2011年6月9日木曜日

【エッセイ】 ゆうす・かるちゃあ 「尾崎豊」についての思い出から

 没後20年という記念の年が近づいているからだろうか。最近、「尾崎豊」の曲を耳にすることが増えた。1992年4月に、尾崎豊さんが26歳で亡くなったとき、私は9歳だった。午後のニュース番組が、葬儀を報じていたのを覚えている。テレビの画面の向こうで、たくさんの若い人たちが泣き崩れていた。普段は見ないような、異様な光景だったので、隣に座って洗濯物をたたんでいた祖母に、「なにがあったの?」と尋ねた。
「尾崎豊が亡くなったの。この人は、若い人たちの気持ちを、代わりに歌ってあげてたんだよ。」
 このときの祖母の声には、同情がこもっていた。かつて保母をしていた(「保育士」が、まだ「保母さん」「保父さん」と呼ばれていた時代だ)祖母には、どことなく上から物を言うようなところがあるという印象を持っていたけれど、いつになく、優しい声だった。
 このニュースに接してから、「尾崎豊」という歌手の顔や名前と、その歌を、一致させて認識することができるようになった。と言っても、顔立ちのきれいな歌手だな、声が印象的で、真っ直ぐに力強く歌うのだな、という程度の認識で、小学校を卒業し、中学校、高校と、忙しく過ごしているうちに、「尾崎豊」のことは忘れていた。

 次に「尾崎豊」と出会うのは、2001年で、私は18歳になっていた。白百合に来る前、共学の大学に入学して、最初の夏休みだった。親睦会を兼ねた合宿で、食堂かどこか、皆が集まることのできる場所で喋っていた。つけっ放しのテレビがにぎやかだった。
そこにいた数人のうち、一人が言った。
「尾崎みたいに反社会的なことを歌ったって、なんにもなんねーよ。」
言ったのは当時18歳か19歳の男性だが、彼の頭の中には、盗んだバイクを乗りまわしてみたり、校舎の窓ガラスをぶち割ったり、といった、歌詞の中の暴力的なイメージ(ファースト・アルバム『十七歳の地図』(1983年)に収められた「15の夜」やセカンド・アルバム『回帰線』(1985年)収録の「卒業」など)があったはずだ。
ちょうどそのときである。テレビから《美少女戦士セーラームーン》(東映アニメーション制作、テレビ朝日系列、シリーズの放送期間は1992‐1997年)のオープニング・テーマが流れ出した。「尾崎嫌い」の青年は言った。
「この、いきなり“ごめんね”ではじまる歌詞は、斬新だよな。」
 今になって考えると、もしかしたら、彼は《美少女戦士セーラームーン》の「斬新さ」から、誰か尊敬するアーティスト(たぶん、前衛的な)を思い浮かべていたのかもしれない。あるいは、大学に入ったばかりで、創造的なことに挑戦したいと願う青年には、現状を打開するでもなく反抗を繰り返しているように見える「尾崎豊」という存在が疎ましくて、その反動で《美少女戦士セーラームーン》に斬新さを感じる、と言ったのかもしれない。「尾崎豊は嫌い」も、「セーラームーンは新鮮だ」も、彼が日頃まじめに考えていたことから導き出された結論、あるいは態度の決定だったのだろう。
ただ、私は、それから何となく、「尾崎豊」が気になり始めた。

 数年後、家で母の本棚にあった本を読んでいて、きたやまおさむ『みんなの精神科 ―心とからだのカウンセリング38』(講談社+α文庫、2000年)と出会った(母はフォーク・クルセダーズのファンで、特に北山修さんが好きだという。ちなみに、北山さんは本を書くときの名を「きたやまおさむ」とひらがな表記して、他の場面から区別している)。精神科医でもある著者は、覚醒剤使用による逮捕やアルコールの急性中毒状態など、尾崎さんが悩み、不慮の死を遂げるに至った原因とは何だったのか、と、考察していた。
その過程で、きたやまさんは『回帰線』収録の「シェリー」「存在」「卒業」などから、「日本人的な対人恐怖の気持ち」(88頁)や、「夢と現実の小賢しい区別を拒否する」(89頁)心性を読み取る。おもしろいと感じた指摘なので申し訳ないと思いつつ、大雑把に要約するならば、歌手・尾崎豊が持つこの二つの個性が、苦しみのもととなった。ファンは現実を拒否して夢を追い続けることを求める歌に共感し、ファンの視線が人一倍気になる尾崎さんはそれに応えたい。だが、共感を得て、歌手として成功すればするほど、現実を拒絶するような歌は作りづらくなる。なぜなら、尾崎さんが「夢と現実の小賢しい区別を拒否する」ということは、彼の作る歌は、ファンが期待するのとは違う、成功した歌手としての実生活を反映する歌へと変質せざるを得ないことになるからだ。
きたやまさん自身も歌手・尾崎豊のファンだが、というより、だからこそ、なのだろうか、「尾崎豊」へのファンの共感の仕方について、次のように少し厳しい指摘をしている。

対人恐怖症の彼が対人恐怖症を共有する聴衆にアピールするのは、私たちだって夢の中に逃避したいし、他者におもねることなくピュアな夢を大事にしたいと昔から思っていたからこそで、がんばって夢にしがみついている尾崎豊に共感を覚えたのです。(91頁)

夢にしがみつくことで成熟を拒否するという身振りは、社会人としては許されないのだが、それをマスメディアの架空の空間でやって見せるところに、ファンは共感した。大スターとして市場に出回る「尾崎豊」はこれでうまくいくが、個人としての尾崎さんはギャップに苦しみ、いっそう頑なに成熟を拒否することになり、実生活での葛藤はどんどんつらくなっていく。
私の祖母が言った、「若い人たちの気持ちを、代わりに歌ってあげた」ということに、別の側面から光を当てると、ずいぶん異なる相貌が見えてくる。人として成熟することを拒否して泥沼にはまっていくという挫折の仕方は、当人はもちろん、無関係の人間が見ていてもつらいし、惨めな気持になってくる。「ファンの共感」も、共感と言うよりは「傷の舐め合い」と言ったほうが良いように思えてくる。
こうしてみると、自分だって「尾崎豊」に負けないくらい繊細で、感受性豊かで、まじめなくせに、「尾崎嫌い」を表明する青年の気持ちも、分かる気がする。でも、分かろうとすればするほど、記憶の中に残っている、その姿が、「尾崎豊」と重なってしまう・・・。
と、すれば、である。嫌ったり、突き放したりするのではなしに、どうしたら、「尾崎豊」を越えることができるのだろう? そして、「尾崎豊」を越えたら、どこに、どこまで、行けるのだろう?

(研究員、遠藤知恵子)