2021年6月25日金曜日

ホタルブクロと歩く鳥


 6月も残すところあとわずかとなりました。皆さま、お元気でお過ごしでしょうか?

 一号館・本館から図書館に向う途中で工事をしているため、芝生の上を通り、木々の間を迂回していくと、ホタルブクロが咲いているのを見ることができました。

 可憐に咲く姿に心を惹かれ、思わず写真に撮ってしまいました。

 また、キャンパスには、対面授業を受けに来る学生の姿にまじり、こんな方も、芝生の上をトコトコと歩いています。

拡大してみると…

 シロツメクサの花の間を歩く鳥。

 鳥の名はたぶんハクセキレイ。その歩みはよく見ると意外に力強く、前だけを見て一心不乱に進みます。

 花や鳥のために足を止めたついでに、よく目を凝らしてあたりを見回すと、思っていたよりもずっとたくさんの、美しいものたちに囲まれていることに気がつきました。

 曇りと雨とを行き来する梅雨特有の気候に加え、まだまだ落ち着かない情勢は続いてしまいそうですが、皆さま、どうぞご自愛ください。

2021年6月10日木曜日

エッセイ イメージを散歩する

(4)AKI INOMATA 「貨幣の記憶」「彫刻のつくりかた」

 

 この二つの個展は行かなかったら絶対に後悔すると思い、除菌セット一式を鞄に詰め込み、電車を乗り継いで出かけた。

 「貨幣の記憶」展は渋谷区神宮前のMAHO KUBOTA GALLERYで4月13日(火)から5月22日(土)まで開催。「彫刻のつくりかた」展は六本木のピラミデビル4階で6月1日(火)から14日(月)まで。

現代美術作家のAKI INOMATAさんはヤドカリやミノムシ、犬、オウム、ビーバーといった生き物たちとの協働で制作を行なっている。一昨年から昨年にかけて十和田現代美術館で開催した「AKI INOMATA Significant Otherness-生きものと私が出会うとき」展(2019年9月14日(土)-2020年1月13日(月))も面白かった。会場にいたミノムシやヤドカリたちのことをいっぺんに好きになった。

大人になってから研究というかたちで児童文学・児童文化と出会い直し、その他者性(otherness)と日々向き合っている身としては、生き物たちの生活の環に触れながら制作するINOMATAさんのスタイルに、いつも励まされる。また、児童文学作品には大人向けに書かれた小説よりずっと多くの生き物が登場する。INOMATAさんの共同制作者たち―プロジェクトの中で淡々と自らのライフワークをこなす生き物たち―に、親しみを覚えるのである。

 

「貨幣の記憶」

 「貨幣の記憶」は2018年から現在も進行中のプロジェクトのタイトル。プレスリリースによれば、「貨幣の化石をつくりたい」と考えたことがきっかけになったのだそうだ。

 真珠母貝に人の肖像―エリザベス女王、ジョージ・ワシントン、福沢諭吉といった各国の通貨の“顔”となっている人たちの肖像―を核として挿入する。すると、貝殻の内側に暮らすあの生き物が外套膜と呼ばれる器官から真珠質を分泌し、核を覆い、さらにその上に真珠層を形成していく。出来上がった作品は、光沢のある貝殻の内側に、レリーフのように人物の形が浮き上がっている。ネックレスなどに使われる、まるい真珠は、内臓膜を切開して外套膜の切れ端と核を生き物の体内に埋め込むという”手術”をして作る=作らせるが、レリーフ状の人物像を見た限り、たぶん真珠の作り方=作らせ方が違うのだろう。生き物の身になって想像してみるに、一つの核を中心としてぐるりと真珠質で覆ってしまうのではなく、自前の貝殻に載った核の上に塗り重ねるようにして層を重ねていくのだろう。従って、真珠層の向こう側には核という名の“中心”の代わりに、核を含んだ“下の層”があり、最後は貝殻の一番外側にたどりつく。この層の構造が、「貨幣の化石」たるゆえんなのではないかと思う。

