっと憧れのオムレツにありつけたのだが、感想としては「なんかちがう」だった。
 それでも、この本の中のオムレツは今読み返してもとびきり美味しそうなのである。

この書評は、2020年春に開催された書評コンクールの応募作品です(書評番号6)