2022年11月18日金曜日

ムナーリとレオーニ(26)

 1943年

 

 レオーニの年譜には1943年の記載がないので、今回も、読むのはムナーリの1943年の年譜のみ。

この年のムナーリには、写真に関わる話題が二つある。『写真イタリアの写真に関する活動についての初の検証』(ドムス出版グループ、ミラノ。本のタイトル、原文ママ)にムナーリの写真作品が掲載され、『フォトグラファーレ』(『ノーテ・フォトグラーフィケ』誌の定期購読者に無料配布された)に「絵筆を伴った写真」という記事が掲載される。この2誌については、図録に誌面の掲載は見られない。

前回は漫画のことが話題になり、今回は写真。ムナーリが『テンポ』誌のアートディレクターに就任したのは1939年のことだった。漫画も写真も雑誌には欠かせない表現様式であり表現媒体だから、この2年分の年譜を読んで「あ! ムナーリが、雑誌の人になってる。」と、思わず呟きそうになってしまったのだけれど、実際のところはどうだったのだろう。

 

【書誌情報】

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357

遠藤知恵子(センター助手)

2022年11月11日金曜日

ムナーリとレオーニ(25)

1942年

 

 この年、ムナーリはトリノのエイナウディという出版社から、『ムナーリのABCの本』と『ムナーリの機械』を出版している。この不定期連載を始めてかれこれ1年以上が経って、ようやく絵本の登場である…!

『ムナーリの機械』については、大学図書館でフランス語訳のものを読むことができる。図録の解説によると、この絵本は「漫画家ルーブ・ゴールドバーグが着想した装置に影響を受けた」絵本であり、また、ここに見られる「機械」は「学生時代に友人を笑わせるために考案し始めた」ものなのだという(執筆者TY=髙嶋雄一郎、p.143)。美術を専門とする研究者にとっては、この絵本は、ムナーリの一連の《役に立たない機械》シリーズの関連資料のような位置づけなのだろうか。

これまでにも何度か参照している太田岳人さんの論考の一つ、「漫画作品から絵本へ:『ムナーリの機械』の制作過程に関する一考察」(『早稲田大学イタリア研究所研究紀要』第9号、2020年3月、pp.1-28)によると、『ムナーリの機械』はエイナウディの「子供と青年の叢書」のうちの1冊だったそうだ。機関リポジトリで読めるPDF版の論文では図版が見られないのがもどかしいけれど、ユーモア紙『セッテベッロ』に掲載された1938年から1941年までのムナーリの漫画が、絵本『ムナーリの機械』の「機械」の原型になっているという事実がそれ自体で興味深い。また、ちょっと胡散臭いムナーリの「機械」に関する太田さんの説明が可笑しくて(胡散臭いものは、真面目に説明すればするほどかえって笑いを誘う)、論文を読んでいるはずなのについつい笑ってしまうのである。ファシズム政権下という背景を踏まえたうえで読み返すと、時には痛々しさも感じてしまうこの「笑い」について、正直、どう受け止めれば良いのか分からない。まずは手に届く範囲の資料をありのままに読んでいけたら、と思う。

さて、アメリカのレオーニはこの頃、どうしていたのだろうか。気になるのだけれども、レオーニの年譜は、1942年から1944年まで記載がない。

 

【書誌情報】

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357


遠藤知恵子(センター助手)

2022年11月3日木曜日

ミニ展示 11月4日~11月18日

 センター入り口で、センター蔵書のミニ展示を行っております。こちらの資料は、展示期間中も貸し出しをすることができます。どうぞお気軽にご利用ください。


展示中の資料

『こどもとしょかん』

東京子ども図書館 2022年秋

 

「児童図書館基本蔵書目録」全3巻完結を受けて、

今年8月に刊行された『知識の海へ』を中心とした特集が組まれています。

児童文化研究センターには既刊の目録のうち、『物語の森へ』(2017)が

あります。お手に取ってご覧ください。

ムナーリとレオーニ(24)

1940-1941年

  