 真珠が化石ではないことは、生き物や考古学の専門家でない私だって知っている。だから「化石」という言葉は紛れもない比喩なのだが、中心のない「貨幣の記憶」の、その真珠化した肖像は観る者の意識を、より深いところへ、古い層へと向けさせるのではないだろうか。真珠層を地層に見立てるなんていかにも無粋だが、この構造が、意識の向いている方向・流れをふっと変化させる。求心的ではなしに、層を一枚一枚はぐように、その深いところへ、こころが潜っていく。真珠化という生き物の営みは、そうした動きを含んだメタファーとして働いている。

それと、もう一つ付け加えるなら、真珠がヒトの手に載るとき、それは真珠層を制作した生き物の死を暗示する。ある“もの”が化石になるとき、その“もの”は、生活の痕跡をとどめてはいるものの、既に死んでいる。

レリーフ状の真珠の形態や、それを作った生き物のその後のことなどに思いをめぐらせながら、ふと、「そうか、これは詩なのだ」などと思いつく。私たちがふだん貨幣に抱く関心はひどく散文的だが、光沢を放つ肖像の浮き上がる貝殻や、床の上に岩や貝殻や珊瑚のかけらなどとともに配置されたモニター―海中を肖像の浮き上がった貝殻が舞うさまや、水底の様子を映し出す―は、ただ、物体としての豊かさをなみなみとたたえていた。人に意味を伝えるために痩せさせられた言葉とは違っている。かしましい意味の世界からちょっと離れて、海のなかを泳ぐように、舞うように、それらは人間の鼻先をかすめ、戯れている。

 

「彫刻のつくりかた」

 会場内のガリゴリという音がいかにも楽しい。樹木を齧り、ダムをつくる習性をもつビーバーに木材を託し、齧ってもらう。そうして出来上がったかたちを人間が模刻したり、機械を使って拡大コピーしたりしながら「作品」に対する「作者」であるとか、「作る/作らせる」であるとかいったものの関係性の曖昧さを明らかにしている。このプロジェクトはそうしたビーバーと人間との協働によって進んでいくものなのだが、今回は木材にカミキリムシの幼虫が暮らしていたことが分かり、ヒトの営みとビーバーの営みを、さらにまた別の角度から相対化している。

 会場では、ビーバーが齧った木や、ビーバーの造形に倣って人間が削ったり機械に削らせたりした木が、床の上に配置してあった。ビーバーの齧り跡をよく観察するためには、屈まねばならない。ビーバー・スケールの追体験である。

会場にしばらく身を置いて、ビーバーが齧った木材の罅(ひび)を見て、ビーバーの歯が奏でるガリゴリ、ガリゴリという音(この音も、展示のためにデザインされたもの。れっきとした展示空間の一部である。録音の現場には他の動物たちもいたようで、その声も聞こえた)を聴き、さらにカミキリムシのトンネルを映した画像を見ていると、一つ、気づくことがある。

「あ。このひとたちには関係ないんだ。」

 そう、「作品」だの「作者」だのといった概念は、ビーバーやカミキリムシには関係ない。一方が他方にとっての”環境”を用意する、という関係はあるけれど、でも、何らかの概念を意識して、生き物たちが仕事をしているわけではないはずだ。ヒトの仕事とは関係なく、ビーバーはビーバーの仕事をしている。そして、ビーバーの仕事とは関係なく、カミキリムシが木材の内部に棲みつき、せっせと齧って細長い穴を穿っていく。彼らによる造形を人は面白がり、「作品」生成のプロセスに組み込むけれど、彼らは木材を作品として残すことを意識していない。ビーバーやカミキリムシの齧った木材のうちのいくつかは乾燥し収縮することに耐えられず、いずれ割れてしまうかもしれない。だが、だから何だと言うのだろう。彼らには関係ない。そのことが何だかとてもおかしく、また、健やかなことに思えた。

 

遠藤知恵子(児童文化研究センター助手)

2021年6月4日金曜日

緑のなかに

 6月に入り、キャンパスの紫陽花が可憐な花を咲かせています。センターでパソコンを前に作業している間も、窓からは、大学を訪れるカルガモ夫妻や、シジュウカラ、キジバトの声がきこえます。こちらの猫さんも、そんな鳥たちの声に耳を澄ませている様子。緑のなかに佇んでいました。


