(4)AKI INOMATA 「貨幣の記憶」「彫刻のつくりかた」
この二つの個展は行かなかったら絶対に後悔すると思い、除菌セット一式を鞄に詰め込み、電車を乗り継いで出かけた。
「貨幣の記憶」展は渋谷区神宮前のMAHO KUBOTA GALLERYで4月13日(火)から5月22日(土)まで開催。「彫刻のつくりかた」展は六本木のピラミデビル4階で6月1日(火)から14日(月)まで。
現代美術作家のAKI INOMATAさんはヤドカリやミノムシ、犬、オウム、ビーバーといった生き物たちとの協働で制作を行なっている。一昨年から昨年にかけて十和田現代美術館で開催した「AKI INOMATA Significant Otherness-生きものと私が出会うとき」展(2019年9月14日(土)-2020年1月13日(月))も面白かった。会場にいたミノムシやヤドカリたちのことをいっぺんに好きになった。
大人になってから研究というかたちで児童文学・児童文化と出会い直し、その他者性(otherness)と日々向き合っている身としては、生き物たちの生活の環に触れながら制作するINOMATAさんのスタイルに、いつも励まされる。また、児童文学作品には大人向けに書かれた小説よりずっと多くの生き物が登場する。INOMATAさんの共同制作者たち―プロジェクトの中で淡々と自らのライフワークをこなす生き物たち―に、親しみを覚えるのである。
「貨幣の記憶」
「貨幣の記憶」は2018年から現在も進行中のプロジェクトのタイトル。プレスリリースによれば、「貨幣の化石をつくりたい」と考えたことがきっかけになったのだそうだ。
真珠母貝に人の肖像―エリザベス女王、ジョージ・ワシントン、福沢諭吉といった各国の通貨の“顔”となっている人たちの肖像―を核として挿入する。すると、貝殻の内側に暮らすあの生き物が外套膜と呼ばれる器官から真珠質を分泌し、核を覆い、さらにその上に真珠層を形成していく。出来上がった作品は、光沢のある貝殻の内側に、レリーフのように人物の形が浮き上がっている。ネックレスなどに使われる、まるい真珠は、内臓膜を切開して外套膜の切れ端と核を生き物の体内に埋め込むという”手術”をして作る=作らせるが、レリーフ状の人物像を見た限り、たぶん真珠の作り方=作らせ方が違うのだろう。生き物の身になって想像してみるに、一つの核を中心としてぐるりと真珠質で覆ってしまうのではなく、自前の貝殻に載った核の上に塗り重ねるようにして層を重ねていくのだろう。従って、真珠層の向こう側には核という名の“中心”の代わりに、核を含んだ“下の層”があり、最後は貝殻の一番外側にたどりつく。この層の構造が、「貨幣の化石」たるゆえんなのではないかと思う。
真珠が化石ではないことは、生き物や考古学の専門家でない私だって知っている。だから「化石」という言葉は紛れもない比喩なのだが、中心のない「貨幣の記憶」の、その真珠化した肖像は観る者の意識を、より深いところへ、古い層へと向けさせるのではないだろうか。真珠層を地層に見立てるなんていかにも無粋だが、この構造が、意識の向いている方向・流れをふっと変化させる。求心的ではなしに、層を一枚一枚はぐように、その深いところへ、こころが潜っていく。真珠化という生き物の営みは、そうした動きを含んだメタファーとして働いている。
それと、もう一つ付け加えるなら、真珠がヒトの手に載るとき、それは真珠層を制作した生き物の死を暗示する。ある“もの”が化石になるとき、その“もの”は、生活の痕跡をとどめてはいるものの、既に死んでいる。
レリーフ状の真珠の形態や、それを作った生き物のその後のことなどに思いをめぐらせながら、ふと、「そうか、これは詩なのだ」などと思いつく。私たちがふだん貨幣に抱く関心はひどく散文的だが、光沢を放つ肖像の浮き上がる貝殻や、床の上に岩や貝殻や珊瑚のかけらなどとともに配置されたモニター―海中を肖像の浮き上がった貝殻が舞うさまや、水底の様子を映し出す―は、ただ、物体としての豊かさをなみなみとたたえていた。人に意味を伝えるために痩せさせられた言葉とは違っている。かしましい意味の世界からちょっと離れて、海のなかを泳ぐように、舞うように、それらは人間の鼻先をかすめ、戯れている。
「彫刻のつくりかた」
会場内のガリゴリという音がいかにも楽しい。樹木を齧り、ダムをつくる習性をもつビーバーに木材を託し、齧ってもらう。そうして出来上がったかたちを人間が模刻したり、機械を使って拡大コピーしたりしながら「作品」に対する「作者」であるとか、「作る/作らせる」であるとかいったものの関係性の曖昧さを明らかにしている。このプロジェクトはそうしたビーバーと人間との協働によって進んでいくものなのだが、今回は木材にカミキリムシの幼虫が暮らしていたことが分かり、ヒトの営みとビーバーの営みを、さらにまた別の角度から相対化している。
会場では、ビーバーが齧った木や、ビーバーの造形に倣って人間が削ったり機械に削らせたりした木が、床の上に配置してあった。ビーバーの齧り跡をよく観察するためには、屈まねばならない。ビーバー・スケールの追体験である。
会場にしばらく身を置いて、ビーバーが齧った木材の罅(ひび)を見て、ビーバーの歯が奏でるガリゴリ、ガリゴリという音(この音も、展示のためにデザインされたもの。れっきとした展示空間の一部である。録音の現場には他の動物たちもいたようで、その声も聞こえた)を聴き、さらにカミキリムシのトンネルを映した画像を見ていると、一つ、気づくことがある。
「あ。このひとたちには関係ないんだ。」
そう、「作品」だの「作者」だのといった概念は、ビーバーやカミキリムシには関係ない。一方が他方にとっての”環境”を用意する、という関係はあるけれど、でも、何らかの概念を意識して、生き物たちが仕事をしているわけではないはずだ。ヒトの仕事とは関係なく、ビーバーはビーバーの仕事をしている。そして、ビーバーの仕事とは関係なく、カミキリムシが木材の内部に棲みつき、せっせと齧って細長い穴を穿っていく。彼らによる造形を人は面白がり、「作品」生成のプロセスに組み込むけれど、彼らは木材を作品として残すことを意識していない。ビーバーやカミキリムシの齧った木材のうちのいくつかは乾燥し収縮することに耐えられず、いずれ割れてしまうかもしれない。だが、だから何だと言うのだろう。彼らには関係ない。そのことが何だかとてもおかしく、また、健やかなことに思えた。
遠藤知恵子(児童文化研究センター助手)