 今回も、ブルーノ・ムナーリとレオ・レオーニの年譜を読もう。まずはムナーリ。

 1940年3月、ミラノのミリオーネ画廊で「ブルーノ・ムナーリの形而上のオブジェ」という個展を開催。また、5月から6月にかけて開催された第7回ミラノ・トリエンナーレでは、「近代のグラフィック・アートに関するセクションの展示プランを手がけ、ムナーリ自身も個別展示される」(p.344)とある。ムナーリはミラノ・トリエンナーレでどんな展示空間を作っていたのだろう。気になるけれど、図録からは分からない。また、『世界 空気 水 大地』を出版したということだけれど、これも、図録には見当たらない(1945年にモンダドーリ出版から子どもの絵本を7冊も刊行し、その後も子どもの本を手がけていたことを考えるなら、この『世界 空気 水 大地』も結構重要な資料だと思うのだけれど…)。それから、この年の9月には、息子のアルベルトが誕生している。翌年の1941年には「未来派原始宣言」に署名。12月に「原始グループ展」に参加。年譜には書いてないけれど、1940年6月、イタリアは第二次世界大戦に参戦している。

 一方のレオーニは、1940年の記述はなし。亡命先のアメリカで、生活の基盤を確かなものにしようと仕事に精を出していたのではないだろうか。1939年に就職したN.W.エイヤーで、1941年にはアートディレクターに昇進している。年譜にはレオーニが担当した企業として「ゼネラル・エレクトリック」や「CCA」が挙げられている。図録の説明によると、CCAはコンテイナー・コーポレーション・オブ・アメリカという段ボール箱製造会社とのこと(p.48 執筆担当:森泉文美)。年譜を読んでいて「CCA」の文字にはいまひとつピンと来なかったけれど、「段ボール」という言葉を見て、ようやく思い出した。展示を見たとき、CCAの一連の広告の中にインドネシアの影絵芝居をもとにデザインされたものがあって、ひどく新鮮だったのだ。

 ところで、図書館でたまたま手に取った『思想の科学』第16号(1963年7月。手塚治虫と加太こうじの対談記事が掲載されている号である)の共同討議の記事で、こんな発言をしている人がいた。

 

 デザインの問題で、ヨーロッパ、アメリカ等とすぐ例に出されるのがオリベッティのタイプライター。文化の基礎は文字ですから文字の記述を機械化するタイプライターで、世界の文化を引きづって(ママ)ゆくのだというような勢いだった。アメリカだとそれがパッケージング会社なんです。広い曠野を物を運ばなきゃならない。そこが一番デザインがしっかりしている。(p.12 発言者:川添登)

 

 ここでまず思い出されるのは、1931年にムナーリがリッカルド・リカスと立ち上げた「ストゥディオR+M」で、オリヴェッティ社と一緒に仕事をしていたこと。あと、発言者の言う「パッケージング会社」が、レオーニが担当したCCAのことなのかどうかは分からないけれど、『だれも知らないレオ・レオーニ』の解説によると、CCA創設者のウォルター・ペプケは、「グラフィックデザインの理論化に大きく貢献した、コロラド州アスペンでの国際デザイン会議を立ち上げたことでも有名」(p.48 執筆担当:森泉文美)とのこと。また、同じく解説によると、ペプケはアメリカのバウハウス派の擁護者でもあったそうだ。

イタリアとアメリカ。こうして年譜を読んでみると、ムナーリとレオーニは、それぞれの場所で、戦後の活躍につながる重要な流れの中にいたようだ。

 

【書誌情報】

「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357

報告・多田道太郎、司会・山田宗睦、出席者・今村太平・川添登・長谷川龍生「共同討議・中井正一『美と美学の将来について』」『思想の科学』第16号(1963年7月)、pp.2-19

 

遠藤知恵子(センター助手)

2022年10月28日金曜日

吉祥草と熊沢健児

 

曇り空のもと、熊沢健児氏がキャンパス内でピクニックをしています。



「今年も吉祥草(キチジョウソウ)が咲いたんだよ」と、熊沢氏。


熊沢氏が示す先には、咲き始めたばかりの可憐な花がありました。


目が慣れてくると、いくつもの花を見つけることができました。


※熊沢氏がピクニックシートの代わりに使っていたキッチンペーパーは、センターに戻った後、床のお掃除に再利用されました。

2022年10月27日木曜日

ムナーリとレオーニ(23)