2021年5月26日水曜日

【本の紹介】

アーネスト・ハワード・シェパード『思い出のスケッチブック 『クマのプーさん』挿絵画家が描くヴィクトリア朝ロンドン』永島憲江訳、国書刊行会、2020年

 



幸福な記憶

1879年生まれの著者アーネスト・ハワード・シェパードの、7歳から8歳の頃の思い出を記した本だ。ヴィクトリア朝ロンドンの上流階級の子ども期が活き活きと語られ、世紀末の屈託は、ここにはまだない。姉のエセル・兄のシリルと一緒に、アーネスト少年が大人たちに守られ、「子どもであること」を謳歌する姿がある。

本書に登場する印象的な場所や人、そして物を挙げていくときりがない。シェパードの過ごした場所――暮らすための家であり、シェパードたちきょうだいの遊び場でもあった「ケント・テラス十番の家」、ケンブリッジ対オックスフォードのボートレースのたびに揚がる旗の見えるパーク・ロード――、通り沿いに連なるお店や、街で働く人々、初等学校で雨の日だけ使わせてもらえた闘鶏のおもちゃ、潰して食べた菓子パン等々、読者はシェパードの巧みな挿絵に助けられながら、その時・その場所で起きたできごとや見聞きしたものごとを、話し言葉に近くまた的確な文体によって追体験することができる。

この本の翻訳者、永島憲江さんは、2012年に『ネズビット作品における衣服の役割 ファンタジー児童文学のひとつの研究法として』という論文で博士号を取得した。博士論文では、ファンタジー文学を読み解く手がかりとして、ネズビット作品に登場する子どもたちの衣服に注目し、論じている。衣服に関する規範はその時代・その地域の文化的・社会的状況の中で作り上げられていくものだが、ファンタジー児童文学の中でも、その物語世界に固有のルールに基づき、様々な役割を果たしているのだそうだ。

永島さんは論文中で、ネズビット作品における衣服のさまざまな役割を示している。タイム・トラベルの手段としての衣服。変装し、ごっこ遊びをする子どもの衣服。衣服は時に日常から子どもたちを解放し、時に子どもの自由な身体の動きを抑制する。さらに、子どもたちは衣服がもたらす快・不快によって自己の存在を確認することができる。

物語に登場する衣服はまた、それを着る子どもたちの身体そのものに働きかけ、変化させる。子どもたちはその衣服によって、透明人間や蟻、大理石になる。衣服は怪奇的幻想の源泉にもなるという。

瀬田貞二がネズビットの特質を「子どもの見方にかなう触覚的リアリズム」(183)と仮に呼んで論じていたことが思い出されるが、永島さんの論じた衣服は、瀬田の「触覚的リアリズム」よりももっと実感がこもっている。衣服は私たちが身にまとい、持ち運ぶ“空間”の最小単位だ。場面ごとに特有の空気を身体に一番近いところで決定づけるし、それ自体で、物語に対して役割を背負っている。小さいけれど最も基本的な要素である衣服が、作品のなかでいかに機能するか、永島さんの博士論文は教えてくれる。

そんなわけで、『思い出のスケッチブック』を読んでいる間も、博士論文で永島さんが追究された衣服に関する議論が思い起こされて楽しかった。

例えば、コットンのフロック(七分丈ほどの上着)について書かれた、この部分。

 

フロックの両肩にはチェックの蝶むすびリボンが、お腹のまわりにはチェックのサッシュがついていた。その下には小さなドロワーズ[ズボン型の下ばき]をはいていたが、小さい子の脚にはかなりきゅうくつだったし、ちくちくした。パーティーへ行くときは母さんがぼくの髪の毛をカール用アイロンでよくカールさせていた。(5)

 

コットンのフロックについては、訳者あとがきで言及されている。普段は動きやすく着心地の良い服装をしていたアーネストたちだが、お出かけのときはよそゆきの服装ならではの窮屈さがあったようだ。シェパードの回想には折に触れて服装に関する言及があり、その場の空気を感じさせてくれる。安定して破れ目のない翻訳の文体にも助けられ、その時・その場所の空気が、この一冊の本に封じ込められているのである。

当時の様子を詳しく記憶し、語り、また挿絵によって示してくれる本書だが、そうして語られていることはどれも、時間の波に洗われて純化され、結晶化した思い出だ。浜辺に拾うガラス片のように、幸福な記憶が優しい光を放っている。大切に読みたい。

 

引用文献

瀬田貞二『児童文学論 ―瀬田貞二 子どもの本評論集―』上巻、福音館書店、2009年

 

 

遠藤知恵子(センター助手)

2021年5月20日木曜日

猫村たたみ×熊沢健児 トークセッション

書評コンクール2021春 猫村たたみ×熊沢健児 トークセッション


猫村たたみ
(三文庫の守り猫)
猫村:皆さま、ご機嫌いかがかにゃ? センター三文庫の守り猫、猫村たたみですにゃ!

熊沢:どうも、熊沢健児です。

猫村:今回の書評コンクールも、素敵な力作ぞろいにゃね~。

熊沢:そうだね。ご応募くださった皆さま・ご投票くださった皆さまに、心よりお礼申し上げます。

熊沢健児
(名誉研究員)

猫村:ありがとうございますにゃ!

熊沢:早速、第4回コンクールの振り返りを始めよう。

猫村:「タンタンの冒険」シリーズを紹介したピアノさんの書評(書評番号1)、チャーミングだったのにゃ~。

熊沢:そうだね。ハドック船長についての、「この人と結婚したらかなり苦労しそうだけれども、親友だったら楽しそう」というコメントから始まるこの書評、ピアノさんがこの作品に抱く「好き」の気持ちが、最初にすーっと伝わってくる。

猫村:ハドック船長の人物像も思い描くことができるのにゃ。そして、作品の魅力の一つ、登場人物が交わす会話の楽しさについて、説明しているのにゃ!

熊沢:うん。ピアノさんはその中でも特に、ハドック船長の言葉遣いに注目しているね。「なんとナントの難破船」や「コンコンニャローのバーロー岬」という台詞は確かに面白い。決して上品とは言えないけれど、こっそり真似して呟いてみたくなってしまうね。

猫村:にゃんとニャントのにゃんぱせん(=なんとナントの難破船)! 楽しいのにゃ!

熊沢:いやいや、それじゃ地口になってないよ。「ナント」は地名だよ。「ニャント」と言ってしまったら、わけが分からないよ。

猫村:そうかにゃ? にゃ~む…にゃったら、私もフランス語を習いますにゃ!

熊沢:Bon courage!(がんばって!)

猫村:メルシーにゃっ。

熊沢:『チリンのすず』を紹介した勝又さんの書評(書評番号2)、お話の内容を丁寧に紹介しているけれど、結末が分からないよう、「人間の感情」というキーワードを用いて作品を考察している。まだ読んだことがない人のために工夫しているんだね。

猫村:そうにゃね~、さすがなのにゃ。

熊沢:羊のチリンが主人公ということで、ふんわりした暖かな物語を連想してしまいそうになるけれど、この『チリンのすず』はちょっと違うみたいだね。

猫村:にゃ!

熊沢:勝又さん曰く、登場する羊と狼には、人間と同じ感情(「人間の感情」)が与えられている。物語に登場する羊と狼が、人間さながらのドラマを繰り広げるんだね。主人公のチリンは母親の仇討ちと、仇である狼との師弟関係との間で、どんな決断を下すんだろう。

猫村:にゃ~む、気になるのにゃ。

熊沢:うん。でも、結末は言わないよ。

猫村:あとで図書館で借りて読むのにゃ。

熊沢:うん。

猫村:ところでにゃ、三井さんの『魔女がいっぱい』の書評(書評番号3)は愉快なのにゃ!

熊沢:そうだね。全7本の書評作品のうち、唯一、敬体(ですます調)で呼びかけるように書かれているね。読者参加型の書評だね。

猫村:にゃ! 私たちも参加するのにゃ。熊沢君は、「魔女」と聞いたらどんなイメージを思い浮かべますかにゃ?