1939年

 

 ブルーノ・ムナーリとレオ・レオーニ、二人のアーティストの展覧会図録の年譜をひたすら読み続けるというこの不定期エッセイ、3か月ぶりに再開したい。今回は1939年。この年は9月のドイツのポーランド侵攻を皮切りに、第二次世界大戦が始まった年である。

 1939年3月に、レオーニは父ルイスとともにアメリカに渡る。図録の解説には、アメリカ亡命を決めたときのレオーニの持ち物について、「唯一持参したものが、油画に打ち込む決心をした高校時代に購入したイーゼル」(執筆:森泉文美p.100)と書いてある。

レオーニは父のつてでフィラデルフィアの広告代理店N.W.エイヤー・アンド・サンの面接を受け、アートディレクターのアシスタントの職を得ると、直属の上司となったレオン・カープという人物から油彩画を学んでいる。就職と同時に、休日画家レオ・レオーニが誕生した。

なお、解説を読むと、レオーニが採用された決め手となったのは「彼の知的でユーモラスな人間性」(p.38 同上)だったようだ。そういえば、「だれも知らないレオ・レオーニ」展には、広告の没原稿というユニークな展示物があった。没になった理由が赤字でユーモアたっぷりに書き込まれた、ペン書きのイラストと短めの文章が組み合わされた原稿である。解説によると、こうした没原稿をあつめた没原稿集が、おそらく社内限定で、刊行されていたのだそうだ。「1案の承認に対し、少なくとも6案は描く必要がある仕事だったので大量の没が存在した」(p.44 同上)というから、日の目を見ないアイディアの数々も、明るく笑い飛ばしていたのだろう。この年の秋、妻ノーラ・長男ルイス・次男パオロもアメリカに到着し、フィラデルフィアでの一家の暮らしが始まった。

 一方、ムナーリはというと、この年の6月に創刊された『テンポ』誌のアートディレクターになっている。1939年の時点ではまだ、イタリアは第二次世界大戦に参戦してはいない。

『だれも知らないレオ・レオーニ』に収録された寄稿に、この時期のムナーリがさりげなく登場しているので、その部分をちょっと引用しておきたい。

 

1930年代後半のモンダドーリでは、チェーザレ・サヴァッティーニが複数の雑誌の編集長兼ライターとして活動し、ブルーノ・ムナーリがグラフ週刊誌『Tempo(テンポ)』の初代アートディレクターとして採用されている。第二次世界大戦後の、イタリアの芸術家や文化人の世界的活躍を準備した要素としても、この時代のメディア状況は改めて注目されるべきだろう。(p.37)

 

太田岳人「特別寄稿 両大戦間期のイタリアのメディア文化」

 

 モンダドーリは出版社の名前。ムナーリの1939年の年譜は、この『テンポ』誌のことと、参加したグループ展のことが書かれているのみ。記述は少ないのだけれど、レオーニと比べ、ムナーリは途切れなくキャリアを積み重ねているように見える。しかし、先ほどの太田さんも同じ寄稿の別の箇所で指摘しているのだが、両大戦間期のイタリアはファシスト党の支配下にあった。

 

ところで、去る10月24日はムナーリの誕生日だった。少し遅くなってしまったけれど、この記事をブログにアップし終えたら、温かいおしるこ缶を飲んでお祝いする予定である。

 

【書誌情報】

「レオ・レオーニ 年譜」『だれも知らないレオ・レオーニ』玄光社、2020年、pp.216-219 ※執筆担当者の表示なし

太田岳人「特別寄稿 両大戦間期のイタリアのメディア文化」同上、pp.36-37

奥田亜希子編「ブルーノ・ムナーリ年譜」『ブルーノ・ムナーリ』求龍堂、2018年、pp.342-357


遠藤知恵子(センター助手)

2022年10月20日木曜日

センター閉室のお知らせ

 児童文化研究センターは、白百合祭のため10月21日(金)から24日(月)まで閉室とさせていただきます。

 ご不便をおかけいたしますが、何卒ご了承くださいませ。

シマウマ氏とお散歩にでかける熊沢健児氏。
おやつの入ったポシェットをお忘れなく!