熊沢:うーん。草木の茂る森の入り口に小屋を建てて暮らしていて、庭で薬草を育てたり、ときどき産婆さんみたいなことをしたり…民間医療の担い手というイメージかな。

猫村:にゃにゃ? 空飛ぶ箒や黒猫などではないのにゃね。熊沢君は、『魔女・産婆・看護婦―女性医療家の歴史』(バーバラ・エーレンライク+ディアドリー・イングリシュ著、長瀬久子訳、法政大学出版局、2015年)を読んだのかにゃ?

熊沢:え? あ、いや、民間医療というのは私の勝手なイメージで…『魔女・産婆・看護婦』か。そういう本があることは、知らなかった。

猫村:熊沢君は素直にゃ。

熊沢:実際、魔女は欧米の女性の歴史を語る上でも重要な主題の一つだけど、児童文学でもやはり、欠かせないモチーフだね。

猫村:そうにゃね。児童文学に登場する魔女も、バラエティに富んでいて興味深いのにゃ。

熊沢:『魔女がいっぱい』の魔女たちは子どもが嫌いで、国中の子どもを滅ぼすという恐ろしい計画を立てている。だけど、三井さんの文章はむしろコミカルで、「なんということでしょう!」などと、オーバーリアクション気味に慨嘆してみせる。

猫村:そうなのにゃ! 文章から、コミカルな身振りを感じられるのにゃ。

熊沢:ところで、2015年度に、児童文化研究センターで「子どもの本に描かれる魔女プロジェクト」が活動していたよね。

猫村:センター叢書に、『子どもの本と魔女(暫定版)』という冊子があるのにゃ。プロジェクトメンバーが魔女の登場する本を約300冊読破して、その中から子ども向けの作品256点を取り上げ、作品ごとの解題と「魔女スペック」を作品ごとに紹介しているのにゃ。

熊沢:うん。『魔女がいっぱい』の解題および魔女スペックも載っているから、センターにお立ち寄りの際にはぜひ確認してみてください。

猫村:三井さんの書評のおかげで、懐かしいプロジェクトを振り返ることができたのにゃ。

熊沢:うん。研究って、振り返ることが大事だよね。

猫村:にゃ!

熊沢:赤坂恵里さんの『都会(まち)のトム&ソーヤ①』書評(書評番号4)は、この夏に公開予定の映画の原作。タイムリーだね。

猫村:タイミングって大事なのにゃ。

熊沢:うん。先ほどの三井さんと同様、赤坂さんの書評も「ご存知だろうか」と問いかけるような言葉遣いによって始まるのだけれど、赤坂さんの場合、コール&レスポンスのような読み方を意図しているわけではないみたいだね。

猫村:にゃ! 読者の意識を書評に向けてもらって、その上で、作品概要、主人公である内人と内人の相棒となる創也がそれぞれ抱えている課題、そして作品全体に流れるテーマを、テンポよくたたみかけるように述べているのにゃ。

熊沢:7本の書評の中で、最もスピード感のある文章だったと思う。

猫村:かっこいいのにゃ!

熊沢:そうだね。この作品のエンターテインメント性を、テンポの良い文章を通じて伝えつつ、主人公にとっての「冒険」の意味、すなわちこの作品の核心部分を、エリクソンを引き合いに出しながら過不足なく伝えているね。

猫村:あと、赤坂さんは映画の情報も記載してくれているのにゃ。

熊沢:そうそう、これは親切だと私も思った。

猫村:公開日に変更がないとも限らないのにゃけど、観たい人にとってはいつ頃に劇場情報をチェックすれば良いかの目安になるのにゃ。映画館に足を運ばれる方は、事前に公式サイトをお確かめの上、感染症対策をばっちりしてくださいませにゃ~。

熊沢:そうだね、事前確認と感染症対策はマストです!

猫村:次は熊沢君の書評にゃね(書評番号5)。ドリアン助川さんの『あん』なのにゃ。

熊沢:いきなりだけど、実は、私は明石海人の星や鉱石の短歌が好きなんだ。「涯もなき青空をおほふはてもなき闇(くら)がりを彫(ゑ)りて星々の棲む」という歌をアンソロジーの中に見つけて、一瞬で心を奪われた(アンドレ・ブルトンほか『書物の王国⑥ 鉱物』国書刊行会、1997年 p.111)。

猫村:そうにゃったの。

熊沢:うん。明石海人はハンセン病を患っていた歌人だから、それ以来、ハンセン病と文学について、時々機会を作っては少しずつ勉強しているんだ。

猫村:それで『あん』を取り上げたのかにゃ?

熊沢:うん。『あん』は現代の作品だったけど、これからは時代を遡って全集に収録されている作品は一通り読もうと考えている。戦時中のハンセン病文学については、プロパガンダに利用された側面が大いにあるから、一筋縄ではいかないけれど…。

猫村:にゃ~む。ゆっくり学んでいけば良いのにゃよ。じっくり取り組んでにゃ~。

熊沢:うん。より深く広く知っていくことで、『あん』に対する私の見方や感じ方も変化すると思う。

猫村:そうにゃね。

熊沢:次の『怪談・骨董』の書評(書評番号6)だけど、センター助手の遠藤さん、怪談が好きだったんだ…。

猫村:私、怖い話は苦手なのにゃよ~。

熊沢:え…でも君、猫またじゃなかったっけ? 妖怪トンネルを使って時間旅行もしているよね?

猫村:妖怪トンネルを使っているのは気心の知れたご近所さんばかりなのにゃ!

熊沢:そうなんだ。

猫村:私だって、怨霊は怖いのにゃ(ブルブル…)。

熊沢:そうか。でも、君の『おおかみと七ひきのこやぎ』を取り上げた書評(書評番号7)だって、怖かったよ。

猫村:そうかにゃ?

熊沢:おかあさんやぎとこやぎたちがおおかみの腹に石を詰め込むシーンは、君の言う通り確かに楽しそうで、和気あいあいとした雰囲気の中、おおかみを死に追いやろうとしている。だけど、どうしてそういうところにピントを合わせるのだろうかと、疑問に思った。

猫村:にゃ~む、言われてみれば…どうして私はその場面に注目したのかにゃ? もしかしたら、『マイリトルゴート』を踏まえて、書評を書いたからかもしれないのにゃ。

熊沢:そうか。映像作品は原作の読み方にも作用するからね。

猫村:映像化された作品を見る前と後では、原作との向き合い方も変化するのにゃ。

熊沢:そうだね。一つの作品に対する、自分の読み方が変わっていくことはすごく楽しいし、大事なことでもあるね。さて、ここまで、全7作品を振り返りました。

猫村:楽しかったのにゃ! 皆さま、最後までお付き合いいただきありがとうございましたにゃ。

熊沢:ありがとうございました。

猫村:書評コンクールは夏にも開催するのにゃ。

熊沢:皆さま、どうぞふるってご参加ください。

猫村:よろしくお願いいたしますにゃ!

第4回書評コンクール 結果発表

 

書評コンクールの投票結果を発表いたします。

・書評番号1 ピアノ(一般)・・・・・・・・・・・得票数3

・書評番号2 勝又 芽依(学生)・・・・・・・・・得票数2

・書評番号3 三井 彩愛(学生)・・・・・・・・・得票数1

・書評番号4 赤坂 恵里(学生)・・・・・・・・・得票数1

・書評番号5 熊沢 健児(ぬいぐるみ・名誉研究員)得票数4

・書評番号6     遠藤知恵子(その他)・・・・・・・・得票数0

・書評番号7  猫村たたみ(三文庫の守り猫)・・・・得票数0

 

 優勝は、書評番号5、『あん』の書評を書いた、熊沢健児氏に決定いたしました。

 作品応募や投票にご参加くださった皆さま、いつも見守ってくださる皆さまに、心よりお礼を申し上げます。

2021年4月30日金曜日

センター閉室のお知らせ

児童文化研究センターは、5月3日(月)から7日(金)まで閉室とさせていただきます。
ご不便をおかけいたしますが、なにとぞご了承くださいませ。

新緑の美しい季節となりました。
どうぞお体にお気をつけてお過ごしください。